Ⅰ 夜を這う(2)
瑞希の部屋を訪ねたのは夕方、授業を終えた後のことだった。ノックをしたけれど返事がないから、まだ戻ってきていないのだろう。私はポケットを探り、この部屋の合鍵を取り出した。くれたのは瑞希本人である。中等部の頃、勝手に入ってと言って渡された。人の部屋に勝手に入るなんて、と最初は当然躊躇したけれど、そう長く経たないうちに当たり前になった。
部屋に入るとやっぱり誰もいなかった。今朝来た時も思ったけど、ひどく散らかっている。ここに来るとたいていはこの状況。よく平気でいられると感心してしまうのだけれど、瑞希の生活を考えると無理もない。朝はゴミと思われるものを拾い集めてゴミ箱に捨てておいただけだったが、やっぱりその続きもやっておいたほうが良さそうだと思った。
部屋の隅に大量の花束と、菓子折りと思われる紙袋がいくつも置いてある。たぶん、みんな昨日のコンサートで貰ったものだろう。瑞希はお菓子なんて食べない。いくつかは私のところに回ってくるし、今回もまたこのうち一つは貰うことになるのだろうけれど、他は一体どう処分するのだろうといつも思う。花は既に萎れてしまっていて、可哀想だとは思うが、とても花瓶に挿せるような量じゃない。瑞希は、どうせもう死んでいるのだから放っておけばいいと言うのだけれど。
とりあえず、一部分だけでもどうにかしようと思って、私は小さめの花束を一つ手に取る。リボンを外し、ソファの前のローテーブルでしつこいくらいに巻かれた包装紙を広げていると、置いてある数冊の雑誌に目が止まった。今朝、ここで瑞希を待っている時に眺めていたもので、瑞希の特集記事が載っている。私は作業する手を止めた。
本に載っている瑞希はいつだって笑顔だ。いや、本だけじゃない。昨日の舞台上でも、彼女は観客に向かって笑顔を振りまいていた。だけど違う。あれは瑞希の顔じゃない。あれは、瑞希が大嫌いな『奥澤瑞希』の顔なのだ。私が知っている瑞希はあんな風に笑わない。こんな風に答えない。まったく正反対である。だけど時々、あまりにその二面性の使い分けが上手なものだから、怖くなる。どっちが瑞希の顔だか、私自身、わからなくなってしまうことがある。私が信じている瑞希は、本物なのか。本当は舞台の上や雑誌の中で笑っているほうが本物なんじゃないか、と。そう疑ってしまう自分が、嫌だ。
私は雑誌を両手で重ね、トントンとまとめる。おそらく瑞希はこのまま目も通さずに捨てるだろう。私は隅のゴミ箱の辺りに重ねて置いておいた。その時、朝は抜けていたはずの電話線が繋がっていることに気付いた。私はあえて繋がなかったから、たぶん、犯人は槙原さんだろう。一瞬、もう一度抜いておいてあげようかとも思ったが、やめた。
花束のほうに作業を戻そうとした時、突然、午前中に瑞希と別れた時の光景が頭の中を過ぎった。今日も帰ってこなかったら? そんな考えが浮かんだ。
私が今彼女の部屋に来たのは、今日は彼女を一人にしておいてはいけないと思ったからだ。理由はない。何となく、長年付き合っている友人としての、勘。
昨日のことを思い出す。瑞希のコンサートにお忍びで出掛けて、私が寮の自室に戻ってきたのは門限ギリギリだった。多少疲れてはいたけれど、いろいろと言いたいこともあったので、もし帰っているなら部屋を訪ねようと思ってカーテンを開けた。瑞希の部屋を見上げると、まだ電気は点いていなかった。それはそうだと思いながら日付が変わるまで帰りを待ったけれど、結局部屋に明かりが灯ることはなかった。
あぁ、またか。私はすぐに思った。このどす黒い夜闇の中、どこかを歩き回っている。たぶん夜が明けるまで、彼女は部屋に戻ってこない。
瑞希にそんな傾向が見られると知ったのは、確か高等部一年の終わり頃だったと思う。二月の、冷え込みの厳しい頃。
