黒い車椅子
ねぇ知ってる?見ると呪われる…があるんだって。
見るだけで呪われるの?
怖いなぁ…くすくす。
でも、どうせうわさでしょ?
うん…でもねぇ―
私がD病院にきたのは夏を過ぎての事。
元は別の病院勤めだったが、都合でD病院の方に転勤する事となった。住むまち自体は変わらず、場所が変わって少し距離が遠くなったけど、それ程不都合には感じなかった。
仕事自体やる事は変わらないし、唯一働き場所が変わって最初に悩むのは、病院内の構造を覚える事だった。
ナースステーションの場所から他病室の並び、階層による受付の科の違いなど、前とは違う事を一から覚え直さなくてはいけない。これも苦とまでは言わないが、地味に大変だった。
今日は先輩の看護師から案内を受け、病院内の中を歩いていた。前の病院とは似ていたが、違う箇所も合って間違えては困るとメモを取りながら先輩から説明を受けていた。
「…そう言えば、まだうわさしているのかな。」
案内の説明の最中、フと先輩がそんな事を呟いた。一体何のことか私には分からず、首を傾げていると、先輩は話を続けた。
「病院内でね、うわさになっているの。
『黒い車椅子を見ると呪われる』…って。」
聞いた瞬間、まだ残暑で少し暑さを感じていた筈なのに肌寒さを感じた。
病院とは常に患者の生死が関わる場所だ。それ故に『そういう話』はどこの病院でも耳にする。現に前に病院でも亡くなった患者の霊が出たとか言われて、看護師内で少し騒ぎになり、それを咎められたりした。
それに覚えている限りでは、この病院で使われている車椅子に黒い色のものは無かった筈だ。それで黒い色があったとしたら、誰かが持ち込んだかで問題になるし、そういう意味では確かに怖いかも。
しかし、夏は過ぎて怪談話の季節ではないというのに、一体先輩は何故その噂話をここでするのか?見ても先輩はうわ言でも言う様にして、「患者が怖がるというのに、まったく」とぶつぶつ言って私の方を見る事無く説明に戻っていた。
もしや、患者の前で怖い噂話をするな、とさりげなく注意喚起でもしたかったのだろうか?それなら愚痴としてではなくはっきりと言ってくれれば良いのに。なんだか嫌な先輩に当たってしまったな、と思った。
それから日時が過ぎて、先輩から聞いた話の中で噂に関する事だけ記憶から少し薄らいで行った頃、病室の片づけを終えて、ナースステーションに戻る最中に、視界の端に何かが入った。
廊下の隅の方に、車椅子が置かれていた。
病院内で車椅子の置き場所は階毎に決まっているのだが、この場所は車椅子の置き場では無く、誰かが意図して置き去りにしたのか、もしくは病院外の人間が車椅子の置き場所が分からず、適当な場所に置いたのか?
それにしても、こんな隅っこに置いて行く事もないのにと内心で苛立ちつつ、私は車椅子の取っ手を掴み動かした。
車椅子は、ひやりと冷たく、古びているせいか重く動かしづらかった。
すると近くだったナースステーションの方から声を掛けられて、車椅子は一旦置いておき、呼ばれた声の方へと早歩きをした。
「○○先生が呼んでたわよ。」
「はい、分かりました。…あっそうだ。そこに車椅子が置いてあるので、片しておいてください。」
代わりに車椅子を片づけておくよう頼んで、私は呼び出した先生の元へと向かった。
「えっ車椅子…って、どこ?」
看護師の声を聞かず、私はその場を離れた。
それからまた日時が過ぎた。元から看護の仕事に慣れていた事もあり、その日は夜勤をする様に言われた。前の病院での噂もあり、少し怖くはあったが、仕事だからと自分に言い聞かせた。
そして他の看護師と分かれて夜の見回りをしていたその時、背後から音が聞こえた。
カラカラ…キィキィ
どこか聞き覚えの張るその音を耳にして、私は振り返って見たが背後には何も無い。
一体何の音だったか。考えはしたがそれ以上は思い出せず、音の方ももう聞こえてこなかったから、気にはしていなかった。
それから別の日の昼間、患者の相手をしてから部屋を出ようとすると、その患者が私に向かって言ってきた。
「あの車椅子、片付けてくれませんか?」
私は思わず息を飲んだ。そもそもその患者は意識も朦朧としていて、はっきりと喋る事が出来ない筈だった。しかしその時だけは何故かはっきりと何を言っているのか聞こえた。
そして患者が指差した方を見たが、車椅子らしきものなどどこにも無かった。
もう一度話を聞こうと患者の方を見たが、既にいつもの朦朧としてうわ言を呟くだけの状態となっており、正直今さっき私に話し掛けた時の様に話をするヒトには見えなかった。
そして車椅子という言葉を聞いて、薄らいでいた記憶が濃くなった。
以前先輩が話した噂話、黒い車椅子を見ると呪われる。そんな馬鹿なと思いつつも、頭のもう片方では警報が鳴っていた。思い出さない方が良い。そう自分に言い聞かせていた様だったが、でも遅かった。
そう言えば、私が片付けようとした車椅子の色は何色だったか?
