序
誰かが手を叩く。幻想から醒める合図は、いつもそれと決まっている。一つから二つ、二つから三つと増殖するそれは、あっという間に数え切れないほどの拍手となって、そこら中に響き渡るのだ。私にはその音が無感情で、まるで窓を打つ強い雨音のように聞こえる。いつまでも鳴り続けて、止まらない。耳が痛い。頭が痛い。手を叩かなければならないというのが決まりなら、一体誰がそんな決まりを作ったのだろう。まったく、迷惑極まりない。幻想の余韻を感じるほんの少しの時間すら、与えてはくれないのだから。
頭上から差す機械的な光には、太陽みたいな和らぎなんて欠片もない。直線的で、刺すように痛い。下に立っているだけで、ふらふらして倒れそうになる。私には強すぎて、明るすぎて、眩しすぎて、いらない。そんなもの、いらない。
何にもいらない。
だって耳障りな拍手や光の代わりに、私は笑っていなくちゃならない。そんなのただ疲れるだけ。そんなの、本当の私じゃない。それなのに与えようとする。与えられる。どうして?
与えられる度に、私は私を否定されているような気がする。どんどん小さな鳥籠に入れられていくような気がする。息が詰まる。そのうち本当に呼吸できなくなってしまうんじゃないかと不安になる。もちろん、ほっとする静寂を一気に打ち破る拍手を全身に浴びている、今この瞬間も。
お辞儀の角度については耳に胼胝ができるほど聞かされた。会釈が十五度、敬礼は三十度。今は最敬礼だから、九十度。面倒くさい。本当に。でも言われたとおりにやっておけば、とりあえず後々説教されるという二次災害は防げる。まるで機械のようだけれど。
折り曲げた体を真っ直ぐに立て直すと、客席の間の狭い通路を誰かが降りてくるのが見えた。体に似合わない、大きな花束を抱えて、階段を駆けてくる。かなり近づいて、それが小さな女の子だということがわかった。下ろした長い髪はまだ柔らかくて、走る度にふわふわと弾んだ。
女の子は舞台のすぐ下まで来ると、両手で花束を差し出した。口はきゅっと噤んで、大きくてくりくりした目で私を見つめる。知らない顔。何となく、あまり私に好意を持っているようには感じられない。私は舞台の縁ギリギリまで近づいてしゃがむとそれを受け取った。それまで以上に意識してにこやかな顔を作る。女の子が花束から解放された時、初めてその子が後輩だということがわかった。学園初等部の制服を着ていた。
学園が用意した『サクラ』か? そう思いながら、花束すら素直に受け取れない自分を笑った。本当に、なんて嫌らしい人間だろう。一応礼は言っておいたが、聞こえたかどうかはわからない。おそらく口は動いていたと思うが、別にどっちでもかまわなかった。私はいまだに手を叩き続けているご苦労な観客にもう一度お辞儀をして、舞台袖に逃げた。そろそろこの顔を維持しているのは限界だった。走って席に戻っていく女の子の背中は、最後まで見なかった。
袖に入ると、急に体が重くなった。それなのに、ふわふわする。地に足がついていない感じ。四方八方から飛んでくる「お疲れ様」の声は、どこか靄がかかったようにはっきりしない。返事をする自分の声も、誰か別の人間が発した言葉みたいに聞こえる。公演が終わった後は、だいたいいつもこんな感じ。どうしてこうなってしまうのかは自分でもよくわからない。舞台の上でちゃんと笑えていたかどうかが、少し心配だった。
前方に、女が一人いる。背後の機材に寄りかかるようにして立っている。見慣れた顔。そして私が今一番見たくない顔。おかっぱみたいな頭で、レンズの小さな銀縁眼鏡を掛けている。明らかに実年齢より老けて見えるのに、彼女はなぜかその外見を変えない。出会った時から、ずっと。
「お疲れ様、瑞希」
不機嫌な声だ。それは、一瞬でわかった。でも聞く前から何となく予想はしていたから、別に驚くようなことでもない。
「アンコールは?」
「なしで」
「えぇ、私もそれがいいと思うわ」
なら訊かないでくれ。でも口にも顔にも出さなかった。以前からそういうことは得意なのだ。以前がいつだったかは自分でもわからないのだけれど。
私は歩を止めず、もらった花束を彼女に押し付けて楽屋に向かった。今の私には強烈すぎるこの匂いが受け付けられない。私の足は勝手に速度を増す。この窮屈な衣装も、履き慣れないヒールの靴も、早く脱ぎ捨てたい。一分でも、一秒でも、早く。