最初はマネージャーである槙原さんから、最近の瑞希には変な癖があって困っていると言われた。その後彼女はすぐに、癖と言うと少し違うと訂正して、こめかみの辺りを押さえた。思い当たる節がなくて、私にはただの彼女の思い過ごしのように聞こえたのだが、もう一年くらい前からそうなのだということを知って耳を疑った。
あの頃、瑞希はかなりの数の公演をこなしていて忙しかった。だから、なかなか会って話をする機会がなかったし、窓から彼女の部屋を見上げても、電気が点いていることのほうが珍しかった。それがある時、久しぶりに、本当に一ヶ月ぶりくらいに私の部屋を訪ねて来て、その彼女があまりにも痩せていたから心底驚いたのを憶えている。
忙しさだけではないな、というのは直感でわかった。けれど瑞希は教えてくれなかったし、まさか夜な夜な寮を抜け出して徘徊しているなんて、夢にも思わなかった。もし私があの時、槙原さんからそのことを聞かなかったら、瑞希は今も黙っていたかもしれない。
それにその行動が表れ始めた一年前と言ったら、忘れもしない、『あの一件』があった時期だった。槙原さんは、『あの一件』があったばかりだからこそ心配だとも言った。私も同じだった。いや、心配、というと少し違うのかもしれない。
私はその後、瑞希に直接そのことを訊ねたのだけれど、あの時のことはまだ鮮明に思い出すことができる。彼女が私の部屋を訪ねてきて、二人でCDを聞いていた時。
「夜、抜け出してるって本当?」
切り出したのは私だった。瑞希は少し驚いている風にも見えた。最初は答えてくれなかったけれど、私が迫ったら彼女は渋々口を開いた。
「誰から聞いた?」
「槙原さん」
「……」
「本当なのね?」
「いけないこと?」
瑞希は溜息を吐いた。私はかまわず続ける。口調が強くならないように心掛けようとする自分とは裏腹に、頭に積もった疑問が次々に口から溢れてしまう。こんなことは、自分でも驚くほどに珍しい。
「何してるの?」
「徘徊」
「どこを?」
「わからない」
「そんなわけないじゃない」
「わからないんだよ。何も考えてないし、何も見てない。気付いたら朝になってる」
答える瑞希は決して私と目を合わせようとしない。ただ淡々と、抑揚のない声で返してくるだけだ。
「どうして教えてくれなかったのよ?」
瑞希は、そこで押し黙った。口を噤んだまま、開こうとしない。
「私には話せないようなことだった?」
「違う」
「じゃあ、どうして? 私に気を遣ってるの?」
「……」
「そんな性に合わないことしないでよ。私、あんたのこと迷惑だなんて思ったことないわ」
「……本当に?」
瑞希が首を傾げてこちらを向いた。目が合う。低い声だった。思わぬ切り返しに、私は一瞬身体が動かなかった。
「本当に、そう?」
彼女は変わらぬ口調でもう一度訊いた。私には彼女がどうしてそんなことを訊くのかがわからなかった。だって私がどう答えるかなんて、わかりきっていることじゃないか。
「本当よ」
当然、私はそう言った。しかし、彼女の話はそこで終わらなかった。
「どうしてそんなことが言える?」
「えっ?」
初めて見る顔だった。瑞希は笑っていた。いや、口元が歪んでいると言ったほうが正しい。目が黒くくすんでいて、恐怖心のようなものを抱いたくらいだ。
私は言葉に詰まった。そんなことを訊かれても、答えなんてない。
「私がいると、他の同級生と仲良くできないんじゃないの? 草柳。私だってそこまで馬鹿じゃないんだから、学園での自分の評判くらいわかってるよ」
何の感情もなかった。本当に瑞希が喋っているのかと疑いたくなるくらいに。
考えたこともなかった。他の同級生と仲良くできない? 本当にそうだろうか。それに、仮にそうだとしても、何か問題があるのだろうか?
