Ⅲ 曹達水のこと(1)
一週間くらい経って、ようやく晴れた。今まで散々泣き続けて、やっと気が済んだのかもしれない。私は久しぶりに、学園で一番背の高い棟の屋上を訪れた。
ここには昔からよく足を運んでいた。誰が持ってきたのかはわからないが、使われなくなった古い机や椅子が方々に転がっていて、私はその上に寝転んで、空を見ているのが好きだった。最近は忙しくてここに来る時間もなかったから、本当に久しぶりだ。私が愛用している机はまだあるだろうかという不安もあったが、いざ来てみたら何も変わっていなかった。まるでここだけ時間が進むのを忘れていたかのように。
机はすっかり乾いて、色が褪せていた。鉄製の脚は錆びて黒ずんでいる。私はその上に仰向けになった。視界が青と白の二色になる。目障りな灰色は、どこにもない。そういえば草柳にここに来ることを言わなかったな、と思った。でもきっと大丈夫だ。彼女は私をわかっている。
雲はゆったりと歩いている。止まっているわけでもなければ、急かされているわけでもない。それくらいがちょうどいい。イメージとしてはモデラートよりはアンダンテに近いくらいかなと想像する。青はどこまでもどこまでも透き通っていて、油断していると吸い込まれそう。たぶん、たくさん泣いて、余計なものを全部地上に落してしまったから。
その時、ふっとある記憶が蘇ってきた。今までどこかの引出に眠っていることさえ忘れて、とっくに捨ててしまったと思っていた記憶だ。珍しい。たった今起こったことでも、たいていはすぐにゴミ箱行きにしてしまうのが私なのに。そんなだからアイツに、「呆けてるんじゃないの?」と言われたっけ。
あれはおそらく中等部二年の時。学内音楽祭のコンクール部門に出場させられて、図らずも最優秀賞を貰ってしまったことがある。最優秀賞といっても中等部生だけの、それもコンクール部門に出場した十人余りの中での最優秀賞だから、別に大して名誉のある賞という印象はない。
しかしあの時、表彰式が終わるや否や私のところへ抗議にやってきた女がいた。名前は忘れたが、確かヨシカワとかいう苗字だったような気がする。ヨシカワはどこからか私が屋上にいるという情報を仕入れて、わざわざ会いに来たのだ。
確かあれも、こんな季節だった。
目の前をゆらゆらとホイップクリームみたいな雲が流れていく。たぶん掴んだら弾力があって、ぬいぐるみみたいな感触だろう。それが次から次へと形を変えながら、目の前を通り過ぎていく。それがいい。変わっているとよく言われるが、私は何時間見ていても飽きない。映画の終わりのクレジットロールを見ているより、何倍も面白い。
私は屋上に放置された古机の上に寝転んで、抜けるような秋晴れの空を眺めていた。最近よくやっているのだが、今日は青と白のバランスも私好みで、気温もちょうど良かったから、こんなことをするには絶好の日和だとかなり満足していた。おまけに今みたいな暮れなずむ頃の空といったら申し分ないほどに美しくて、涙が出そうなくらいだ。それを独り占めしている私は、最高に贅沢だと思う。
もう少し経って、空が紫色になり始めたら帰ろう。そう思っていたら、遠くで足音が聞こえた。二人分。私は起き上がらなかった。それが誰と誰であるか、すぐに検討がついたからだ。
「瑞希!」
声と同時に視界が遮られた。三波蒼衣の顔がすぐそこに現れた。目が大きくて、整った面立ち。私より少し長いくらいの黒い髪が、風に靡いている。
ほら、正解だった。私は自分にそう言って、重たい上半身をのっそりと起こした。
「やっぱりここだった」
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわよ、この変人!」
トランペットみたいな声だなと思った。蒼衣はその白くて細い両手を腰に当てて、少々ご立腹の様子だった。その隣で、草柳凛がふつふつと笑っている。蒼衣は私と同じくらいの背丈だから、そこまで大きいというわけではないはずなのだが、こうして見ると二人は随分と身長差がある。
「何やってんのよ、こんなところでサボって」
「別にサボってるわけじゃないよ」
「だって表彰式が終わったのに教室戻ってこないんだもん」
「先に帰っちゃったのかと思ったじゃない」
