Ⅱ コドモ(1)
「不安?」
不安になる――消えそうなくらい小さな声でそう言った瑞希に、私はそう訊ねた。つい先程まで、自分でも制御しきれないくらいに強く胸を打っていた鼓動は、気付けば落ち着きを取り戻していた。震えの止まらなかったはずの手も今はもう大人しくなって、彼女を抱きしめていた。
彼女は私の肩で泣き出した。
「……自分でも、よくわからない」私の服の袖を強く握ったのがわかった。「どうしようもないのはわかっていて、でも、重い。ものすごく、重くて、息をするのも面倒なくらい……。ただ思うのは、あの日、蒼衣が死んで、三波蒼衣はいなくなった。この世界から消えた。それなのに、この世界はちゃんと回っていて、蒼衣がいなくなったのに、この世界は、何も、変わらないんだ。蒼衣がいなくなっても、この世界の時間はずっと流れていて、私も草柳も、もう蒼衣より年を取ってる。だったらそれって、私がここにいてもいなくても、変わらないってことでしょ? それなら、いなくてもいいんじゃない、って思うんだよね。どうせ私はお人形さんでしかないし、私は『奥澤瑞希』で、私としてここにあることを許されてない。だから、すごく……ここにいたくないって思うんだ。どっかに行きたい。『奥澤瑞希』から解放されて、どこでもいいからどっか知らない、遠くに行きたい」
瑞希はそこまで喋り続けた。涙のせいで声まで濡れてしまって、所々の言葉がぼやけている。それでも彼女は続けた。言葉を探しているというよりは、出てくる思いをそのまま声に出しているという感じだった。
「だから夜になると部屋を抜け出して、一人で歩き回ってる。……どこへも行けないのは、わかっているんだけれどね」
瑞希はそう言って、少しだけ笑った。哀しい顔だった。眼が灰色っぽくくすんで見える。瑞希が透けて、向こう側の景色が見えてしまいそうに感じる。そんな顔をしないで、と言いたい。私まで泣きたくなってしまう。それをぐっと堪えるのが、苦しかった。
「……もしかして、一年前もそんなことを考えてた?」
「ちょっと違う」
「ちょっと?」
「同じ部分もある」
「駄目!」私は知らぬうちに袖口に触れている瑞希の手を掴んでいた。
「何が?」
「あんたまでいなくなるの? 私だけ置いて?」
「草柳?」
怖くなった。ただでさえ透けて見えている彼女がますます透明になって、雲とか、煙みたいに、触っても触れなくなるんじゃないか。本当に消えてしまうんじゃないか。
蒼衣みたいに。
「嫌よ、絶対! そんなの!」
私はもう、蒼衣に触れられない。
いつだって、ずっと、ほんの少し手を伸ばせば、触れられる距離にいたのに。
こんな風に、手を掴めたのに。
「……凛」
いつの間にか、泣いているのは私のほうになっていた。
「……あんまりだわ。瑞希までいなくなったら、きっと気が狂っちゃう。周りが何て言おうと、瑞希は瑞希じゃない。私、知ってるわ。誰も知らなくても、私は知ってる」
そこにいてくれるだけでいい。どんなに疑われたって構わない。私は絶対に、それを曲げない。だから、だからお願い。
「ごめん」
私は顔を上げた。瑞希と目が合う。もう、くすんではいなかった。
「平気だよ。私は、どこへも行かない」行けないから、と彼女は笑う。「ただ、私のこれはもうある種の病気で、だから時々どうしても抑えていられなくなって、外に出てきてしまう」
彼女は長く息を吐いた。
「その時は、許してほしい」
「……何とかする」私はそう答えた。ほとんどイエス。というか、イエスなのだ。ただ、わかってるわよ、と素直に返すのが癪に感じただけ。
瑞希がいなくなっても、何も変わらない?
絶対そんなことない。
だって蒼衣がいなくなって、私たちは?
周りは変わらなかったかもしれない。ただそこにあった木が一本減ったくらいにしか感じなかったかもしれない。だから皆、全部、いつもと同じだった。人が一人いなくなっても、世界には穴一つ開かない。世界はいつもと同じように、ただ回ってた。
でも、私たちは?
私たちは年を取った。
あれからも時間は回り続けたし、私たちはその中を進んできた。私たちだって、変わらず回っていく世の中の一部だった。
でも、私たち自身は?
蒼衣がいなくなって、本当に、何も変わっていない?
そういうことなのよ。瑞希。
だから私、何とかするから、絶対、何とかしてみせるから、ここにいて――。