Ⅲ 曹達水のこと(2)
白いビニール袋を両手に提げて、私たちは寮の階段をひたすら上がる。蒼衣は、今時バリアフリーがなっていないとか、どうしてエレベーターを付けないのかと、文句を言いながらビニール袋を振り回して歩いている。
瑞希の部屋は最上階の角部屋で、もうとっくに通い慣れているはずなのに、この大荷物だとかなり遠く感じる。特に私の右手にぶら下がっている二リットルのペットボトルが重い。会計をしている時に蒼衣がどこからともなく持ってきたものだ。
どうにか部屋の前まで辿り着いて、ノックをしようとまごついていたら、蒼衣が横から思いっきりドアを叩いたのでびっくりした。そして返事を待つ素振りなんて一つも見せずに、彼女は合鍵を取り出すと、さっさとドアを開けて中に入っていった。
「もう一回訊くわ。どうしてこんなことを?」
奥のほうから声が聞こえる。やっぱりあのマネージャーさんが来ているのだ。しかし蒼衣はそんなことはまったくお構いなしといった感じで、ずかずかと奥に進んでいってしまう。私は戸惑いながらも彼女に続いた。
電気は点いていなかった。薄暗がりの中、最初に白っぽいスーツ姿の女の人が目についた。そして彼女の視線の先、ちょうどソファの向こう側の床に、瑞希が座っているのが見えた。ここからでは陰になって瑞希の頭しか見えないから、彼女が不貞腐れているのか、それとも鬱陶しさにただぼーっとしているだけなのかはわからない。
「黙っていたんじゃわからないでしょう?」
単調ではあったけれど、どことなく困っているような風に聞こえた。
「こんにちは」
遠慮なんてものは欠片も感じられない声を蒼衣が飛ばした。すると、女の人が振り向いた。その瞬間、私は彼女が槙原さんであることを思い出した。
「あら、あなたは――」
「三波です」
「草柳です」
「電気点けていいですか?」
おそらく装っているだけなのだろうが、この空気の中で、この無神経さには敬服する。槙原さんの返事が来る前に、蒼衣は電気のスイッチを入れた。当然のことながら、槙原さんは私たちをとても不審そうな眼で見ている。私は蒼衣ではないから、その視線が少し気になって、俯いてしまった。
「……鍵は、閉めておいたはずだけど?」
「閉まってましたよ」
あっ、と思ったけれど、時既に遅し。蒼衣は平然と答え、先ほど使った合鍵をちらつかせている。案の定、槙原さんは目を見開いた。
「え、どうしてそれを――」
「ええと、その……」
「合鍵ですよ」奥から瑞希の声が割って入る。「私があげたんです。規則で、禁じられていますね」
「瑞希、あなた何――」
「どうしますか? 槙原さん。また、理由が一つ増えましたよ?」
あまりに瑞希の声が鋭かったので、私は驚いてその場から動けなくなってしまった。蒼衣のほうを見ても、彼女は相変わらずよくわからない顔をしているだけだ。
槙原さんは言葉もないといった感じで立ち尽くしている。
「何しに来たの?」
瑞希はソファの陰から立ち上がって、今度は私たちに向かって言葉を投げた。無表情。私が一瞬怯んでいると、蒼衣が横でそれを受けた。
「お菓子パーティーだよ。大変だったんだからね? 売店で。ねぇ?」
蒼衣は私に話を振った。私は縋りつくように話を繋げる。ややぎこちなくなったかもしれないが、仕方がない。
「うん。蒼衣があれもこれもって」
「それはあんただって同じでしょー?」
「閉まるギリギリだったし」
「おばちゃん、すごい顔してたよ。目が飛び出そうだった」
蒼衣は笑いながら、まるで呆れ顔の槙原さんなんてこの場に存在していないかのように振る舞う。彼女は持っていたビニール袋をソファの上に放って、グラスを取りに行ってしまった。私もそれに便乗して、やっと重たいペットボトルを置くことができた。右手がじんじんとして、赤みがかっている。
その時ちらっと、テーブルの上にある白い紙を眼で読んでしまった。ほんの一瞬だったから、たぶん誰も気付かなかったと思う。でも私は動揺していた。そして、それを隠すことで頭がいっぱいになっていた。
「……帰ってください、槙原さん」
瑞希のその言葉に、槙原さんはようやく我に返ったようだ。
「でもまだ話が――」
「あとでちゃんと電話します。今は、帰ってください」
槙原さんは少し考えて、短く溜息を吐いた。そして机の上の紙切れを手に取ると、それを三つ折りにした。
「これは預かっておくわ。必ず電話して。いいわね?」
彼女の念押しにも、瑞希は返事をしなかった。槙原さんは鞄にその三つ折りにした紙をしまうと、何も言わずに部屋を出て行った。
しかしそれでも相変わらず瑞希は無表情のままで、またソファの陰に座ってしまった。自分からここへ来ようと提案したのに、私は何と声をかければいいのかわからなくなってしまって押し黙った。流れているのは、嫌な沈黙だった。