私は首を振って掻き消そうとしたが駄目だった。一度頭に浮かび上がるとなかなか消えない。私は何が何でも消そうとして、仕事に戻った。
別の日、涼しくなってきたからと扇風機を物置に片付けようとしていた時、丁度一緒に片付けてた看護師がトイレに行って少し経った。なかなか戻って来ない看護師の事を気にしつつも、私の頭の片隅には例の車椅子の事が残っていた。
気のせいだ気のせいだ。黒い色の車椅子何なんてどこの病院にだってある。珍しいものじゃないし、所詮は噂なのだから怖がる必要は無い。
頭の中で何度も自分に言い聞かせてはいるものの、しかし感情までは簡単には操作出来ない。
カラカラ…キィキィ
また聞こえたその音、背後を見てもやはり何も無い。
気のせい気のせい、考え込んでいるから幻聴しているだけだ。
カラカラ…キィキィ、カラカラ…キィキィ
何度も聞こえて来るこの音、何の音なのかなど、とっくの昔に分かっていた。
あれは錆びついた車椅子の音だ。でもこの病院でそんな音を出す車椅子は無い。患者を不快にしてはいけないと、錆びついた音を出す車椅子は修理に出すか、廃棄されるか決まっていた。なら何故音が聞こえる。どこから聞こえるのか。
カラカラカラ…キィキィキィ
まだ看護師は戻って来ないのか?何故戻って来ないのか?もう駄目だ。片付けに集中出来ないし、私は居てもたってもいられず、物置から離れる様にして廊下を駆けだした。
普通なら病院の廊下を走ってはいけないと言われるところだが、物置は地下室にあり、地下室には滅多にヒトが来ない。こんな時こそ誰かとすれ違いたいのに、誰ともすれ違わず、然程走ってもいないのに私は息を切らした。
カラカラカラ…キィキィキィ
聞こえる音を聞いて、また気付いてしまった。音がどんどん近寄ってきている。音からしてゆっくりと車椅子は動いている筈なのに、走っているこちらから離れる事無く、近寄ってきている。
怖い恐いコワい!階段からそんなに距離も離れてい無い筈なのに、何故か今はとても遠くに感じる。
気のせいだ、仕事を優先しなくては。そんな考えで見て見ぬふりで来たが、それを許されない程に音がはっきりと聞こえて来て足が後から離れようと勝手に速く動く。
必死に走る中、目の前に階段が見えた。恐怖による緊張が和らいだ。
キィ
緩んだと思った緊張感がまた張り詰めた。
そして私は自分自身に嘘をついた。音がする方へと振り返ったと言ったが、ただ一か所だけ見ていない場所があった。
それは自分が進む前方、そこにワザと目線を送らずにいた。
今、私に目の前に、この病院には無い筈の、黒い色をした車椅子があった。
あの時、最初に車椅子を見つけた時、何故あの車椅子があんなに重く感じたのか、正面から見て分かってしまった。
その車椅子には、もう誰かが座っていた。そのヒトの顔は俯いていてよく見えないが、でも、私だからこそ顔を見ずとも分かってしまった。
骨ばって、血の気が失せて、無機質な装束を着ていたが、それでも気付いてしまった。
黒い色の車椅子に座っているのは、そのヒトは、紛れもなく、自分自身だった。
次に気付いた時には、私は寝台の上で横になっており、見知った部屋の天井を見つめていた。
聞くと私はあの地下室の階段前で倒れていたのを、トイレから戻ってきて私の姿が見えなかったからと探してくれた同僚の看護師が見つけたのだとか。
怪我こそ無かったが酷い貧血状態だったらしく、そのまま仮眠室で横にして、場合によってはそのまま入院になっていたと聞いた。
様子を見に来た先生方に何があったかを質問され、話すのと迷ったが、私は車椅子の噂話の事を話した。きっと自分が見ていたのは幻覚だ。恐怖心で勝手に気絶したのだという自分の意見も含んで話すと、先生方は訝しんだ表情になった。
「噂…そんな話、聞いた事あったか?」
「いや?少なくとも他の看護師からも聞いていないし、君を見つけた看護師から事情を聞いた時も、それらしい話は聞いていないな。」
一瞬、先生方の話が頭には言って来なかった。
いや、ただ単に看護師の中だけで話が広がっていて、先生方の方まで噂が広がっていない可能性があった。看護師が噂していたからと言って、他の全員に噂が広がっているとは限らない。
先生は、誰から噂を聞いたのかと質問してきて、私はこの際洗いざらい吐きだそうと思い、話を聞いた時の事を話そうとした。が、何故か声が出なかった。
あれ?そう言えば、私は誰から噂を聞いたのだったか?
確か先輩の看護師だった筈だが、その先輩看護師の名前が思い出せない。しかも顔も思い出せない。
…そう言えば、まだうわさしているのかな。
病院内でね、うわさになっているの。
患者が怖がるというのに、まったく―
私は、今の今まで、その先輩の顔をちゃんと見ていないのを思い出した。何よりも、その時の先輩は一度も私の方を見てはいなかった。
そしてその時、その先輩と一緒に居る時も、他の誰ともすれ違う事が無かった。
そこまで思い出して、私は黙って俯いてしまい、先生方に大丈夫かと何度も声を掛けられた。その声に反応する事さえ出来なかった。
それから私は数日の間、休む事となった。正直あんな事に遭って、また同じ病院で勤務出来るかと言われたら無理だと言えた。
しかし、不思議と私の足はあれだけの恐怖を味わいながらも、休みが明けると自然と職場である病院へと向かっていた。そしてあの出来事は、あれ以降身を潜めるようにして、二度と起こる事は無かった。
軋んだ車椅子の音も、あれ以降聞こえてこない。何故私の身にあんな出来事があったのか。結局あの噂はなんだったのか、分からず仕舞いとなった。
それでも、あの時聞いた音とは違うが、車椅子の音を耳にする度にそんな事を思い出す。
そういう話が、病院だけではない。ヒトのいる場所、いない場所でも、誰かが、何かが囁いている。
カラカラ…キィキィ