I 夜を這う(1)
朝になっていた。鳥の歌が聞こえて、初めて気が付いた。
夜は嫌いじゃない。むしろ日の光の届かない真っ暗な夜のほうが好きかもしれないし、何となく性に合っている気もする。闇に紛れて誰にも邪魔されずに彷徨う街は、何だかワクワクする。胸が躍る。ただその代わり、今みたいに朝になったことに気付いた瞬間の落胆は大きい。どんなに明けなくていいと願っても、必ず日は昇る。朝になる。仕方がないこととはわかっているのだけれど。
ジョギングをしているおじいさんや、愛犬に引きずられるようにして歩くおばさんに何度か追い抜かれながら、もう随分長いこと住んでいる学園寮に戻ってきた時には、辺りはかなり明るくなっていて、寮前の通りの交通量も多くなっていた。それでももう冬の初め。空気は冷たく、肌に刺さるようで痛い。吐く息は白く、数秒後には氷のような空気に溶けて消えていく。
どうやって昨日の会場からここまで帰ってきたのか、憶えていない。電車に揺られた? タクシーを使った? バスに乗った? それとも徒歩? それなら、どの道を通った? 何一つ、憶えていない。けれど間違いないのは、槙原の車には絶対に世話になっていない。おそらく、裏口から出なかったのだ。だから槙原と鉢合わせたということすらなかったと思う。その後ずっとどこかを歩き回って、夜を明かしてしまったようだ。
正面の門が開いていた。ということは、少なくとも午前五時は回っている。眠そうな様子は一切見せない守衛のおじさんと一瞬だけ目が合ったので、軽く頭を傾げて中に入った。見るからに不審そうな顔をしていた。当たり前だ。こんな朝早くにこの門を通る生徒なんてきっと片手で足りるほどしかいないだろうし、ましてや外から戻って来るなんて、まずない。まぁ、この顔をされるのにももう慣れているから私にしてみればどうってことはない。
来客者用の駐車場の前を通ったが、そこに槙原の車はなかった。何となく気持ちが軽くなったのは気のせいだったかもしれない。
古臭いレンガ造りの建物に入り、階段を上がる。私の部屋は最上階にあるから、五階分も上がらなければならない。住み始めたばかりの頃はそれが大変で、絶対に忘れ物はしないと心に決めていたくらいだったけれど、今はもう慣れてしまった。というか、何も考えずに足を進めているといつの間にか自分の部屋の前にいるから、大変だと思う暇がないのだ。
さすがにこの時間では、まだ活動している人間はいないらしい。ここに来るまで誰の姿も見ていないし、建物の中は非常に静かで気味が悪いくらいだった。
階段を上がりきって、赤黒い血のような色の絨毯が敷かれた廊下を突き当りまで歩く。角部屋。もう何年目だろう。中等部に上がった時からここに住んでいる。そう、普通の生徒ではなくなったあの時から、ずっと。
コートのポケットから鍵を出して、穴に挿して、回したところで気付いた。手応えがなかった。でも別に驚くようなことじゃなかった。私にとってはよくあること。日常。もちろん閉め忘れなんかじゃない。私は鍵を抜いて、ドアを押し開けた。
電気は点いていなかったので薄暗かった、が、足元を見ると隅のほうに靴が揃えてあった。私と同じ、黒い革靴。やっぱり、と思う。背中でドアが閉まる音を聞きながら、私は部屋に上がった。
草柳凛はソファに座って雑誌を眺めていた。おそらく彼女の前の机上に置いてあったうちの一冊だろう。どっかの知らない編集部が勝手に送りつけてきた私のインタビュー記事――いや、違う。『奥澤瑞希』の記事だ。そして面白くも何ともない。だって私は誰かが決めたお芝居みたいな台詞をただ喋っただけ。私に拍手を送る観客たちと同じで、カメラのファインダー越しにはりついたような笑顔を求められて、その通りに笑ってやっただけ。そこには真実なんて何一つ書かれていない。だから私は一度もその雑誌に目を通していないし、開いてもいない。それを草柳は、スカートの裾から覗いた小さな膝の上で広げて、無表情で眺めていた。
彼女は帰ってきた私を一瞥すると、その顔を変えることなく雑誌を閉じた。
