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心象哲学  作者: 緋西 皐
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人間は情静の生き物である

心象哲学という名であるが、それそのものが私の心象でしかないという事を注意しておく。私がこの作品において記すのは感情についてであり、その先にある疑問の提示である。

また心象の意味とは個人の物事へ抱く感情の意図であるとしている。


他の作品にて私は、人間の生きる意味とは娯楽にあり、またそこに感情があると記したと覚えている。ただそれに対してわずかながらの疑問に行きついてしまった。その疑問こそがこの作品を記すこととなった理由である。


これは私の好みの問題であるが、私は努力主義が大嫌いである。自己満足に寄って他者へ偏見と暴動を促し、全てを混乱へ導く邪悪だと私は認識している。

それは特に生存に対する行動において、明らかに何をするべきかは決まっているというのに感情というものがその快楽のためにその行動を邪魔するのだ。

こう言うとむしろ努力主義に従った言葉だと思われてしまうかもしれないが、この言葉の真意とは何をするべきかという解決策に対して特別な感情を必要とするのは愚行だという意味である。


文や音楽、絵画などの芸術において感情というものは大いに関わるところだろう。その感情の表現としての作品、そのための感情と感性。

私は芸術は人間の感情を必ず含めているものだと認識している。先ほどは生存のためなら感情は邪魔になると言ったが、芸術は生存そのものに関わるところではない。そして感情的でない人間はまるで機械であり、ただ生存のために生きていれば同様だろう。そういった観点と自由意志を求めようとする本質、すなわち人間が機械的であろうとしない好みから、人間の生きる意味は娯楽だと結論付けたのだ。


さてどうして努力主義が愚行かわかっただろう。努力主義とは例えば不安や不満や疲労や怠惰など、そういった感情に対して、解決策を示すのではなく、別の感情によって置き換えることを強いてくる。これは生存の立場においてなんの解決にもなっていない。

ただ生存理由に関しては感情であり、娯楽であると私は先ほども記しているだろう。ただやはり生存そのものと娯楽とは分けて考えるのが安全だと私は置いている。


また少し話を戻す。先ほど芸術は人間の感情を含めると記したが、ここにおいても私は改めておきたい。人間の生み出すものはその感情を含めると訂正したい。つまり芸術はその一部でしかなく、人間の作る全てにおいてその作者の感情を含めてしまうということである。そしてこれには機械だけでなく、人間も含まれる。

そう難しいことではない。単純にその主義によって教育されたものはその主義を含んで生きていくことになる。もちろん途中で変わることもあるだろうが、やはり一時的でもそれは含まれるだろう。

またこれは無意識的に内包することが多い。それが当たり前だと思っていると、何を信じているのかも認識できないのだ。自分の顔を自分で見ることができないように、自分がどの思想を持っているのかを知ろうとしない限りはわからないのだ。


際して先程の努力主義なんかはそうであろう。努力を正当として生きていれば、やはりその生き方も努力的になっていく。またそうした行動を取っていくのだ。

他にも親の主張、教育者の主張、マスコミ、世論などなども同様である。マスコミなどは一見、知ろうとする行動のようだが、その根底にある思想があるのであれば、やはり認識はできない。

努力主義の場合の、その根底とはまさしく感情による感情の否定と変貌の意図である。すなわち感情によって生存という普遍性を変えようとする不可能である。


こうした話題においてややこしいのは感情というものが人間の生きる理由に関わるところであり、それに伴う誤解が努力主義を生んだところだと思われる。

これが多く広まったのは恐らくどこかのサイヤ人やゴム人間、大正の鬼狩りのせいだろう。娯楽に触れるうちにそれを真として現実を歪めようとして不満を垂れるのである。まるでそれはドラマの演出を信じて教師になったり、ネズミの会社のせいで姫に憧れ過ぎた愚かな大人だろう。

大概の人間はそういったものが嘘であると気づき、それを嫌悪するか、心を失うのか、または割り切るのかであるが、こういった言葉の心象は人によってはネガティブに映るだろう。


さて私は努力主義を訴えるド畜生の中で、誰一人冷静として論理的に物事を説明する人間を見たことがない。そしてこれは冷静というのが、機械的であるという意味でもない。

つまり何が言いたいのかというと、感情という言葉の心象として努力主義者らは、熱血や大きな悲劇を想像しているものかと思われる。これは努力主義者たちの言う、感情が物事や自分を変えるというところ、とても大きな感情を要求しているのだと私は思うのだ。


怒り、悲哀、快楽などなど。感情にはいくらか種類があるだろう。特にポップスにおいてはわかりやすさの上、その演出の上で派手にしようとして、その感情を大きく表現する。そしてそれによって物事を変えたと、そうして物事を変えられるのだと示そうとする。

ただ感情はそれほど大きなものばかりではない。恋愛は激しいという心象があっても、愛が激しいという心象ではない。それは恋愛が若者にとって身近であって、愛は老人でも持っているものだからだ。若者と老人とでは持っているエネルギーが違う、若者は走れるが、老人は走るのはキツイだろう。感情もまたエネルギーに作用されるはずだ、腹が減ってて叫べる人間がどこに居る。そのエネルギーはどこからくる。物理的にあり得るわけがない。