「槙原さんだ」
リズム感のある口調で、奥からグラスを見つけた蒼衣が戻ってきた。見るからに嬉しそうに顔がにんまりしている。
「名前」
「……あぁ」
嬉しさの中身は槙原さんの名前を思い出せたことだったようだ。蒼衣は満足気に頷きながらグラスを置く。いつも使っている透明のものだが、一つだけはティーカップだった。彼女は鼻歌を歌いながらそれに紅茶を淹れ始めた。瑞希の分である。
「それ、適当に開けちゃってよ」
蒼衣はビニール袋の山を指した。私は買ったお菓子を出して、開封してはテーブルに置いていった。重かったペットボトルも取り出す。透明の液体が入っていて、内側に無数の気泡がついている。蓋を捻ったら、パン、と破裂するような音がした。
「お、いい音だね」
「いいでしょ? 注いじゃって」私は返事を待たずにグラスにその液体を注いだ。シュワシュワと美味しそうな音がする。
「……なんで来たの?」
二つ目のグラスにサイダーを注いでいる時、瑞希が訊いた。ソファの陰に座ったまま、こちらは見ていない。
「だからパーティーだって言ってるでしょ?」
そう言いながら、蒼衣は戻ってきてソファに座った。淹れたばかりの紅茶を瑞希の目の前に差し出すが、彼女は横目で見るだけで受け取らない。
「さっき来るって言っちゃったし、お菓子食べたかったし。あ、瑞希の好きなやつもちゃんと買っておいてあげたんだからね」と、蒼衣はテーブルにその紅茶を置くと、休む間もなくビニール袋をあさる。「ほらぁ、これ高かったんだからね? もっと安いやつ好きって言いなさいよ。あたしらこんな苦いの食べらんないんだから」
チョコレートの話である。蒼衣はマシンガンみたいに文句を発しながら、見るからに苦そうなチョコレートの黒い箱を袋の中から探り当てて、瑞希に押し付けた。それでも瑞希はうっすらと怪訝そうな表情を浮かべるくらいで、特に何も言わないし、動かない。まるで人形みたいだ。
そんな彼女にとうとう痺れを切らしたらしい蒼衣は、がばっとソファから立ち上がった。
「ねぇ、黙ってないで何とか言いなさいよ。辛気臭い」
このままでは一方的な喧嘩にでもなりそうな勢いだったので、私はいったん彼女を止めた。それから移動して、瑞希の前の床に腰を下ろした。彼女は少し俯いて、相変わらずの無表情でどこか一点を見つめていた。
ほんの一瞬だけ迷ったけれど、私は口を開く。
「瑞希。どうして、学園辞めるの?」
「え?」
先に声を発したのは蒼衣だった。瑞希もふっと視線が上がる。ここへ来てようやく、彼女と視線を合わせることができた。
「どういうこと?」
蒼衣は渋い顔をしている。私は少し躊躇しながらも、脇のテーブルを指した。
「さっき、そこに置いてあったの……、退学届だったよ?」
私は再び俯き気味になった瑞希の顔を覗き込んだ。口調がなるべく柔らかくなるようにだけ意識した。
「槙原さんが怒ってたの、それでしょ?」
「……そうだよ」
溜息と一緒に、やっと瑞希の声を聞けた。その瞬間、少しだけホッとして、顔が緩んだのが自分でもわかった。
「あんた、何考えてんの?」
「別に……十分ここに嫌気はさしてるから」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘じゃなくても百パーセントの理由じゃないね」
畳み掛けるように蒼衣が返す。瑞希はそこで口を噤んだ。彼女の視線を追いかけながら、私も蒼衣と同じことを考えていた。
「私たちのせい?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」蒼衣の口調は鋭い。「クラスの奴らのこと?」
「答えなきゃいけない?」
「あんた、絶対反論しないもんね。言い返しちゃえばいいじゃないのよ。それか放っておくか。このまま黙って逃げるわけ?」
「だったら、私と友達やめて!」蒼衣が言い終わるか終わらないかくらいのところで瑞希は突然立ち上がり、腕組みをしながら立っている蒼衣に向かってそう言い放った。「もう話し掛けないで、ここにも来ないで、鍵も返して!」
「嫌だ」蒼衣はその一言で瑞希の言葉を切った。ふふん、と鼻息を漏らすその顔には余裕すら窺える。「やっぱりね。そんなことだろうと思ってたよ」
「……」
「そんなに体裁が大事?」
「私と一緒にいたらいけない」
「そんなの誰が決めたの?」
「決まりなんてない。でもそれが二人のためだよ」
「全然あたしらのためなんかじゃない。あたしらは、瑞希と一緒にいるのが好きなの。自分が一緒にいたい相手くらい、自分で選べるし、決められるよ」
蒼衣はテーブルの横にどんと腰を下ろした。早く座って、とでも言いたげな顔で瑞希を見上げる。しかし瑞希はまだ立ったまま、表情も変わらない。
「信用してなさそうな顔だね」