「どこへ行っていたんですか?」
抑揚のない口調だった。でも彼女は知っている。私が今まで何をしていたのかを。知っていながら、いつもこの質問をする。「おかえりなさい」の代わりみたいなものだ。だから、私はその質問には答えない。
「何してるの?」
「こっちが質問してるの」
これも、いつもの会話。「ただいま」と返事をするような感じだろうか。よく誤解をされるが、決して喧嘩をしているわけではないのだ。
さて、彼女はいつからここにいるのだろう。私は考えるが、わからない。でも朝になってから来たのだと思う。彼女は制服を着ているし、緩いウェーブのかかった長い癖毛は綺麗に二つ結びがされている。それに彼女の部屋は二つ下の階で、窓からこの部屋が見えるから、私が戻っていないことはわかっていたはずだ。
「また徘徊してたのね?」
「悪い?」
「悪くはないけど、危ないじゃない。夜は家にいなさいって、何回言ったらわかるの?」
草柳は怒っているのかいないのか、よくわからない口振りだった。でもよく考えれば、言っていることは槙原と大して変わらない。
それなのに彼女の言葉に全く不快感を抱かないのは、どうしてなのだろう。
「一晩中歩いてたの?」
私がコートを脱いでいる間も、彼女は口を閉じない。
「正しくは、気が付いたら朝だった、かな」
「馬鹿。風邪ひくわよ?」
「そしたらずっと寝ていられるから」正確には、ずっと誰の相手もしなくて済むから。それを察してか、草柳は項垂れるように首を傾げて、ふっと短く息を漏らした。
「せめて携帯の電源くらい入れておいて」
「ごめん」
「あと電話線、抜けてるけど?」
「私が抜いた」
「どうして?」
「嫌いなんだ。あの音。耳障りだし、頭が痛くなる」
抜いたのは確か一昨日だったと思う。部屋にいたら電話が鳴って、でも何となく槙原のような気がしたから出ないで放っておいたら何度も何度も鳴った。だから線を抜いてしまった。もう二度と鳴り出さないように。
草柳が繋ぎ直してしまったかと思ったが、見るとまだ抜けたままだった。私は綻んだ。やっぱり、この人は私をわかっている。
「ありがとう」
「何が?」
「いや、別に」
「昨日のコンサート、聴いたわ」
私は少し驚いた。昨日のコンサートは入退場自由だったから来ようと思えば来ることはできたのだけれど、まさか彼女が聴いているとは思わなかった。
「本当?」
「何なのよ。あれ」
「『コンサート』だよ」
「そういうことじゃなくて」
「『演奏会』って言ったほうが良かった?」私はちょっとおどけて、鼻で笑ってみせた。でも草柳は溜息を吐く。不満そうだ。何となく、彼女の言いたいことはわかっていた。
「いくら素人相手だからって、わかる人にはわかっちゃうんだからね?」演奏のことを言っている。私のやる気のない演奏のことだ。「苦情が来なかった?」
「知らない」
「槙原さんは何て?」
「連絡を取っていないから」
「そうね。電話線が抜けて、携帯の電源が切れている限り、連絡なんて取れないわよ」
私は少しだけ笑った。相変わらず上手い返しだ。
「きっと今頃、蒼い顔してるわよ」
「あの人は元々そういう顔だ」
「誰のせいよ?」
「私?」
「本当に気の毒なマネージャーね」
「それは思う」私が頷くと、彼女はそれ以上何も言わなかった。呆れ返ったのかもしれない。でも、いつものこと。
ソファに倒れ込むように座る。上半身だけ寝転んで、長く息を吐く。上から草柳の顔が覗いた。数ヶ月前の誕生日で十八になったにしては、幼い顔。体も比較的小柄なほうである。でも彼女は私より、ずっとずっと、大人だ。
「具合が悪いの?」
「良くはないかな」
「また痩せたんじゃない?」
私は笑った。あぁ、やっぱりわかるんだ。まぁこの人は特別だから、わかってしまうだけなのかもしれないけれど。
「顔色悪いわよ。ご飯、ちゃんと食べてる?」
「つもりなんだけど」
「ほんのちょっとなんでしょ。だから駄目なのよ、瑞希は」
まったく、本当に母親のようなことを言う。
……母親?