確かに瑞希の言うことは間違っていない。彼女の存在は学年の中でも、学園の中でも浮いている。初等部の頃から他より出来の良い、才能のある生徒だと大人からちやほやされてはいたが、天才ピアニスト『奥澤瑞希』になってから、彼女は必然的に浮くしかなかったのだ。だから普通の人は彼女に寄りつかないし、学園のお気に入りだと周りの生徒から白い目で見られるのはいつしか当たり前になっていた。面白がって変な噂を流す人だっている。そういう状況がますます彼女自身を自ら孤立するほうへ誘ってしまうというスパイラルを生み出しているのも事実で、今ではたぶん、私くらいしか瑞希と話をする生徒なんていないだろう。だから私自身も、他の同級生から不思議な目を向けられることもある。変人の奥澤と仲良しだなんて、私も変人と思われているのかもしれない。近づきにくいと思われても仕方がないのかもしれない。
だけどどうしてそんなことを訊く? 私はちっともこの状況が嫌いじゃない。だからこそ今だってこうして瑞希と時間を過ごしている。もし嫌気がさしていたのなら、もっと早くに瑞希のもとを去っているはずだし、瑞希だって私がそうする人間だということくらいわかっているはずだ。それなのに、どうして今更?
「誰かに何か言われた?」
それくらいしか思いつかなかった。けれど、瑞希はその質問には答えなかった。
「それでも私のこと迷惑じゃないなんて言える? 草柳さん」
気が付いたら、私は瑞希に掴みかかって床に押し倒していた。彼女の体を掴んでいる手が、震えているのは自分でもわかっていた。
「馬鹿!」
信じられないくらい大きな声が出た。泣いていたからかもしれない。
「私のことを疑うのは勝手だけど、決めつけないで! 今まで、あんたから離れる機会なんてたくさんあったでしょ? それでもあんたの傍にいるのはどうしてかってことくらいわかってよ!」
ぎりぎりで言葉を繋いだ。瑞希がどんな顔をしていたかは見えなかった。ぽろぽろと涙が零れて止まらず、視界が歪んでしまっていたからだ。
哀しかったのか、悔しかったのか、それは自分でもよくわからない。ただ思ったのは、今まで周囲のどんな目も気にならなかったのは、きっと私がそれでいいと思っていたからだ。だって瑞希といるほうが楽しい。それを変わっていると言うなら、勝手に言えばいい。今までだって、そう思っていたからそう行動していたのではないのか? 自信を持ってそうだと断言できない自分にも、腹が立った。
「ごめん」
瑞希の声が聞こえた。彼女は私のほうを見ていた。
「……草柳のことは信じてるよ。ずっと。だけどその半面、やっぱりいつも心のどこかで思ってる。『本当にそう?』って。信じてるのに、信じたいのに、信じきれない自分がいて、疑ってる。自分でも、どうすることもできない私がいるんだ」
嫌な人間だよ、と彼女は諦めたように笑った。
私だって、時々疑ってしまう。私が今話をしている瑞希は、本当の瑞希なのかと。心の中では何か違うことを考えていて、だとしたら私はいないほうがいいのかもしれないと。
でも。
「もし信じられないなら信じなくてもいいわ。疑っていい。でも、これが私よ。それで、あんたを本物だと信じて話をしてる」
私は両手で顔を拭った。私を見つめる瑞希の眼は、まだどこか灰色がかっている。
「馬鹿ね。今までのことが全部嘘だったなんて言ったら、笑っちゃう。私、そこまでお芝居上手くないし、もしそうなら学園を辞めて芸能界に入ってやるわ」
私は笑顔でそう言ってやった。でも、瑞希は笑わない。涙も流さない。俯いて、困っている風にも見えた。気持ちだけが迷子になって、感情と結びついていないのかもしれない。
「どうして、抜け出してるの?」
「……」
「『あの一件』があったから?」
「え?」
「一年くらい前からなんでしょう?」
