Ⅱ コドモ(3)
その夜、思いがけない来客があった。私はその時、自室に戻ってCDを聞いていた。先日、クラスメイトの一人が貸してくれたものだが、別に聞きたかったわけじゃなかった。流れで借りることになってしまって、でも聞かないで返すのは何となく気が引ける。だからとりあえずプレーヤーに仕掛けてみた。要するに、聞いているというよりは、ただ音が鳴っていると表現したほうが正しいというわけ。
そう。結局、草柳凛はそういう人間なのだ。
初めて聞く曲だった。ものすごくゆっくりで、静かな曲。きっとあまり有名じゃない。一瞬、何というタイトルか気になったけれど、パッケージを見るのは面倒だったので無視した。嫌いじゃない曲想だけど、今の私にとっては眠気を誘うのに打ってつけの選曲だったと思う。
客人というのは、私がそのCDを止めるかどうするか、夢との狭間で迷っている時にやってきた。ノックもなし。足音一つもなく。でも気配で何となくわかった。時々こんな風に、私のところには現れるから。
彼女は私の代わりに、壊れた蛇口みたいに音楽を流し続けるプレーヤーを止めてくれた。
「悩んでる?」
聞き慣れた声だった。でも懐かしい。もう随分と、聞かなくなった声。
私は三波蒼衣のほうを見た。
「ばれた?」
「当然」
彼女は得意げに笑っている。変わらない顔。あの日学園で彼女を見送ってから、何一つ、変わらない顔。彼女はもう、時間の支配を遺脱している。
どうして今夜、彼女が現れたのかはわからない。でも、別にいい。彼女はいつだって気まぐれ。生きている時も、死んでからも。
「やだなぁ」
「ねぇ、それ、捨てたら?」
それ、と指したのは部屋の隅にある古いダンボール箱だった。前に、荷物が送られてきた時に使われていたやつで、今は使わなくなった教科書とか、授業中に配られた資料の類の墓場みたいになっている。ただ置いてあるだけだから、古いと言ってもそんなにボロボロになっているわけではない。
「嫌よ」
「ゴミじゃん」
「私にとっては必要なものなの」
私は目を逸らした。
本当は違う。捨てられないのだ。人にとってはゴミでも、私にとっては貴重品。蓋を開けて中身を出しただけで、上面に貼りついた送り状もまだそのまま。
だってこれを送ってきた人は、もうこの世にいないのだから。
「ごめんね」
蒼衣が言った。本当よ、と言い返したかった。
最後の電話で――彼女が学園を去ってしばらくした頃にもらった、彼女からの最後の電話で、私に言った。「瑞希をよろしく」って。私は返事をしなかった。だって返事をする前に、蒼衣は電話を切ってしまったんだもの。そしてその後まもなくして再び掛かってきた電話は、彼女が死んだことを告げる電話だった。
この世を出ていくにはまだ若すぎだ。最初から、わかっていたことではあるけれど。
私は未だに返事をしていない。でも少なくとも、「嫌だ」とは言えなくなった。ずるいよ。押しつけるだけ押しつけて逝っちゃうなんて。
でも結局、何も言い返せなくて、言葉は代わりに溜息になってどこかに消えてしまった。だってわかってる。彼女だって、出ていきたくて出ていったわけじゃない。
蒼衣はじっと、プレーヤーの前に立ったまま動かない。私との間には僅かに距離が空いている。ここからでは、手は届かない。いつもそうなのだ。彼女は来ても、必ずこう。近くも遠くもない、もどかしくなるような微妙な距離を保ったまま、近づくことも、離れることもしない。でも、私は近づかないと決めている。何となく、近づけない。本能的に、近づいたら、消えてしまうんじゃないかと思うから。
わかってる。この距離は、もう埋まらない。たとえ広がることはあっても、もう一生、埋めることなんてできないのだろう。
「ねぇ……私、どうしたらいい?」
「何が?」
「瑞希のこと」つい一時間前、瑞希の部屋を出る時、最後に見た彼女の顔が思い出される。いつもと同じ、あの、半分だけ笑ったような顔だった。「あの子を見てると、私、すごく怖いの」
「どうして?」
「もしかしたら瑞希も、消えてしまうんじゃないかって」
自分で喋ったのに、自分でますます怖くなった。不安になる。もう嫌。またあの時と――『あの一件』の時と、同じ思いを味わうなんて、絶対に嫌。
涙は出なかったけれど、代わりにものすごく息苦しくなった。私は一度深呼吸をした。
……失くしたくない。
でも、だからって、私はどうしたらいい? 私はただいるだけ、それしかできない。彼女の力になってあげられない。だって瑞希は、私では辿り着けない迷路の中にいる。何かしてあげたいと思っても、私には、彼女をわかってあげられない。もどかしくて、何にもない自分自身も嫌で。
だけど、どうしようもないんだってことをわかっている自分もいる。それは確かだ。私は私でしかなくて、決して他人にはなれない。瑞希にはなれない。だから、他人のことを理解しようなんて絶対に不可能なお話なんだ、と。
その二人が時々、私の中で喧嘩をする。今も、頭の中がぐちゃぐちゃして、そういう音が聞こえそうなくらいだ。
「大丈夫」
蒼衣はゆっくりと頷いた。やっぱり彼女はその場所から動かない。にっこりと微笑んで、私のほうを見ている。
「わからなくていいんだよ」
「えっ?」
「わかってあげられなくても、いいんだよ」
「どういう意味?」
すると、蒼衣はくすくすと笑って言った。
「あんたがそう言ったんじゃない」
私が?
そう口にする前に、彼女は消えてしまった。気付けば、ここにいるのは私と、冷えた静寂だけ。
私は短く息を吐いた。本当に意地悪。いつもそうなんだから。私が困っていても、肝心の答えは言わずにまたどこかへ行ってしまって。
「何しに来たんだか……」
口に出して呟いた。そうね、蒼衣。あんたは正しいかもしれない。きっと答えなんてない。それが答え。私はただ私として、そこに在ることしかできない。あんたが最後まで、あんたであったように。
私はそのままベッドの上に転がる。蒼衣の笑った顔が、残像のように頭にくっついている。「わからなくていい」なんて私がいつ言った? 思い出そうとしても、出てこない。
代わりに思い出したのは睡魔のほうで、天井を見たのは僅かに一瞬。私はいつしか眠ってしまっていた。