どうしてそう思うのだろう。そんなの知らないのに。もう何年も、会っていない。今頃は実家にいると思うけれど、普段一体何をしているのかもわからない。そういえばこの間、母親の身体の具合が思わしくないと父親から電話があって、その時にほんの少しだけ話をしたから声だけはわかる。私の嫌いな機械の声だったけれど、母だった。今度の休みに実家へ戻ろうかと訊ねたら、そんなことしなくていいと返したそれも、確かに母だった。顔はぼんやりとしかわからない。最後に見たのは、確か中等部の三年の終わり――『あの一件』の直後だ。母はあの時よりも、老けてしまっただろうか。
「ねぇ、瑞希」
草柳の声が変わった。横目で顔を見やると、表情に変化はない。でも、違う。音が。
「何?」発した自分の声が耳に届いて、私も声色が少し変わっていると気付いた。まったく無意識な変化。でもこれが重要なことも、時にはあるのだ。現実の中でも、幻想の中でも。
「どうしたの?」
「何が?」
「何か、考えてる?」
「私はいつもいろんなことを考えてるよ」
彼女は口を噤んだ。眉を曇らせている。私は彼女の眼を読んだ。
「別に、君が考えているようなことは思ってないよ」
「あの時もあんたはそう言ったわ」
その言葉に、私は押し黙った。あの時、か。
「ねぇ、お願い。余計なことだとは思うけど、何かあるならちゃんと話して?」草柳は真剣な顔をしている。
「何もないよ」
「でも目が死んでる」
「大袈裟だよ」
「それにあのピアノ、あんたが一杯一杯になってる時の音よ」
言い返す言葉がなかった。完敗、お手上げだ。まったく、こいつは本当に耳がいい。もしかしたら私自身よりも私のことを知っているかもしれない。長く付き合いすぎるというのも考えものだなと思うのは、こういう時だ。
私は上手く働かない頭の中で精一杯に言葉を選んで、気のせいだろう、とだけ返した。草柳はしばらく何か物言いたげな様子だったが、話頭を転じることにしたようだ。
「今日、学園はどうする?」また違う音だった。でも、私はこっちのほうが好き。
「どうしようか?」
「そろそろ来ないとまずいんじゃないの? 出席」
「うん。留年になるね」
「やめてよ」
「でもその前に、お風呂に入りたい」
「どうぞ」
「遅くなるかも。先に行っていいよ」
「それは駄目」
「どうして?」
「そうしたら来なそうだから」
本当によくわかっている。私は思わず笑ってしまった。
「朝ご飯はどうするの?」
「どうしようか」
「食べなきゃ駄目よ。本館の喫茶室に寄って行こう?」
「でもお腹空いてないよ」
「奢ってあげるから」
「じゃあ行く」
草柳は嬉しそうに微笑んだ。やっぱり、子供みたいな顔をしている。もう何年も前から変わらない顔。私も、そうなのだろうか。
早くして、と急かされたので私は起き上がった。重たい体を引きずりながら部屋の奥にある洗面所へ行くと、制服を脱いだ。下着は洗濯籠の中へ放ったけれど、制服はどうせまたすぐに着なくちゃならないからと思って、脱いだままにしておいた。
鏡に自分の体が映っている。今度は頭から腰くらいまで。私? これが? 痩せた。いや、小さくなったと言ったほうがいい。やっぱり気のせいじゃないんだ。白くて薄くて、まるでハンペンみたいな体形だなと思った。笑った顔を作ってみようと思ったが、できなかった。やり方がわからない。ここにいる私は、『奥澤瑞希』とはだいぶ違うらしい。どうして彼女はあんな風に笑えるんだろう? どうして私はあんな風に笑えないんだろう? どんなに考えてもわからない。時間の無駄。私は諦めて、シャワー室に入った。
蛇口を捻り、熱いくらいのお湯を頭から浴びながら、しばらくぼうっとしていた。シャワーの音は、あの拍手の音よりは柔らかいから心地良くて嫌いじゃない。濡れた黒い髪の先から水が滴っている。随分伸びた。そういえば、最後に髪を切ったのはいつだったろうか。もう、憶えていない。