「してないから」
「どうしようもないね」
「私は疑ってるよ。いつもどこかで考えてる。『本当にそう思ってるの?』って。心の中じゃ何思ってるかなんてわからない。人間ってそういうものでしょ?」
「瑞希」
私は瑞希の片手を掴んだ。細くて、冷たい指先だった。反応もない。だらんとして、何かに飾りで付いているものみたいだ。
横から蒼衣の短い溜息みたいなものが聞こえた。
「あたしだってあったよ。あんたみたいに、人を疑ったこと。誰と一緒にいても、いつも後ろから、影みたいに不安が追いかけてくる。でもね、ある時思ったんだよ。そんなことしてたら、結局、信用できるのなんて自分だけだって」
「そう」
瑞希は淡々と返す。予め用意されている台詞みたいに。
「そんなことしてどうすんの? 今のあんたは自分しか信用してないわけ?」
「そうなのかも」
「じゃあ、これから先は? 独りで生きていくの?」
「そうなってもいい」
「ならどうして、あたしと凛を追い返さない?」
蒼衣と瑞希の視線が、宙で重なる。飾りものだったはずの手から、彼女の呼吸が聞こえる。
「……『どうして?』?」
「どうしてあたしらの手を振り払わない?」
瑞希の表情は変わらなかった。でも彼女は少しあって、「どうして?」と訊き返した。
「あたしに訊かないでよ」
すると、蒼衣は立て膝になって瑞希の前に寄ると、彼女の両手をぐいっと引っ張って無理矢理腰を落とさせた。
「瑞希、聞いて?」彼女はまっすぐに瑞希のことを見ている。「もしあたしらがあのクラスの馬鹿共と同じだったら、あんたがあたしを疑ってるってわかった時点で怒って自分から帰ってるし、そもそもここに来ないから」
ねぇ、と蒼衣が私のほうを見たので、私は頷いた。
「あたしは、ピアノが弾けて、練習が嫌いで、紅茶ばっかり飲んでて、よく先生困らせて、わけわかんなくて、でもいつもあたしらのことばっかり考えてるあんたで、いい」
瑞希はやはりうんとも寸とも言わないし、表情だって変えない。でもほんの少し、きっと普通の人が見たのではわからないくらい僅かに、彼女の目は俯いた。私はそれを『了承』と捉えた。たぶん蒼衣も、同じだったのだろう。
「学園辞めるなんて言わないでよ?」蒼衣の口調が変わった。その一言で、私自身の中で何かがふっと落ち着いた気がした。
「……パーティーしようか?」
だから、その台詞が言えた。
すぐに蒼衣は頷いてくれた。それが私をますますホッとさせた。
「あーあ、これじゃ砂糖水じゃない。あんたのせいよ? 瑞希」
蒼衣は不機嫌そうに溜息を漏らして立ち上がった。彼女の視線の先、テーブルの上に並んだ二つのグラスは、もちろんもう音なんて立てないし、大人しくて色のない液体が入っているだけになっていた。きっと待ちくたびれて、どこかへ逃げていってしまったのだろう。
「新しくする?」
「そうね」私は頷く。「ついでに、こっちも淹れなおそう?」
私は瑞希用にと淹れた紅茶のティーカップを指した。見るからに冷たそうになっている。
しかし、すぐにそれを横から瑞希が制した。
「せっかく淹れてくれたから、いい」
「でも冷めちゃってるんじゃない?」
彼女は黙って頭を振った。私は伸ばしかけた手を引っ込めて、蒼衣が砂糖水をこぼしてきてくれるのを大人しく待った。
ようやく三人でテーブルを囲む。目の前には、誰がこんなに食べるんだ、と言われそうなくらい一面にお菓子が広がっている。蒼衣は再び空になったグラスにサイダーを注いだ。温そうだ。小さな気泡がたくさんくっついて、硝子玉みたいに光っている。時々それがくるくると回りながら上へ昇って行って、綺麗だ。
「……私もそっちにしようかな」
ふと瑞希が呟いた。そっち、を探すと、彼女の視線はサイダーのペットボトルを指していた。
「珍しいじゃない」
「駄目?」
「んなわけないでしょ。健全なる十五歳だわ」蒼衣は満足そうにそう言って、すぐに新しいグラスを取りに行った。
健全な、って……まったくどういう基準なんだか。私はふふと笑ってしまった。
蒼衣が持ってきた透明のグラスにサイダーを注ぐ。そしてそのグラスはお菓子の山の上空を横断して、瑞希のところへ渡った。
「よし、乾杯しよう」蒼衣が自分のグラスを片手に言った。
「何に?」
「何がいい?」
「何でも」
「それずるいよ。……まぁいいや。適当に、心ん中でやって」
「はいはい」
グラスの合わさる音がした。ドラマみたいに綺麗な音ではなくて、どちらかというとガチャン、という賑やかな音だった。その時一応は蒼衣が、乾杯、と言ったけれど、それぞれが何を心で思ったのかは私にはわからない。実際、私は何も思っていなかったように記憶している。
ただ、持ち上げたグラスに注がれたサイダーが蛍光灯の光を浴びて、それがキラキラと澄んでいて、綺麗だなと感じただけで。