Ⅱ コドモ(2)
翌日は篠を突くような雨だった。
私は部屋の窓辺に立って、カーテンをほんの少し捲りながら外の様子を眺めていた。ここのところ、空の青さを拝んでいない。いつもふてぶてしいほどの灰色い雲がのっぺりと覆いかぶさっていて、今にもわっと泣き出しそうなのを堪えているようだったのが、ここへきてとうとう大泣きを始めたといった感じだ。
「晴れないな」
本当なら、今頃は空が澄んで綺麗なはずなのだが、今は昼間だというのに小暗い。
「天気予報を見る?」
私は半分ほど振り返って、背後のテーブルで紅茶を飲んでいる草柳に向かって言った。彼女は本当に、貰い物のお菓子を処理してくれていた。
「時々」
「いつ晴れるって?」
「確か、当分は曇りか雨よ」
その言葉に私はますます腑が抜けてしまった。雨は好きじゃない。外に出たくなくなるし、家の中でも行動する気が失せる。せめて今日が休日で、学園にも、どこかのホールにも行かなくて良い日だったことを幸いに思うしかない。
私はソファに戻って珈琲を飲んだ。しばらく放っておいたから、ぬるくなっていた。
「不満?」草柳が訊ねる。探りを入れられているような感覚だった。
「不満って言うか……」
「私は雨のほうがいいわ」
「どうして?」
「だって夜、瑞希が抜け出さないもの」
人が悪い奴だ。私の不満をよそに、彼女はにやにやと笑っている。私は溜息を吐いて、ソファに体を投げ出すように座った。
「私は結構楽しんでるのに」
「私の身にもなってよ」
「ごめん」草柳が私のほうを見ているような気がした。
「いつもどこを歩いてるのよ? この辺りって、そんなに長い時間歩けるようなところだった?」
「いろいろ」
「駅の方まで行くの?」
「そういう時もあるし、まぁ、気分によって。隣町まで行っちゃう時もあるし、公園でやめる時もあるし」
「公園で何してるの?」
「遊んでる」
「一人で?」
「誰もいないからね」
「楽しい?」
私は考える。楽しい、とはちょっと違うと思う。けれど誰もいない真っ暗な公園で、冷え切ったブランコや滑り台に座って星を数えるのは面白い。ただ残念なことに私は乱視だから、数えた星も数が間違っているかもしれない。途中で瞬きをしようものなら、せっかくそれまで数えた星が一瞬でごちゃ混ぜになって、また最初からやり直しになってしまう。そうこうしているうちに周りが明るくなって、星が消えていく。今までに最後まで数えられたことなんて、一度もない。
「じゃあ、もしずっと星があったら、帰ってこないの?」
鋭い質問だ。どうだろう? 私は帰らないだろうか。確かに誰かが迎えに来ない限り、帰らないかもしれない。いや、星がなくてもずっと夜だったなら、私はいつまでも徘徊し続けているかもしれない。だって昼間に歩くのとでは、違う。夜は空っぽで、何もなくて、私にはそれが何となくシックリくる。居心地がいいのだ。だからもし夜が明けないのなら、私は帰ってこないかもしれない。
結局、私はその問いには答えなかった。
「今度歩いてみたら?」
「嫌よ」
「どうして?」
「怖いもの」
「平気だよ」
「一緒にしないで」草柳は頬を膨らませる。
一緒に歩いてあげようか、と言おうとしたら、ドアチャイムが鳴った。瞬間的に、何だか嫌な予感がした。私の部屋を訊ねてくる人間なんて草柳くらいだけど、その草柳が目の前にいるということは、考えられる人物はあと一人しかいない。
草柳もそのことを察知したようで、眉を曇らせながら私のほうを見ていた。が、私と目が合うなりクスリと笑った。たぶん、私の心情が伝わったのだろう。
「出たくないんでしょ」
「当たり前だ」本当に意地悪な奴。
本当に居留守を使ってやろうかと思ったが、私は結局ドアを開けた。開けなくてもあの人のことだから勝手に入ってくるだろうと諦めたのだ。