今までまったく気付かなかったけれど、私の両手足は結構悴んでいたらしい。お湯に触っていたら、徐々に中を血液が流れていくような感じがしてきて、じんじんと痛い。シャワーの先から流れ出たお湯が手足を伝い落ちていくのも、手についた石鹸の泡がふつふつと消えていくのも、長い髪が指の間をすり抜けていくのも、みんなちゃんと感覚がある。触れている。
……ということは、私はまだ死んでいるわけではないらしい。私はまだ、ここに在るみたいだ。
残念なことだ。
と、遠くでインターホンが鳴ったような気がした。気がしただけで、もしかしたら鳴っていなかったかもしれない。どちらかといえば後者のほうで考えたかった。なぜなら、こんな時間に私の部屋を訪ねて来る人間といったら、草柳か、私が会いたくないもう一人しかありえないからだ。
そのまま髪を濯いでいると、背後で戸を叩く音がした。
「瑞希」
草柳の声だった。磨りガラスの戸の向こうに、彼女が立っているのが見えた。どんな顔をしているのかはわからないけれど、私にはその声が、なんだか申し訳なさそうに聞こえた。私は一度シャワーを止めて、ドア越しに振り向いた。
「どうした?」
「ごめん。槙原さん、来てるんだけど……」
あぁ、やっぱり。私は思い切りシャワーの蛇口をひねった。熱い湯が勢いよく飛び出す。無意識のうちに、溜息をかき消そうとしたのかもしれない。
「今行くからって言っといて」
「うん。わかった」
草柳が行ってしまってから、私は早々にシャワー室を出た。本当はわざともっと長く入って、槙原が諦めて帰ってくれるのを待ちたかった。でもそれはしない。それをすると、草柳に悪い。
洗面所前の床で抜け殻みたいになっている制服は、つい先ほど脱いだばかりだというのにもう冷たくなっていた。私は再びそれを身にまとい、草柳の待つ部屋へ戻った。髪は軽く拭いたけれど、まだぐっしょりと濡れていた。
槙原はさっきまで草柳が座っていたソファに腰掛けていた。白っぽいスーツを着ている。昨日とは違うものだ。私が来たことに気付くと、槙原は腕を組んだままほんの少し首を傾け、視線をこちらに投げた。
「おはよう、瑞希」
機械が喋っているみたいな挨拶だ。特に何の感情も読み取れない。
「おはようございます。何かご用で?」
発した自分の声が思いのほか低かったので驚いた。槙原の向こう側で草柳が不安げにこちらを向いているのが見えて、少し悪い気がした。
「用があるから来たのよ。あなたにはもうわかっているでしょう?」
確かにわかっていた。どうせ昨日の演奏会についての説教をしに来たに決まっている。それから私の携帯が繋がらなかったことも理由に含まれているだろう。しかし、槙原の口調が厭味たらしく聞こえて気に入らなかったので、反抗することにした。
「話なら手短にお願いします」私は頷かずに言った。
「手短に済むような話じゃないわね」
「それなら後にしてもらえませんか? 私、これから学園に行くんです」
「こんな時間から?」
「いけませんか?」
「いいえ。あなたの本業は学生だもの」
「だったら戻ってからにしてください。私の出席が危ないのは槙原さんもご存じでしょう?」
「昨日の分なら、学園主催のイベントだったから欠席にはならないわ」
昨日だけの問題ではないし、そもそも私が言っているのはそういう意味じゃない。
「それより瑞希、あなた最近変よ?」
勝手に話を打ち切られたことには若干腹が立った。しかしそれよりも、この話は本当に長くなりそうだと私は直感した。槙原が投げてくる視線がいつもより強いように感じたからだ。
私は部屋の隅に佇む小さな少女に目をやった。