瑞希は視線を落として黙っている。でも私は待った。彼女が黙りを決め込むつもりではないと悟ったからだ。
「……時々ね、――」
いつもの彼女の声だった。けれど、かなり慎重に出した言葉だったのだと思う。きっと掴んだらすぐに壊れてしまいそうな印象を受けた。トランプタワーよりもっと不安定で、シャボン玉よりずっと脆いだろう。そこに続くはずの言葉も、なかなか彼女の口からは出てこない。でも私は待つ。
その時、気付いた。彼女の指は小刻みに震えていて、彼女がそれを必死に抑えようとしていることに。
「瑞希」
強く発したわけじゃない。それなのに彼女は、名前を呼ばれると肩を震わせて私を見た。私は彼女に寄って抱きしめた。細くて、壊してしまいそうで、強く抱きしめるのはすごく怖い。言葉は、かけなかった。
「すごく、不安になる」
耳元で聞こえた。とても小さな声だった。何をそんなに恐れているのか、彼女はそう言って泣き出した。
――似ている。あの時の瑞希に。いや、似ているんじゃない。あのままなのだ。あの時のまま、瑞希は、まだどこか迷子なのだ。心の中はいつも、私の届かない、夜闇の中。
洗面所で花の茎を切っていたら、玄関のほうで物音がした。たぶん瑞希が帰ってきたのだろう。私は花瓶を持って部屋に戻った。ほぼ同時に瑞希が姿を現した。
「ただいま」
彼女は私のほうを一瞥してそう言った。特に驚いている風もない。適当に鞄を放って、ネクタイを外している。
「おかえりなさい」
「どうしたの?」
「え、あぁ……少し、片付けたほうがいいんじゃないかと思って」
「……ふぅん」
花を挿した花瓶を窓際に置いて、私は残りの贈り物に目をやった。花束一つどうにかしたところで、ちっとも量は減っていない。
「ねぇ、これどうするの?」
私が訊くと、瑞希はちらっと『これ』に目をやって、またすぐに私のほうを見た。
「どうするって?」
「お花とか、お菓子とか」
「どうもしないよ」いつものことだが、彼女は真顔だ。「いるならあげるけど」
「こんなにたくさんいらないわよ」
「あぁ、そうそう。その中に君が好きなやつが一つ入っていたから持っていきなよ」
瑞希は無造作にいくつか紙袋を覗いて、そのうちの一つを私に差し出した。中には確かに、私が気に入っている洋菓子ブランドの包装紙に包まれた四角い箱が入っていた。
「ありがとう」
「花なんて放っておけばいいのに。どうせすぐ枯れるよ」
「でもなんだか可哀想で」
「まぁ何でもいいけど」
彼女の無関心さは予想通りだったし、私もここはこれ以上いじっても変わらなそうだと判断して片付けるのをやめた。
ソファの上に脱ぎ捨てられた瑞希のブレザーとネクタイをハンガーに掛けていると、瑞希がティーカップを差し出してきた。薄茶色の液体からは白い湯気が立っている。
「紅茶にしたけど」
「ありがとう」
見ると、瑞希が飲んでいるのは珈琲だった。いつもそう。私が紅茶で、瑞希は珈琲。中等部の頃は私がジュースを飲んでいる横でいつも紅茶を飲んでいたけど、高等部に上がったらいつの間にか珈琲に変わった。それも、砂糖もミルクも何にも入れない、ただの珈琲。苦くないのかと訊いても首を横に振るだけ。今ではカフェイン中毒者みたいに珈琲しか飲まない。私は最近やっと紅茶に砂糖を入れずに飲めるようになったばかりだっていうのに。
「今日、先生に怒られなかった?」
「怒られた」
「やっぱり」
「でも適当に笑ってやったら、機嫌が良くなったよ」
瑞希はピアノの椅子に腰掛けて笑っている。彼女にしてみれば、よっぽど楽しい授業だったのだろう。きっと先生はたじたじだったに違いない。
私はついさっき貰ったばかりの菓子折りを開けた。焼き菓子が何種類かの詰め合わせになっていて、行儀良く並んでいる。見るからに高そうだと思った。瑞希に渡したらいらないと言われたけれど、私は無理矢理に一つを手に持たせて蓋を閉めてしまった。彼女は少し不服そうな顔をしたが、今朝パンケーキを残したことを口にしたら、諦めてかじり始めた。