正直なところ、私は娯楽を大きな感情を起源にするとその心象を持っていた。そして生きる意味に対してもそれは同様であった。

もしもこの世界が平等であり、美しいのであれば、その生きる意味はエネルギーに依存するところではないだろう。すなわち若者と老人、あるいはエネルギーの可能性において、身体障碍者やジェンダーにおいても区別されるところではないはずだ。


ならば努力主義が生きる意味であってはならない。大きな感情を抱くものにしか生きる意味を与えられないというのは非常に区別的である。


ただこう言っているのに私の観念としてだろうか、むしろ努力主義とは元々の人間の姿を捻じ曲げようとしているものであって、本当は人間が努力する意味など娯楽以外にないのではないか。ただそれもただの娯楽ではない、人間にとって苦行を提示することの多い努力というのは、不自然的な娯楽ではないかと思ってしまうのだ。

娯楽の心象としてそれはむしろ努力とは逆に見えるものだろう。それは娯楽というのが何にも縛られることなく、自然と楽しめるものだからだ。ただ私は生きる理由を決めるのは娯楽であると先ほどから記している。ならば生きる理由とは自然の内にあると言えるはずだが、不自然的な娯楽といった努力というのは、やはりむしろ逆であるのに、また生存そのものでもない。


感情について二つに分けてみる。一つは激怒などの激しい感情である情動。もう一つはより静かな感情である情静である。

より簡単に説明すると、情動とはハードロックのようなものであり、情静とはジャズのようなものである。あるいは少年ジャンプと純文学のようなものである。


この時点で娯楽とこの二つの感情の関りはわかりやすいだろう。ただ努力とはどちらかというと情動を主体とするものだとよく認識される。そして感情そのものも情動が中心として見られるものだろうか。

ゆえに何か生きる意味とか考えようとすると、そこに対して偉大な何かを浮かべようとするのが人間だろうが、実はそれは情動のみしか見ておらず、別に情静でも在りうるのである。


例えばやる気がない日があるとする。これは疲れているわけではないとしよう。こうしたときに努力主義者は情動によって人を動かそうとするが、その人間が本質的に情静によって動くものならば、やはり無理やり動かしてもストレスがかかるものである。

むしろ私はそういったことばかりではないかと認識している。基本的に人間は情静の生き物であって、実はより理性的なものなのだと。そうでもなければ努力というものに過剰な期待を浮かべるわけがないのだ。


多くの人間は子供のその問いに関して感情によって答えてきた。それは人によっては情静だっただろう。ただ目立ちやすく好かれやすいポップスはどうやら情動のようで、人間は情動によってその問いに答えるようになった。そしてそうした激しい感情というのは人の判断力と思考力を下げ、自身が無知であることも忘れる。冷静とは情静の持つ部分であり、またその見解と判断もそこに属するものだろう。ただ情動によって教育された子供は、やはり情動でしか判断できなくなり、真理との摩擦があろうと努力主義なるものが、それを誤魔化すようにする。

するとその人間は自身が無理していることや、本当に求めているものを見失い、気づいたら精神を病んでいるにもかかわらず、それでも情動によって自身を打ちのめそうとするのだ。無知であるからそれが間違っていることも知らない。


仮に情静によって生きてみればどうだろう。冷静ゆえに問題に対して良い見解と判断をすることができるだろう。そしてわからなければそれを認めて、無知である自身を認めて、学びを得ようと動くだろう。すれば目的の達成に着実に向かうことができているはずだ。


ただここまで言ったが注意しておきたい。情静も感情の一部であり、またそれは娯楽であり、生きる理由となるものだろう。その論理において、生存における冷静は情静に属するものに近しいが、等しいわけではない。

生存に置いての判断で本質的に求められるのは完全な情静である。それは完全な無情を意味する。これは生存の方法が真の意味として感情に左右されるものではないからだ。ただしかしながら、恐らく完全な情静は実現不可能だと思われる。それは人間が情静の生き物だからだ。


先程も人間は情静の生き物だと、またその理由に対しても軽く記したが、改めてここでわかりやすくまとめると、情動になるためには多くのエネルギーが必要であり負荷がかかる、それは自然的ではないからである。

こういうと自然思想がその根幹にあることが伺えるだろう。とはいえ人間の本質があるのであれば、それはやはりありのままにあるとみなすのが正当ではないかと思われる。人間とは条件が無ければ楽をしたく、怠惰なものだろう。これが情静であるかは私も違和感があるが、これは努力主義の逆として述べている。


ここまで長らく書いてきたが私の一番言いたいことは、あるいはその疑問としては、努力主義の抱く情動

によって人間が動くことがあるならば、情静によっても人間が動くこともあるのではないか。そして私はそれらによって得られる感情をそれぞれ、楽しみと愉しみと言うのではないか。

一応例として、ドラッグは楽しみ、ドラッグの吸い方にこだわるのが愉しみ。前者はただ快楽のため、後者はその探究、または不快すらも含まれてしまうだろう。


こうしてみると当たり前のことを記しただけに過ぎないかもしれないが、文を嗜む側ならば共感できるところだろう。


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