「草柳」
彼女は私が名を呼ぶと、ふっと顔を上げた。
「悪い。先に行ってて」
「え、でも……」
「五分で行く」
私はソファの背もたれに掛かっていた草柳のコートを差し出した。彼女の目線が一瞬そのコートに落ちて、すぐに彷徨った。戸惑っている。
「必ず行くから」
泳いでいる彼女の視線を捕まえて、私はそう言った。やがて彼女は黙って頷くと、コートを受け取り、部屋を出て行った。
ドアが閉まったのを音で確認して、私は口を開く。
「話って、それですか?」
再び洗面所へ向かった。生乾きになった髪を乾かすためだ。槙原は私のあとについてくる。
「そうよ」
「変って、何です? 芸術家なんてみんな変ですよ」
「あなたどうしちゃったの? 昨日のコンサートだって――」
「別に普段どおりにやったまでです」
「嘘おっしゃい。幸い苦情はなかったけれど、不快に思ったお客様だっていたはずよ?」
「それが何です? 相手はミスさえしなければ満足するような素人ですよ?」
「瑞希」
あいつらは音楽に対して拍手をしているんじゃない。あいつらは弾いているのが有名人だから拍手をするだけだ。現に、あいつらは私がどんな弾き方をしようと手を叩いてくれる。昨日だって、その前だって、十分すぎるほどにそう証明してくれている。
「聴きたい奴が聴けばいい。文句があるならさっさと帰ればいいんだ」
「やめなさい」
「そうでしょう?」
かなり強い語気だったと思うが、かまわなかった。槙原は深々と溜息を吐く。
「まったく、学長に何て報告したらいいのよ」
「適当にすればいい。実際に聴いていたわけじゃないんだから」
「そういう問題じゃないの」
槙原がまだ話をしているのは百も承知だったが、私は構わずドライヤーのスイッチを入れた。熱風は何となく心地良かった。
「瑞希。あなた、学園の看板を背負ってるってことわかってる? もっとちゃんとやってもらわないと――」
私は返事をしなかった。鏡越しに槙原を見ようともしない。彼女がどんな顔をしているのかなんて、興味はなかった。ただ私の後ろに彼女が立ち続けていることだけは、ずっとわかっていた。
ほとんど乾いた頃になって、私はドライヤーを止めた。急に辺りはしんと静まる。
「私はちゃんとやってるつもりですよ」
「つもり、じゃ困るの」
「誰が?」
「誰がって……」
槙原は溜め息を吐く。困り果てた顔。彼女はわかりやすい人間だ。まったく、溜息なら私が吐きたいくらいなのに。
「私、何度も言いましたよ。槙原さんに迷惑は掛けられないから、付き人は辞めてくれって」
今でもよく憶えている。中等部に上がって、学園が私をプロのピアニストの座に祭り上げた時、マネージャーとして学園から辞令を出されて私のところへ来たのが槙原だった。けれど私はその時既に、自分が学園の望むような人間ではないし、そういう人間にはなれない(なりたくない)と強く思っていることに気付いていたから、この先槙原には迷惑だとか、心配だとか、他の人だったら絶対にしなくて済むようなそういうものを背負わせることになるだろうと予想していた。だから私はしつこいほどに、マネージャーなんていらないと彼女を拒んだ。それが私のためで、何より彼女自身のためであると思ったからだ。それなのに槙原は今もこうして、私にまとわりついたまま離れない。
「あなたがそう言ったからって、『はい、そうですか』っていうわけにはいかないのよ」
私がこの話をすると、彼女はいつも決まってそう返す。やっぱり今日もそうだった。
「お願いだから、少しは改心して頂戴よ」
「私がしてることって間違ってます? いけないことですか?」
「いいえ、いけなくはないわ。でも正しくはない」
「どうして?」
「あなたらしくない」
私らしい、って何?