案の定、ドアの向こうにあったのは槙原の顔で、私はますます気落ちした。朝でも夜でも、夏でも冬でも同じこの顔。休日なのに、雨なのに、どうしてわざわざ足繁く通ってくる気になるのだろうと、私には不思議でしょうがない。湧き出る不服という感情を自分の中で留めておこうと努力したが、無表情を作るのが精一杯だった。
「こんにちは」相も変わらずぶっきらぼうな挨拶である。
「……何か?」
「ちょっと私と話をして?」
「できればお断りしたい」
「大事な話よ」
「草柳がいる」
槙原は足元に視線を落とした。草柳の靴がある。
「瑞希、私、どっか行ってる」
後ろから草柳の声が聞こえた。
「いいよ。そこで」
「できるなら二人がいいわ」
思わず舌を鳴らしたが聞こえただろうか。溜息を吐いたら、草柳がやってきた。ちゃんと戻ってくるからと言われたので、私は仕方なく槙原を中に入れた。
ソファには座る気になれなかったので、私はピアノの椅子に腰を下ろした。
黒い蓋は、閉まったままだ。
* * *
槙原さんが来ると瑞希の機嫌が悪くなることはずっと前から知っていた。瑞希のマネージャーということだから、私も中等部に上がった時からよく顔を合わせることがあるけれど、正直なところ私自身もあまり好きとは言えない。マネージャーというのは建前上の地位で、私にはただの監視員にしか見えないから。
瑞希が部屋の奥に戻ってしまって、槙原さんもその後に続いて中に入っていった。私は外に出ようと思ったけれど、どういうわけかドアを押せない。靴までしっかり履いたのに、何となく気に掛かって立ち去ることができない。ドアノブに乗っかったまま、私の右手は止まっている。「早く出ていきなさい」と私が私を叱って、でもそれに従いたくない私が必死に反抗している。
「休みのところ悪いわね」
耳を澄ますと、二人が会話する声がうっすらと聞こえる。
「本当にそう思ってます?」
「もちろんよ」
瑞希は相当不機嫌だ。声を聞けばわかる。さっきまでの、私と話をしていた時の口調が嘘のようだった。それが余計に私をこの場に引き留める。いけないこととはわかっているのだけれど。
「で、話って何ですか?」
「単刀直入に言うわ。瑞希、あなた、留学する気はない?」
「は?」
「学長から推薦があったのよ。フランスの音楽学校なんだけど、とりあえず一年」
「お断りします」
「どうして? いいお話なのよ?」
「どこが? だいたい、そんなところへ行って何になるんです?」
「一度は本場へ行って勉強したほうがいいし、今のあなたには新しい刺激とか、目標が足りない気がするのよ。それに退学するくらいなら、海外の学校に編入のほうがあなたにとってもいいと思うし、外へ行って自分を確かめてくるっていうのも、一つの手だと思わない?」
「お断りします」
かなり語気が荒い。たぶん、単に反抗したいだけとかではなく、本気で嫌がっているのだ。ただ聞いているだけなのに、私が言われているみたいで、胃の後ろ辺りをつままれているような感じがする。
「もういいですよ、槙原さん。私にそんなに賭けないでください」
「賭けるとかそういう問題じゃないわ」
「じゃあ何ですか?」
私は鳥肌が立った。何の感情もない、淡々とした声。まるで人が違うみたいだ。
「あなたのためを思って言ってるの」
「私のどこにそんな価値があるのか、はっきり言って私にはまったく理解できませんね。槙原さんは私を買い被りすぎです。学長にもそうお伝えください」
「瑞希、そんなこと――」
「それともう一つ」間髪を容れずに瑞希は続ける。槙原さんが口籠ってしまうくらいだ。「私は国を出るつもりはないし、そんな推薦は不要だと、学長に断りを入れてください。どうしても行かせたいなら、もっと他に相応しい人はたくさんいます。よくお探しになってみてはいかがです?」
「瑞希――」
「さぁ、もう帰ってください。話は済んだでしょう? お引き取りください」
「待って頂戴。もう少し、よく考えて――」
「帰って! 少しは私のこと放っておいてよ!」