廊下の壁の白さが眩しくて、目を開けているのが辛い。これじゃあ自分の楽屋がどのドアだったかわからないじゃないか。私は壁に片手をついて、自分の体を支えながら歩いた。女はそんな私の後ろをつかつかとついてくる。
「お腹空いてるでしょう? どこかで食事をしましょう」
妙に優しい口調だった。知ってる。この人がこういう態度の時、何を考えているのか。
「すみません、槙原さん。今日は、着替えてもう帰ります」
「調子が悪い?」
「えぇ。だから帰って寝たいんです」
「じゃあ、寮まで車で送るわね」
「いえ、一人で帰ります」
「危ないじゃない。時間も遅いし、あなた、顔色悪いわ」
「大丈夫です」
私は壁と同じくらい白いドアの取手に手を掛けた。ここが自分の楽屋だとわかったのはある種の帰巣本能だと思う。槙原を中に入れたくなかったので、私はできるだけドアを閉めたまま自分の体を室内に滑り込ませると、すぐにドアを引いた。それを槙原が止める。
「ちょっと待って、瑞希。やっぱり一人では帰せないわ。車を回すから、着替えたら裏口へ来てちょうだい。いい?」
返事をしたかはわからない。あとから思い返しても、記憶になかった。何と返事をしていても私は彼女の車に世話になるつもりはなかったからどうってことはない。私は槙原が押さえているのを無視してドアを閉めた。そんなに思い切り引いたつもりはなかったのに、大きな音が鳴った。たぶん、途中で槙原が手を離したからだ。しばらく頭の中でその時の音が木霊していて、不快だった。
鍵を掛けると、不思議と安心感を抱いた。崩れるように椅子に腰掛けて、テーブルに突っ伏した。酔っているのだ。優しくて、楽しくて、美しい、幻想の世界に。まだこちら側に完全に戻ってくることができなくて、動揺しているのだ。頭はまだぐらぐらしている。目を閉じてもわかる。さっきより酷くなっている。それに気持ちが悪くて吐きそうだ。でもきっと何も吐けない。いつもそう。洗面所に行ったところで、結局何も変わらない。私は背中に手を伸ばしてファスナーを開け、水色のロングドレスを脱いだ。白い靴はとっくに脱いで、裸足になっていた。ほんの少しだけ、解放されたような気分になった。嫌になるくらいの気だるさの中でも、この瞬間だけはいつも好きだ。
椅子に座ったまま、開演前に差し入れとしてもらった緑茶の缶を開けて飲んだ。一気に半分くらい減った。味はわからない。普段なら何か感じるのかもしれないけれど、今はただ生温い液体を流し込んでいるという感覚しかない。もしこれがお酒だったらどうだろう、と時々想像する。私は未成年だからわからないけれど、たぶんこの緑茶よりは美味しいんじゃないかと思う。私の周りにいる大人は、みんなそう言う。嘘か本当かは知らない。私は缶をテーブルに置いた。それ以上は、触れなかった。
あまり言うことを聞いてくれない体を引きずるようにして椅子から立ち上がると、下着姿の自分の姿が鏡の中にあった。鎖骨から臍の少し下くらいまでしか映っていなかったけれど、相変わらず不健康な肌の色だと思った。それに久しぶりに見たけれど、少し痩せたかもしれない。何となく、線が細くなった気がした。
その後、制服を着たところまでは確かな記憶がある。いつもの灰色のブレザー。灰色のプリーツスカート。白いワイシャツ。黒ずんだ赤いネクタイは面倒くさくて着けなかったし、学校指定のハイソックスも丸めて鞄に突っ込んだ。脱いだロングドレスは適当に畳んで、白い靴は箱にしまって紙袋の中へ。部屋の隅にでも置いておけば、槙原がここへ来た時に気付いて持って行ってくれるだろう。そうしたらきっとクリーニングにでも出して、いつものように学園に返却しておいてくれるはず。化粧は、そもそも嫌いだからという理由の他に、公演が終わってから化粧を落とせなくなるからという理由があるから最初からしない。舞台に立つのにみっともない、と槙原は猛反対だったけれど、私は絶対譲らなかった。だから今日も、化粧を落とすという面倒な作業はしなくていい。最後に黒い革靴を突っ掛けて、自分ではハンガーに吊るした覚えのない黒いコートを羽織って、私は楽屋を出たのだと思う。