帰りたいのは山々だったが、先生に駄目だと釘を刺されていたから帰れなかったのだ。あんな出たくもないコンクールで弾きたくもない曲を弾いて、こっちとしては自分の出番が終わった時点でさっさと部屋に帰りたくてしょうがなかったのを我慢して表彰式まで残ってやったというのに、それでもまだ帰るなと言う。だから仕方なく、ここで雲の観察をしていたというわけだ。
「で、何か用があった?」
「とりあえず、おめでとう」
草柳が目を細める。
「何が?」
「何がじゃないでしょ。音楽祭」
「あぁ」
「上手だった」
「まったく、あんたくらいだったよ? 名前呼ばれても全然嬉しそうじゃなかったの」
蒼衣は笑っている。表彰式で、最優秀賞の発表の時に私の名前が呼ばれて、壇上まで行って賞状を受け取った時のことだ。たぶん、今の彼女の頭の中にはその時の光景が流れているのだろう。
「だってそんなに嬉しくなかったし」
「何言ってんの。仏頂面しちゃってさぁ、この不細工」
「それは元々だよ」
それに私が壇上でニコリともしなかったことも、事実である。あと、この二人の演奏が聴けなかったことも私にしてみればかなり不満だった。二人はコンクール部門には出なかったから時間が違っていて、その頃の私はと言えば楽屋かリハーサル室に缶詰めだったのである。
「いいじゃん。せっかく上級生追い抜いて一番になったんだからさ」
あたしだったら壇上で大威張りだな、と蒼衣は胸を張る。確かにこいつの、この男顔負けの性格だったらそれくらいしてもらわないとこっちがつまらない。というのも、今までは最上級生が最優秀賞になるというのが暗黙の了解だったのだが、皮肉にもその常識が覆ってしまったらしいのだ。
私は溜息を漏らした。壇上に上がったのが本当に蒼衣だったら、私は心から喜んだだろう。けれど実際は私で、また面倒なものを貰ってしまったと肩を落とした。審査員にも少しはこっちの心境を理解してもらいたいものだと心の底から思う。
すると、蒼衣は急に私のほうに向き直って、真面目な顔になった。
「ねぇ。あんたさ、もっと自信持ったらいいんだよ。いっつも自信なさそうにしてさ。特待のことも不満に思ってるみたいだけど、あたし、あんたの演奏好きだよ」
「なんで?」
「好きなものに理由が必要?」
私は押し黙る。答えられなかった。私はこの二人のことが好きだけれど、それに理由をつけろと言われても、私にはできない。
そんな私の心内を悟ってか、蒼衣も草柳も同じような顔をしている。あぁ、やっぱり敵わない。この二人には。
「それでね、蒼衣と話してたの。今日は瑞希の部屋でパーティーだねって」
「パーティー?」
「そう。お菓子パーティー」草柳の声は弾んでいる。
「ついでにあんたのおめでとう会。いいでしょ?」
「何それ」
「勘違いしないでよ? ついでに、だからね。あたしらはただ、あんたの部屋でお菓子を食べてジュースを飲みたいだけ」
蒼衣はそれを強調した。私がそういうことをあまり好まない性格だということを知ってのことだと思うし、そもそもこいつの場合、本当に『ついで』なのだ。
「なんで私の部屋なの?」
「広いから」
即答。私は笑ってしまった。何が面白かったのか、呆れ返ったのか、私にもよくわからない。ただこの二人のあまりにも楽しそうでウキウキした眼を見ていたら、可笑しくなったのだ。結局、わかった、としか返事のしようがなかった。
風が冷たくなってきたように感じた。気付けば空はもうだいぶ夜闇に侵され始めていた。最近はめっきり陽が短くなってしまって、暮れるのもあっという間だ。私はこれ以上この二人をここにいさせるわけにはいかないと判断し、戻ろう、と口を開きかけた。
が、その時。
「あ、いた」
後ろのほうで声が聞こえた。振り向くと、男子が二人立っている。どこかで見たことのある顔だなと思ったが、やっぱりわからなかったので蒼衣に訊いた。彼女は一瞬目を見開いた後、トンと私の肩を小突いた。
「あんた、クラスメイトの顔くらい憶えときなさいよ」
答える顔が少しにやけていた。またか、と思ったのかもしれない。私はそういうことを余計なものと捉えてほとんど憶えないから。実際にこの時も、言われてみればそんな気もするという程度にしか思わなかった。
そしてこれから、なんだかとても面倒くさいことが始まりそうだということは、直感でわかった。
一人が階段に姿を消し、一人が残る。名前はわからないし、中肉中背でこれといった特徴もない。しかし私は再び蒼衣に彼の名前を訊ねようという気にはならなかった。