「あなたはもっと、ファンを大切にして」
私は思わず笑ってしまった。『ファン』だって? 可笑しくてたまらない。何がファンだ。客席に座って、とりあえず拍手を送っていればファンか? そんなものいらない。そんなものが欲しいなんて望んだことは、一度だってない。
「あなたは『奥澤瑞希』なの」
冷水を掛けられたようだった。私は口を噤む。胃の後ろのほうをぎゅっと掴まれているみたいな感覚がした。
「あなただって、わかってるんでしょう?」
その名前は私が一番嫌いな名前だった。大嫌いだ。私は私。私はそれだけしか望んでいないのに、そのたった一つの名前のせいでそれすらも叶えてはもらえない。私は私じゃない。私は『奥澤瑞希』なのだ、と。
「……要するに、私はいらないってことですか」
慎重に発していた。声が震えないよう抑え込むためだ。
「そうじゃないの、瑞希」彼女はすぐに否定する。「どうしてそういう風にしか考えられないの?」
「だってそうでしょう? 一人の人間としての私より、学園の人形として世間に通じる私のほうが、価値がある」
「そんなことないわ。あなたはあなたよ。それでいいの」
「違う」
私は人形なんかじゃない。
「そうやって自分だけで考えて決め付けるのは良くないわ。あなた、そうやってこの先もずっと一人で生きていくつもりなの?」
「そのほうが気が楽ですね」
「あなたは間違ってる。いい? 独りで生きていくのなんて楽なわけないし、そんなのできるわけない。ここにいる間だって、絶対にみんなあなたを独りにはさせない」
「迷惑な話ですね」
「あなたのためよ?」
「それは違う。私が学園から出て行かないようにするため、でしょう? 私がいなくなると、学園が困るから」
「瑞希」
少しだけ、尖ったような口調だった。槙原と目が合う。見たくない。一瞬だって。
私は席を立った。
「草柳が待ってるのでもう行きますね」
「待ちなさい。まだ話は終わってないのよ」
「私にはもうお話しすることなんてありません」
「瑞希」
部屋を出ようとする私を、槙原は腕を掴んで止めた。私はその手を振り払う。
「別にかまいませんよ。私は、今すぐに死んだっていいんですから」
「あなた何言って――」
「失礼します」
廊下に槙原の声が響いていた。私は立ち止まらない。早くここを立ち去りたい気持ちのほうが先を行って、手に持ったコートも着ないままに、私は階段を駆け下りた。
槙原は追いかけて来なかった。やっと私は溜息を漏らすことができた。どこかに詰まったままの何かが、ようやく少し流れたような気がした。
寮の正面玄関から外に出たところで、草柳が立っているのに気付いた。もう先に本館のほうへ行っていると思っていたから、少し驚いた。出てきた私の様子がそんなに変だったのか、彼女はとても心配そうな顔をしていた。コートを着ていなかったことを不審に思ったのかもしれない。
「ごめん」
袖に腕を通しながら、私は彼女に近づいた。言葉と一緒に白い靄が口から出て、どこかへ消えていった。左手に何かが触った感じがして、見ると草柳が指先を握っていた。彼女の顔を見ると、不自然なほどにこやかに笑っていた。
「……どうした?」
「ううん、別に。行こう?」
草柳は頭を振ったが、手は離さなかった。彼女の手は小さかったけれど、とても冷たかった。でもそれが何となく心地良くて、私は何も言わなかった。
門を出る時にほんの一瞬だけ寮のほうを振り返ったが、槙原はもういなかった。
喫茶室は本館の一階、コの字型をした建物の右側の廊下を突き進んだ、一番奥にある。存在が目立たないからなのか、それとも朝早いからなのか、人の姿はなかった。ただ、私は草柳に連れられて何度かここへ来たことがあるけれど、この喫茶室が混んでいるという印象はまったくない。
草柳は本当に朝食をご馳走してくれた。自分で払うと言ったのに、約束だから、と聞かなかったのである。食欲がない時にこれをされると、容易に残せないから厄介だ。まぁ、草柳ははじめからそれを見越していたのかもしれないけれど。