槙原さんはそれ以上何も言わなかった。こっちに来るのが見えて、私はここにいたらいけないと思ったけれど、身体が動かなかった。両膝が震えていて、立っているのがやっとだった。
玄関ですれ違う時、槙原さんは立ち聞きをしていた私を咎めなかった。目も合わなかった。ひょっとしたら私のことなんて見えていなかったのかもしれない。槙原さんは私の横をすり抜けて、部屋を出て行った。
これが、拒絶。奥澤瑞希が『奥澤瑞希』になることへの拒否であり、彼女なりの防衛反応なのだ。
背中でドアが閉まる音がとても大きく聞こえた。部屋に上がるのが怖かった。瑞希はどんな顔をしているだろうか。私はどんな顔をすればいいのだろうか。しかしそれでも私は靴を脱いで、奥に進んでいった。いつもみたいに靴を揃えたかどうかは、憶えていない。でも玄関の鍵だけは閉めたと思う。
最初はどこにいるのかわからなかった。ソファにも座っていないし、窓辺にも姿は見えない。一瞬、風呂場にでも行ったのかとも考えた。しかしよく見回すと、ピアノのところからちらっと瑞希の羽織っていたカーディガンの裾がはみ出ているのを見つけた。私はゆっくり歩み寄る。瑞希はピアノ椅子の陰に隠れるようにして座りこんで、膝を抱えていた。私はそれを見て、何となく、安心した。
名前を呼んでも彼女は反応しなかった。私は一旦彼女から離れて、珈琲を淹れに行った。ふと、目を離している間にまたどこかへいなくなってしまうかもしれないとも思ったけれど、私は大丈夫だろうに賭けた。さっきまで使っていたティーカップを洗面所で濯ぎ、ポットのお湯を注ぐ。今まで数えきれないほどこの部屋で珈琲を淹れたから、彼女の好みはわかっている。湯気の立つカップを持って再びピアノのところへ行ったら、彼女はまだちゃんとそこにいた。
「はい。ここ置くから、ひっくり返さないでね?」
私は椅子を引いて、その上にカップを置いた。普通はこれをやるとすごく怒られるけれど、ここではアリなのだ。私は瑞希と向い合いに座ると、自分に淹れた紅茶をすすった。
しばらく沈黙が続いた。窓の外の雨音も、防音設備のせいで頭の中でしか聞こえない。眠っているみたいな空間で、カップの湯気だけがゆらゆらと踊っている。時にうるさく鳴くこの黒い巨体も、今は黙りと大人しい。けれど、このある種不自然な静寂は、嫌いではない。
「……ねぇ」
瑞希はそのままの姿勢で口を開いた。さっきまでの、槙原さんと話していた時とは違う、いつもの瑞希の声に戻っている。
「ん?」
「一つ、訊いていい?」
「いいわよ」
「私って、子供?」
「何? 急に」
「答えて」
「子供よ。私だってまだ子供じゃない」
「いくつに見える?」
「年?」
「そう」
「それなりよ」
「だから、いくつ?」
「そうね……若くはない」さらに私はそこに、はっきりとは言えないけれど、と付け足した。「制服を着ている時は、本当に子供よ? でも、ホントに時々だけど、子供には見えない時があるの」
「どんな時?」
「いろいろよ」
「例えば?」
「例えば……一人で何か考えてる時、とか」
瑞希はしばらく黙して、ゆっくりと顔を上げた。泣いてはいなかったが、顔色が悪い。目が合う。ぼやんとして曇っているように感じた。その時、どうしてか私の脳裏には瞬間的に、ある記憶が蘇ってきた。似ている。不安にまみれて、今にも煙みたいにふっと消えてしまいそうな姿が、ちょうど去年の、あの時の光景と。
「……どんな風に、見える?」
訊くのが怖かったのかもしれない、と感じた。
私は考える。なるべく思っているものを思っているがままに言おうとした。しかし実際、そんなことを意識したこともなかったからわからないし、何となくそう見えるというか、そう感じるだけなのだから説明のしようがない。
「わからないわ」
結局、私は正直にそう答えた。彼女が本当に怖がっているのは、私が適当に誤魔化して、はぐらかして、物を言うことだと思ったのだ。
しかし私はそのあとに、でもね、と続けた。