「何か用?」蒼衣が少年Aに向かって訊いた。じゃあ今どこかへ行ってしまっているほうはBだな、と私は勝手に決める。頭の中で、彼らには首から白いゼッケンを下げてやった。
「あぁ、奥澤にな」
Aが答える。私に、と言われて少し驚いた。
まもなくしてBが戻ってきた。何やらぞろぞろと女子を連れている。そんなにたくさんいたらもっとわからなくなるじゃないか、と私は心の中で不満を呟く。
しかし、一人だけわかるやつがいた。一番後ろから、ずかずかと大股で歩いてきたやつ。私の嫌いな女だ。長いストレートヘアで、同い年にしては大人びた顔立ちをしている。名前は確か、吉川瑠璃。下の名前まで思い出せたことは奇跡的だと思う。たぶん今日の音楽祭で私と同じコンクール部門に出ていて、つい数時間前にプログラムで名前を見たばかりだったからだろう。秀才だと聞いている。
「ちょっと、何なのよ?!」
吉川のキャンキャンした声が頭に響いて不快だ。下手なヴァイオリン奏者のほうがまだマシ。何をそんなにヒステリックになっているのかと、私は顔をしかめる。
「何、どうしたの?」
近くに立っていた取巻きの女子に、蒼衣が代わりに訊いてくれた。吉川にはたいてい数人の取巻きがくっついていて、寮との行き帰りはもちろん、トイレに行くにも団体行動をしている。ひょっとして個室の中まで一緒に入るのか、と疑問に思ったことがある。そして何より面白いことに、誰もが彼女の言うことを笑顔で受け入れるのだ。最初からそうするように、そうするしか能がないように、予め設定されているロボットみたいに。時々、気の毒に思うことすらある。
「今日の音楽祭よ」取巻きの女子が答えた。
「何かあったっけ?」
「コンクールで、奥澤さんが最優秀だったっていうのが気に入らないの」
「はぁ?」
蒼衣は呆れ返ったように笑う。その会話を――学芸会みたいに端から順番に台詞を言っていくような会話を――聞いていた私も思わず笑いそうになった。そんなくだらないことのために、私はせっかくの楽しみの時間を潰されたのかと思ったら、可笑しかった。
が、その態度が癪に障ったのか、吉川はますます不機嫌そうになる。
「ねぇ、奥澤さん。話があるの」
「何?」
「あなた、一体どういうつもりなの?」
なぜこういう風に勿体ぶった話し方しかしないのか、私はだんだんとイライラしてくる。訊きたいことがあるならはっきりと訊けばいいのに。
とは言っても私はこの時既に、この人が私にどんな答えを求めているのか、おおよその見当はついていた。でもそれに対して素直に答えてやることにはかなり抵抗があったので、あえてとぼけることにした。
「どういうつもり、って?」
吉川は片眉を吊り上げて私を見る。
「あたしは納得いかない」
「だから、何が?」
「コンクールの話よ! なんであんたが最優秀なわけ?」
「そんなの審査員に訊きなさいよ。ちょっと見当違いじゃない?」
割って入ったのは蒼衣だ。相変わらず強気な態度だなと思う。その横に佇んで、胸の内をはらはらさせているのであろう草柳を見ていると、あまりの違いに吹き出しそうになる。と同時に、少々彼女が気の毒にもなってくる。
対して、私はいろいろとわかっていたから、自分ではまったくと言っていいほど態度が変わらなかったと思う。こいつらはそんなこと、とっくにわかっている。こいつらがたぶん、本当に言いたいのは――
「審査員なんか、どうせ奥澤派だからあてにならねぇよ」
そう、それ。それが言いたいのだ。
「だいたい、こいつの演奏ってそこまでのもんだったか?」
「課題曲だって、瑠璃のほうが難しいの選んでたし」
「みんな耳おかしいよな」
少年Aらからの援護射撃を受けた吉川の勢いはさらに増すばかり。草柳が心配して止めに入ろうとするが、まったく聞く耳を持たない。
「三年の先輩さしおいて、ちょっとは自重するべきなんじゃないの?」
「自分の演奏に自重も何もないでしょ」
馬鹿じゃないの、と蒼衣は私の隣で笑い転げている。周りがどういう顔をしていようとお構いなしといった感じで、私は彼女のそういうところが気に入っているのだが、その半面、少々心配にもなる。
草柳は落ち着かない様子でやり取りを見ているけれど、私は何も言わずに傍観させてもらっている。たぶん大丈夫。この吉川軍団も、口では蒼衣に敵わない。ただ心のどこかに、手が出たらどうしようかという不安は、ある。