座ったのはいつもの席。一番奥の、一番目立たない角の席。別に好んでこの席にしているというわけではないのだけれど、いつだって人がいないからいつだって空いていて、いつだって勝手に足はこの席に向かう。それだけのこと。
「はい、おはよう」
この喫茶室を仕切っているおばさんが食券を切りに来た。左胸に付いた手書きのネームプレートには、割と整った字で『相良』と書いてある。だから、私はとりあえずこのおばさんは『相良』なのだと認識している。下の名前は知らない。年は訊いても教えてくれないけれど、外見は四十代後半くらいに見える。背は高くないが、小太りで、もう少し太っていたらオペラ歌手にでもいそうな雰囲気。気さくで、たぶん専業主婦をしていたら家の前で三時間以上隣人と立ち話をしているタイプだと思う。でも、わからない。実際は恥ずかしがりやで、人と話すのなんて大の苦手かもしれない。名前だって、本名は『相良』じゃないかもしれない。私はこの人の本当を知らない。知る必要なんて、ないのだけれど。
通常、食券は自分でカウンターまで持って行かなければならないのに、このおばさんはいつも席まで切りに来てくれる。世話焼きなのか、あるいはよっぽど暇なのだろう。
「おはよう、おばさん」草柳がにっこりと返した。
「久しぶりね。元気そうじゃない」
「おばさんもね」
「元気だけが取り得だからね。瑞希ちゃんは、少なめね?」
私が返事をするより先に、おばさんはビリビリと食券を破いて厨房へ消えた。随分と前からこうなのだ。そういう梅雨っぽくないところは嫌いじゃない。
黙ったまま窓の外を見ていると、向かいの席で草柳が頬杖をついたのがわかった。両手の上に顔を乗せて、私を見ている。にこやかだった。
「で、さっきの話の続きだけどね」
「さっきの話?」
「コンサートの話よ」
「あぁ」
「でもね、あれは良かったわ。『雨だれ』」
「そう」
「いつもそうだけど、瑞希って、どんなに酷いコンサートでもあの曲だけはちゃんと弾くのね」
厭味なのか何なのかよくわからない台詞だが、私は可笑しかった。言葉を返せない。まったく、本当にこいつは憎らしくなるくらい耳がいい。
「好きでそうするわけじゃないよ」
「あら、どうかしらね?」
「意地悪だなぁ」
「お互い様でしょ」
草柳は笑っている。
嘘ではなかった。フレデリック・ショパンの前奏曲第十五番――確かに、私は『雨だれ』を適当には弾かない。それは弾いている自分自身でもわかっていたけれど、自ら進んでそうしているわけでは決してないのである。私にとって特別に難しい曲だというわけでもないし、好きか嫌いかと問われたら嫌いと答えるくらいのものだ。ただ何というか、体が勝手にそうしてしまう。喫茶室へやってきて、気付いたらこの席に座っているのと同じ。
わかっている。それはきっとアイツのせいなのだろう。
「だけど他の曲だってちゃんと弾いてよ」
「私は弾いているつもりだけど」
「つもり、ね。今日、楽譜持ってきた?」
「あぁ、確認しなかったよ」
私は今になって気付いた。玄関の近くに置きっぱなしになっていた鞄を、中身も確認せずに引っ掴んできてしまったからだ。もしかしたら、今日の授業で使うはずの楽譜が入っていないかもしれない。
「ちょっと、どうするのよ? 取りに行く?」
「嫌だよ。またお小言を聞きに帰れって言うのか?」
右手で鞄を引き寄せて、中身を確認する。もし楽譜がなくても、草柳には入っていると言うつもりだった。けれどその必要はないようだ。鞄の中には、必要な楽譜のファイルがちゃんと納まっていた。よく考えてみれば、入っていて当然だった。私は前回のレッスン後からこれを一度も部屋で出していない。
「あった」
「良かった。これで安心して朝ご飯が食べられるわね」
「よく言うよ」私は笑った。いや、笑ったんじゃない。ちょっと口元が綻んだだけだ。一体どうやったら笑えるのか、もう随分と前に忘れてしまった。周囲の話によれば幼稚園や初等部の頃まではよく笑っていたらしいのだが、私はそれも憶えていない。