「私が勝手に思うだけだから、本当のところはよくわからないけど、たぶん、あんたが考えてる物事の幅とか深みは、他の同年代の人間と比べれば計り知れないと思うの。何て言うか……すごくたくさんのことを知ってると思う。他のみんなよりも、私よりもね」
瑞希は私の言葉を黙って聞いている。
「だから――」私はそこで口を止めた。僅かに、ほんの僅かに、迷ったのだ。
しかし口を噤んだ私の顔を瑞希が見上げて、再び目が合うと、不思議と喉の奥に痞えていた言葉がするりと出てきてしまう。
「だからあんたが一人で何かを考えてると、ずっと遠くに感じるの」
近くにいるのに、届かない。
私では辿り着けない、迷路の中。
どう思っているのかは窺い知れない。しかし瑞希は私が喋り終わっても、私の顔を見つめたまましばらく黙っていた。おそらくこの瞬間、彼女は私を見透かしている。それに気付いてはいるのに、なぜか目を背けることができない。
やがて彼女は椅子の上のティーカップを取った。おそらくもうぬるくなってしまっていると思うが、瑞希は黙って口を付けた。顔の前のカップが退けられた時、彼女の顔色はようやく少し、平常時に近づいているような気がした。
「ごめん、怒った?」
「全然」
「本当に?」
「まったく」
そう、と返事をしながら、細いなと感じた。カップを椅子の上に戻す、彼女の指のことだ。
ようやく瑞希は膝を放して立ち上がると、ふらふらと歩き出した。ソファに身を投げ出し、天井を仰いだまま動かなくなった。私は自分のカップと彼女が置いたカップを持って、ゆっくりとテーブルに移動した。彼女は目を閉じていたけれど、寝ているわけではないことはすぐにわかった。彼女の細い肩が、小さくも上下に動いているのを見ると安心する。
カップだけテーブルに置いて立ったままでいたら、見下ろしている風になって少し嫌だった。けれどこうしていないと彼女の顔が見えない。それは、もっと嫌だった。
彼女はうっすらと瞼を上げた。
「……どこから先が、大人なんだろう?」
ぽつねんと、呟くように言った。私は一瞬、悩んで首を傾げた。
「どこをどう超えたら、大人になれる?」彼女は表情も口調も、何も変えない。
「難しい問題ね」
「二十歳を過ぎれば、大人?」
「名目上はね。でも中身はわからない」
「酒と煙草が趣味になったら?」
「それはただ身体に悪いだけ」
「お菓子が食べたくなくなったら?」
「甘いのが嫌いな子供もいるわよ」
「ピアノを弾かなくても生きていけるようになったら、大人?」
私はほんの一瞬だけ口を噤み、答えた。
「それなら私は、一生子供のままだわ」
少しあって、彼女は再び瞼を閉じ、微笑んだ。何となく、彼女が安心しているように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「……私にはわからないわ」
「誰ならわかるかな?」
「どうだろう……誰も教えてくれないことだもの」
「そうか」割とあっさりと、彼女はそう言った。たぶんこれについての話は、彼女としてはここで終わりなのだろう。すっかり槙原さんが来る前の瑞希に戻っている。おそらくこのまま私が何も言わなければ、彼女はそこで眠ってしまうだろうなとさえ思った。
しかし私は最後に、言おうか否か迷っていたことを口にしてみることにした。彼女が答えてくれるかどうかはわからなかったけれど、私は知りたかった。
「瑞希は、大人になりたい?」
正しくは違う。疑問じゃない。でも今はなぜか、この言い方しかできなかった。少し声が震えたかもしれない。
対して、彼女は随分と長いこと黙っていた。呼吸で、彼女の胸が小さく動いている。目は瞑ったままで、私には表情から何を考えているのか察することはできなかった。だから、余計に緊張した。
やがて。
「……よくわからない……今は」
彼女はもう笑っていなかった。声はすぐに空気に溶けて、消えてしまった。