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Ⅰ 夜を這う(3)

 三波(ミナミ)蒼衣(アオイ)という奴がいた。私が部屋の合鍵を渡している、もう一人の人物である。

 出会ったのは初等部に入ってまもなくの頃で、草柳と同時期だったと思う。どういう出会い方をしたのかはもう憶えていない。気付いたらいた、と言ったほうがきっと正しい。

 それからずっと同じピアノ科だったのに、アイツだけ五年生の時にヴァイオリン科に転向した。彼女の母親が元々ヴァイオリニストだったから、彼女もそっちがいいと決めたらしい。けれどどういうわけか、そのあともずっと草柳と同じように、私にくっついていた。

 頭のいい奴だった。才能もあった。ただ、アイツは生まれつき身体の具合が良くなかったからしょっちゅう入退院をしていたし、学園に来ない日も多かった。そして中等部三年目の終わり。いつものようにちょっと入院してくると言ったまま、アイツは戻ってこなかった。中等部を修了せずに、三波蒼衣はこの世を出て行ったのだ。

 そのことについて、私が哀しいという感情を抱いたかどうかは、よくわからない。ただ、私の中にある何かのスイッチを押してしまったことだけは確かだと、今でも思う。

 草柳が自室に帰ったあと、私はソファで寝転がりながら、部屋の鍵をいじっていた。眠くて、さっさとこのとろとろした中途半端な状態を越えたいと思うのに、そう簡単にもいかないらしい。一秒でも早くこの重たい体を抜け出して、夢の中へ堕ちていけたらいいと思う時に限って、なかなか現実から離れられないのは、一体、どうしてなのだろう。

 そうするうちに、ふと思った。私はどうしてあの二人にここの合鍵を作ったのだろう、と。

 合鍵は中等部に上がってすぐに渡した。本当は、たとえ特待生であっても、部屋の鍵のコピーは禁じられている。ましてや二つもだなんて、規則破りもいいところだ。それなのに、私は何の躊躇いもなくあの二人に鍵を渡した。どうして? それからはずっとそんなことを考えていた。

 流しっぱなしにしていたラジオから『ボレロ』が聞こえてきた。良いという評価をする人は多いし、世間でも有名な曲だから、これも誰かがDJにリクエストしたのだろうけれど、同じことの繰り返しばかりで私には退屈だった。

 けれどこれを聞くと一つ思い出すことがある。いつだったか、そのテーブルの向こう側辺りで蒼衣がヴァイオリンを奏でていて、確かその曲が『ボレロ』だった。フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルの作ったバレエ音楽――ヴァイオリンの曲じゃないでしょ、と訊ねたら、でも好きなの、と答えて笑った。私には退屈な繰り返しが、アイツにとっては好きの要因になっているらしい。

「瑞希だって、好きな曲をピアノで弾くでしょ? それと同じよ」

 その一言に、妙に合点がいったのを憶えている。

 アイツが逝って、それから幾度となくヴァイオリンの音を聴く機会があった。でもどれもアイツには敵わなかった。『ボレロ』は好きじゃない。どんなに名高いオーケストラが演奏したものでも好きじゃない。でもアイツが奏でる『ボレロ』は好きだった。もう一生あれを聴けないのかと思うと、どうしようもなく胸が詰まる。

 最後に会った時――そう、確かアイツが部屋を出て行く時だ。アイツは私に合鍵を返すと言った。アイツはもう生きてここに戻ってこられないことに気付いていたのだろう。けれど私には必要なかったし、もうとっくの昔にあげたものだったから、いらない、と答えた。

 でも、本当は違った。私の本心は、別にあった。

 その鍵があったら、アイツはまたいつでもここに来られる。そう思った。いや、正確には来てほしかったのだ。でも私はそれを素直に口に出せなかった。だから、いらない、としか言えなかった。アイツはそれに気付いていただろうか。

 アイツは大人しく鍵を持っていったけど、あれから一度もここへは来ていない。あの世の暮らしが優雅すぎて、こんな陰気臭い部屋に戻ってくるのなんて願い下げだと思っているのかもしれない。私はまたあのヴァイオリンの音を聴きたいと思っているのに、アイツは夢にさえも訪ねてこない。

 それか、もしかしたら怒っているのかもしれない。

 私が『あの一件』を起こしたから。

 私はソファから起き上がった。変な体勢で寝ていたから少し背中が痛かった。草柳の言うとおりベッドで寝ようかとも思ったが、どうせ夢を見ることもなく夜が明けてしまうだろうと思ったら足が向かなかった。

 代わりに、私はピアノの椅子に腰掛けた。中等部に上がって、学園の特待生としてこの部屋を与えられた時から変わらずここに置いてあるものだ。時々誰かが来て調律をしているようだが、自分の知らないうちにどこぞの誰とも知らない人間がこれをいじっているのかと考えるとあまりいい気分じゃない。

 私は両手で、光沢のある黒い蓋を開けた。白黒の鍵盤が顔を出す。部屋は防音加工がされているけれど完全というわけではないし、さすがに夜も更けているから今は演奏しない。私は右手の人差し指で、たまたま目に留まった一音だけを鳴らした。

 空気が揺れた。私の音だ。他の誰にも出せない、私の音。蒼衣のヴァイオリンを誰しも真似できないのと同じように、これは私だけの音だ。これを聞いていると、私は自分がここに在るのだということを実感できる。これのせいで私は『奥澤瑞希』にならなければいけないし、私はこれが大嫌いなはずなのに、これがあるから私は支えられている。安心する。『奥澤瑞希』なんかじゃない、ただの奥澤瑞希がちゃんと存在していることを、この音だけが証明してくれる気がして。

 私はこの一音が完全に空気に溶けてなくなってしまっても、置いた人差し指を離すことができなかった。離したら、お風呂にでも入ろう。そう思ったのに、鍵盤の上に寝そべるこの一本の指は何かに吸いつけられているように重くて、持ち上げられない。離したくないと、心の中で誰かが叫んでいる。たぶんそれが本当の、私だ。

 そうだね。嫌なんでしょう? だってこれを離したら、私は『奥澤瑞希』にならなきゃいけない。私は煌々と光るライトも、社交辞令にまみれた世界も、天才ピアニストの肩書きもいらないのに。私はただピアノを弾いていられれば、それでいい。私の手はこの白と黒だけの世界の上で、踊っていられればそれでいいのに。

 今も踊りたそうにうずうずしている。遠く離れた胸の奥もざわつかせている。だけど、ごめん。今はこの一音だけで許してほしい。

 そんなことを考えながら、私はかなり長い時間、その場から立ち上がることができなかった。


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