「草柳は何を弾いてるの?」
ソファに座って紅茶をすすっていたら、瑞希が訊いてきた。
「ベートーベンとか」
「えぇ?」
瑞希は目を丸くした。私がベートーベン嫌いだということを知っているからだ。
私だって、本当は先生に「えぇ?」と言いたかった。でも、たまにはカッチリした曲も練習しなさいと言われて、曲目まで決められてしまったのだから仕方がない。
「あれはどうした? えっと……――」
「ブラームス?」
「そう、それ」
「もう終わったわ。あんたが学校に来ないうちに」
「なんだ」
急に声が近くなったと思ったら、左肩の上から瑞希の手が伸びてきて、目の前のテーブルの上に空っぽになったティーカップが置かれたので少し驚いた。まだピアノの椅子に座っていると思っていたのに、瑞希は私のすぐ背後に立っていたのだ。彼女は足音を立てないで歩くから、こういうのはよくあることなのだけれど、心臓に悪いからできればやめてほしい。
今度は私の隣に腰を下ろした。欠伸をして、背もたれに体を預けて目を閉じている。
「眠いの?」
「昨夜寝てないからね」
彼女は瞼を下ろしたまま答えた。口調はしっかりしている。
「自業自得でしょ?」
「わかってる」
「寝るならベッドで寝たら?」
「あそこはあんまり好きじゃなくて」
「よく言うわ」
「それにあそこにいるには薬が必要だよ」
その言葉に、咄嗟に返事ができなかった。嫌なことを思い出す。『あの一件』のことを。
「今は貰えないんだけど」
「……それも自業自得」
私は声が落ちないように誤魔化しながらそう返した。精一杯誤魔化したつもりだったけれど、瑞希には心内がわかってしまったかもしれない。
でも彼女は笑って、そうだ、としか言わなかった。私も微笑み返したけれど、両手は膝の上で痙攣するみたいに震えていた。
「明日、どうする?」
話題を変えたら少しは逃げられるかと思って探していたら、そう言葉が口をついて出た。が、あとから考えてみたら、私は普段こんな質問をしないからかえって不自然だったかもしれない。
「どうするって?」
幸いにも、瑞希は素直に返答してくれた。
「学園、休みだから」
「別にどうもしないよ」
「どこかへ行く?」
「面倒だ」彼女はいつもそう言う。「君は、どこかへ行きたい?」
「瑞希が行かないならいいわ」
「何、それ」
「ここへ来るから。溜まった貰い物のお菓子を片付けにね」
「それは助かる」
その後、瑞希は何か弾いてとピアノを指した。本来は瑞希専用のグランドピアノだし、ここが瑞希の部屋だからこそ存在するものなのだけれど、今は蓋が閉まって、おそらく随分と触れられていない。私は弾けるものなんてないと断ったけれど、彼女は聞き入れなかった。結局、ブラームスを少しだけ弾いた。彼女がいない間に合格になって、練習しなくなった曲だ。でもブラームスは嫌いじゃない。ただ手が小さい私にとっては少々難しいというだけ。私が弾いている間、彼女はソファで目を閉じたまま微動だにしなかったから、途中で寝ているんじゃないかと思った。
けれど弾き終わって、やっぱりあんまり上手には弾けなくて、私が不貞腐れていると、彼女は口を開いた。
「ベートーベンを弾いてくれると思ってた」
「だから、嫌いなんだってば」
「そうか」
彼女の声は笑っている。私の不機嫌さが伝わったのかもしれない。
「あぁもう、おしまいおしまい」
私はそう言って椅子から立ち上がった。そう気を悪くするなよ、と言われたけれど、いったん曲がった旋毛はそう簡単には戻らない。
しかし瑞希は私の顔も見ずに、たった一言、いい音だ、と言ってくれた。悔しいことに、彼女は私の性格を見抜いているらしい。私は思わず溜息が出た。彼女には、敵わない。