おばさんがやってきて、テーブルの上にパンケーキの乗った皿を置いていった。湯気が立っていて、まだ温かそうだった。自分の目の前に置かれた皿と草柳の皿とを比べたら、私のほうのパンケーキは一枚少なかったし、大きさも少し小さめだった。けれど、私はそれでも全部は食べられないだろうなと思った。
「今はどんな曲を弾いているの?」草柳が訊ねた。
「……何だっけ?」
私はちょこんと皿の隅に添えられた生クリームをフォークでつつきながら考えた。授業なんてここしばらく出ていなかったから、すぐには頭に浮かばない。
「練習してるの?」
「三、四日前に少しだけ」
「そんなことだろうと思った」
「どうして?」私はふと視線を上げて草柳を見た。
「蓋に埃が溜まってたわ」
「本当?」
「嘘」
彼女は小瓶に入ったシロップを回しかけながら微笑んだ。本当にこいつは意地悪だ。
私はまた生クリームに視線を戻す。
「でも怒られるわよ? きっと」
「また頭が痛くなる」
その時どうしてか、私を担当している教員の顔が浮かんだ。このパンケーキみたいに丸い顔をした、初老の男である。好きじゃない。私はナイフとフォークを手にすると、バターも塗らずにパンケーキを切り分けた。
「確か、ラフマニノフだったような気がする」
「ラフマニノフの、何?」
「何だったかな?」
「プレリュード?」
「たぶん。ほら、あの土臭いやつ」
「土臭い?」今度は草柳が眉を顰めながらこちらを見る。「何よ、それ」
「先生がそう言ってた」
「土臭いって?」
「うん。どうもこの曲は土臭い感じがするって」
「変なの」
「先生がね」
草柳は笑っていた。それから何の断りもなしに、自分がさっき使っていたシロップの残りを私のパンケーキにかけた。滲み込んだ部分が本当に土みたいな色になった。
「練習していないなら、昨日弾いたのを持っていけばいいのに」
言われて、『昨日弾いたの』が何だったか考えた。『雨だれ』の他にいくつか弾いたはずだが、なかなか思い出せない。短時間で唯一浮かんだのは、私の嫌いな練習曲だけだった。どういう嫌がらせなんだろう。私は頭を何度か振って、それを追い払う。
「エチュードは嫌い」
「贅沢ね」
「いい。適当にやるよ」
そう、いつものこと。適当にやって、横で先生が何か喋っているのに相槌を打っていれば時間は勝手に過ぎる。時々少し笑ってあげれば機嫌も良くなって、それでおしまい。いつもそう。今日だって、それでいい。
私は切り分けたパンケーキのひと欠片を口に運んだ。ふかふかして、クッションみたいだ。それで甘ったるい。しかし珍しく、砂を噛むような嫌な感じはしなかった。そういえば、何かものを口に入れたのは久しぶりのような気がする。こういうのを人は『美味しい』と言うのだろうか。
考えているときっと食べられなくなると思ったので、私はそれ以上詮索しないことにした。
「卒業演奏会は?」
「え?」
草柳は訊ねながら私の皿に手を伸ばしていた。彼女の皿のほうを見ると、いつの間にかパンケーキはなくなっていた。
「まさか忘れてたなんて言わないでよ?」
「忘れてた」
「もう。あと四ヶ月切ったわよ?」
「まだそんなにあるのか」
「その土臭いやつを弾くの?」
「さぁ、どうだろう?」
なんて適当な返事をするのだろう、と自分でも呆れかえるほどだった。だけど本当に、それしか言いようがなかった。そもそも本当に卒業演奏会なんて出るのか、それすらもわからなかった。
「……まさか出ないなんて言わないわよね?」
「できればそうしたいところだ」
草柳がこちらを見ているのはわかっていたが、私は視線を窓の外にやったまま戻さなかった。それにはたぶん何か理由があったと思うが、それを考えると駄目なような気がして考えないようにした。
結局、それから十五分ほどして席を立った。私はパンケーキを全部食べられなかった。