「やっぱこいつが買収してたって考えるのが普通なんじゃねぇの?」
何人かが頷いている。笑いを噛み殺しているのもそろそろ疲れてきてしまった。揃いも揃って、一体どこをどう考えるとそういう結論に至るのか、その想像力を少し分けてほしいと思うくらいだ。
蒼衣もふっと溜息を吐く。
「ねぇ、いい加減にしな。あんたら、普段から瑞希によくちょっかい出してるけど、やること幼稚すぎだから」
「はぁ? お前――」
少年Bが食ってかかろうとすると、隣にいた女子がそれを止めた。いかにも真面目を気取っている感じ。いい子でいることこそが最高の誇りって顔に書いてあるような奴だ。
そいつが何をするのかと思ったら、彼女は顔を横に振りながらBに向かって言った。
「駄目よ。三波さんは奥澤さんの味方だもん」
私は一瞬、その言葉の意味が呑み込めなかった。
「あぁ、そっか」
「草柳さんだって奥澤さん派でしょ?」
「何よ、それどういう意味?」
「それじゃあ話通じねぇよなー」
「わけわかんないんだけど。だいたいねぇ、瑞希は――」
蒼衣が何か言いかけたのはわかった。しかし気付いた時には、私は右手を蒼衣の前に伸ばして彼女を制していた。
「違う」
言葉は口から勝手に出た。
「何だよ、何か――」
「おい、やめとけよ。こいつ特待生なんだぜ?」
「そうよ。先生を丸めこむのだって、きっと簡単なんだから」
「勝手に言って。私が言いたいのはそういうことじゃない」
「何よ? 文句があるならさっさと言いなさいよ」
騒がしい外野は放っておいて、私は立ち上がると吉川の前まで歩いていった。
「吉川さん」
眼と鼻の先に立ってやると、彼女は一度下から上まで私のことを見た。私はその間も、彼女の顔から視線を逸らさなかった。
「何?」
「どうしてほしいの? 私に」
「最優秀賞を辞退して」
「なんでよ、そんなのおかしい――」
黙って、と私は蒼衣を止めた。彼女の顔はほんの少しも見なかった。草柳の顔も、同じく。
私は吉川に向かって続けた。
「それで気が済む?」
「えぇ、とりあえずは」吉川は顎を上げて、両腕を組んでいた。
「とりあえず?」
「今後のあんたの身の振り方によるってことよ」
「わかった」
身の振り方はよくわからなかったが、私はそう返事をした。別に賞のことは最初からどうでも良かった。それよりもずっと気になることが、私にはあった。
「色目使って先生に頼んでおくよ。最優秀賞は私じゃなくて、吉川瑠璃さんにって」
「瑞希!」
「それから誤解しないでほしいんだけど、その二人、別に私の味方なんかじゃないから。これからも仲良くしてやって」
蒼衣や草柳が止めるのも無視して、私は集団を離脱した。二人がどんな顔をしていたのかも見なかった。ただ、さっきまで散々虚勢を張っていた取巻き陣が、揃いも揃ってキョトンとした顔で突っ立っているのだけは視界に入って、思わず口元が綻んでしまった。吉川も、結局は黙り込んで言葉を返してこなかったし。
後ろから何度か名前を呼ばれた気はした。でも振り向かなかった。呼ぶなと心の中で叫んだ。だって私のことで、蒼衣や草柳までクラスから浮かせるわけにはいかない。
今まで幾度となくそう思うことはあった。それは私がクラスから浮けば浮くほど強く思った。一緒にいて、彼女たちに何も影響が出ないはずがない。だから早く二人を放してやらなければ、と。これが良い機会だ。私はそう判断した。これでいい。これでやっと、彼女たちを私から解放してあげられる。
だから呼ぶな。追いかけてくるな。そのほうが、彼女たちのためなのだ。彼女たちは関係ない。浮くのは、私一人だけでいい。
階段に向かう足取りが速くなっていたとしたら、それは無意識だった。
* * *
「あの馬鹿!」
誰もいなくなった屋上に、蒼衣の怒声が響いた。あまりにずかずかと歩くものだから、足音まで轟いているんじゃないかと思うくらいだった。
「ホント、馬鹿もいいとこ! 何考えてんの? あんなことしたら、ますます自分への風当たりが強くなるだけじゃないよ」
蒼衣は乱暴に屋上のドアを開けて、階段を下り始めた。私はその後ろを必死に追いかけている。蒼衣は昔から曲がったことが嫌いな性格だから、こういうことを黙って見過ごすのは絶対に耐えられないのだろう。
一気に階段を一階まで下って、外に出た。蒼衣は走ってはいないものの、かなりの速歩で学園内を突っ切っていく。相当腹が立っているようだ。そんな風に興奮して身体は大丈夫なのだろうかと少し不安になる。彼女の身体は、本当は彼女の性格や気持ちにきちんとついて来られないのだ。
私は小走りになって、ようやく彼女の隣に追いついた。
「蒼衣、落ち着いて。どこ行くの?」
息を切らしながらそう訊ねても、蒼衣はまったく歩く速度を緩めない。
「止めに行くの」
「えっ、何を?」
「瑞希に決まってるでしょ?」
「止めてどうするの?」
「だっておかしいじゃない。瑞希は如何様なんて何もしてない」
「だけど瑞希は私たちが止めて聞くような人?」
「それでも止めるの!」
「駄目!」
私は蒼衣の腕を掴んで無理矢理に立ち止まらせた。彼女は反射的にその手を振り払おうとする。
「なんでよ!」
「わかるでしょ? 瑞希は私たちのために――」
「わかってるよ!」
その声は暗闇の中に吸い込まれるように消えた。学園のど真ん中。もし人がいたら、私たちを見て思わず振り返るかもしれない。でも私はその顔を見てやっと、彼女自身もどうしたらいいのかわからず、心の中では狼狽たえていたのだということに気付いた。胸中が整理されるよりも先に、体が勝手に動いていたのだ。
彼女はようやく膝に両手を突いて喘いだ。
「大丈夫?」
「うん、平気」
とは言うものの、彼女はしばらくそのまま起き上がることができなかった。一度は保健医を呼びに行くか迷ったけれど、その必要はないと言われた。
だいぶ呼吸が落ち着いてから、蒼衣は再び口を開いた。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「瑞希の部屋に行こうよ」
「今?」
「あとでもいい」
蒼衣は一旦、首を傾げた。でもとにかく私は瑞希と話がしたかったし、しなければならないと思ったのだ。瑞希が急に吉川さんたちの言い分を素直に呑んだのは、私たちのことが絶対にある。私や蒼衣が、自分のせいでクラスの中に居づらくなると思ったに違いない。だからあんなことを言ったのだ。そんなことをしなくてもいいのに、本当に不器用なんだから。
「話してくれるかな?」
「いるだけでもいいのよ」
蒼衣はよくわからない顔をしている。
「ていうか……、そもそも部屋に入れてくれる?」
「くれなくても、これがあるから」
私はポケットから鍵を取り出した。中等部に上がって、瑞希があの特待生用の部屋に移った時に、いつでも来ていいからと言って私と蒼衣にくれた合鍵だ。もちろん、合鍵を作ることは立派な規則違反である。
すると、蒼衣もごそごそとポケットを探った。そして、色も形もまるっきり同じ鍵を取り出して、にやりと笑った。これをくれた時、勝手に部屋に入っていいと言ったのも瑞希自身であることを彼女も憶えているようだ。
「でも今の瑞希は? 先生のところ、行かなくていい?」
「放っておけばいいよ」
正直なところ、心配ではあった。でも瑞希が先生たちに何を言っても、聞き入れてもらえないだろうことはわかっていた。
「まぁ、あの人もいるから平気か」
「あの人?」
「えっと、ほら、名前何だっけ? 瑞希の……」
「あぁ」
私も名前は思い出せなかったが、蒼衣が言いたい人物はわかった。中等部に上がってからやってきた瑞希のマネージャーさんのことだ。
「あの人だって止めるよね?」
「きっと」
一度だけ会ったことがあった。第一印象は、大人。眼鏡をかけていて真面目そうに見えたからかもしれないが、駄目なものは駄目で、何でもきちんとやりそうな感じがした。喋り方も単調。瑞希も淡々と喋るけれど、あれとは全然違う。似ても似つかない。当初から瑞希は相当嫌がっていたし、話を聞く限り、その第一印象は強ち間違ってはいないようだったから、たぶん今回も瑞希が何か行動を起こしたところで最初にそのマネージャーで撥ねかえされてしまうだろうというのが、私たちの見解だった。
蒼衣は仕切り直すように、ふっと息を吐いた。
「じゃあ、お菓子でも持ってく? たくさん」
「それもいいかもね」
私は腕時計を見た。売店は六時までだから、今ならまだギリギリで間に合う。
「怒るかな?」
「どうだろう?」
「まぁいいか。そしたら瑞希にはやんない」
蒼衣はそう言って舌を出した。その顔を見て私自身も少しホッとしたのか、何となく気が軽くなったような感じがした。
とりあえず、私たちは営業時間内の売店に滑り込めるように、本館のほうへ足を向けた。