人の欲に終わりはない・2
黙ってしまったクロエの耳に、落ち着いたバイロンの言葉が届く。
「私が、口添えしよう」
「……え?」
クロエはゆっくり顔をあげた。
「君は、普通の男と変わらずしっかり仕事ができる。言うべきことも言える。屋敷に閉じ込めておくことは国の損失だ。知り合いのよしみとかではなく、実際にそうだと思う。能力があり本人にその気があるのなら、活躍の場を用意するのは国の仕事だろう」
そう言うと、バイロンは従者を呼び、ケネスを呼ぶように言う。
クロエは心臓がバクバクして仕方ない。兄に、どんな目で見られるかと思うと怖いのだ。
やがてやってきたアイザックとケネスが、バイロンから事情を聴いている間も、クロエはうつむいたままでいた。
「クロエ。おまえの気持ちはどうなんだ?」
一通り聞き終えたケネスは、なによりもまず、クロエの意志を確認してくれた。
クロエはそれにひどく安心した。だから兄が好きなのだと改めて思う。
「もしできるのなら、仕事として殿下のお手伝いをしてみようかと思っています」
ケネスは少しばかりがっかりした様子だったが、バイロンから手渡された資料を眺めて、頷いた。
「ふむ。……これをクロエが作ったというのなら、家でおとなしくしてしろとは言えないね。まだ粗削りではあるけれど、説得力はある資料だ。おそらく、バイロン様のお力にもなれるだろう。……父上のことは俺に任せるといいよ。うまく説得してやろう。なあに、父上はクロエが笑っているのが一番うれしいのだから大丈夫だよ」
兄の笑顔は、いつも通り優しかった。
クロエは安堵で泣きたくなったが、涙を見られるなどごめんだ。必死にこらえていると、バイロンと目が合った。
見透かしたような顔が悔しくて、そっぽを向いた。
「ではイートン伯爵の了承を得たら話を進めよう。クロエ嬢は私の補佐官として、しばらく働いてもらう。雇用条件については今から詰めようか」
こうして、クロエはバイロンの元、働くことになった。
毎日、決まった時間に登城し、バイロンの執務室で他の補佐官と共に仕事をする。
バイロンは、クロエに明確な目的を示した。
「労働人口を調べてきてほしい。五年分を表にして、総人口と対比させるんだ。男女比も分かるとなおよい。数値は統計局で手に入る。最初はジャンと一緒に行っておいで」
「はい」
バイロンには他に補佐官が三人いる。そのうちのひとりに連れられ、統計局を訪れた。
一通り説明してもらい、写しを取らせてもらう。
必要な資料の揃え方、まとめ方、それを明確に伝えるプロモーション。バイロンだけなく、彼の補佐官たちの動きを見ていると、とても勉強になった。
最初は物珍しそうな目でクロエを見ていた城の使用人たちも、真面目に仕事をしている様子を見れば協力的になる。
「ご苦労様です」
やがてあちらの方から挨拶してくれるようになり、普通に会話するようにもなった。
そうして、クロエが勧めていた孤児院の経営に関する法案は、何度かの議会を通して固まっていった。
議会でも堂々と発言するクロエを、ケネスとイートン伯爵は驚きながら、バイロンは微笑ながら見つめた。
「以上です。ご質問は?」
議場はシンとしていた。小娘がと思っていた貴族議員の多くが、理路整然としたクロエの説明に息を飲む。
やがて、平民議員が手を合わせ拍手を贈ると、会場の半分くらいがそれに応じた。
「議長、決をとってくれ。法案を可決するか、否決するか」
「はい。バイロン様」
議長の野太い声で、議場はいったん静まり、そして採決に湧いた。
クロエはまるで夢でも見ているようだと思いながら、その場に立ち尽くしていた。
*
クロエが、バイロンの補佐官として執務を続け、一年が経った。
今となっては、誰も彼女のその立場を疑う者はいないほど、クロエはその職になじんでいた。
バイロンの信頼も厚く、他の補佐官たちとの関係も良好だ。
当初は心配でよく顔を見に来ていたケネスも、今ではクロエを信用し、仕事に関しては口を出さなくなっている。
そんなある日。コンラッドが城を訪れた。
コンラッドは、バイロンの執務室に入るやいなや、一番奥にある彼の執務机にまで早足で駆け寄り、机を両手で強く叩いた。
「ずるいです、兄上」
「なにがだ」
「クロエ嬢に仕事を与えて傍に置くなど……!」
バイロンとコンラッドの顔は唾が飛びそうなほど近づいていた。
バイロンの補佐官たちは、やれやれといった様子で肩をすくめる。誰もコンラッドを押さえに入らないのは、バイロンがこっそり左手を補佐官たちに見せ、手を出すなという意思表示をしているからだ。
クロエも驚いてその光景を見ていたが、静かに立ち上がり、お茶を入れるために奥の部屋に向かった。
幸い、先ほどメイドがお湯を持ってきたばかりなので、すぐに出せる。
バイロンはそれを横目で見つつ、コンラッドに苦言を呈した。
「人聞きの悪いことを言うな。私は彼女の能力の高さを見込んで補佐官に任命したんだ。お前のような邪な考えなどない」
「はぁ? 誰が邪ですか」
「とにかく、久しぶりに会った兄にむけた第一声がそれなのはどうなんだ。まずは落ち着いて座れ」
「本当ですよ、コンラッド様。いきり立っていないでおかけください」
お茶を入れてきたクロエは、苦笑しながらコンラッドにソファを勧める。
コンラッドはそれさえも気に入らない。お茶を入れるなど使用人の仕事だ。
「クロエ嬢にお茶を入れさせるとは何事ですか」
「他の補佐官だって、執務室に客がくればそのくらいのことはする。これはクロエ嬢の仕事だ。口を出すな」
「……っ」
コンラッドは、この一年、領地で発見された遺跡の発掘作業の監督に忙しかった。領地に人を呼び込む起爆剤になるかもしれないのだから、しっかり自分の目で見極めたかったのだ。
大方の作業が終わり、報告するために訪れたところで、クロエが他の補佐官と同じような、詰襟の制服を着こんでいるのを見て、目をむいて執務室へ飛び込んできたのだ。
「なぜ、クロエ嬢が兄上の下で働くことになったのですか」
「当初、女性の社会進出に理解があるのが、私かアイザックだけだったからだな。アイザックのところにはケネスがいる。兄妹で同じ主に仕えるのもなんだから、私が引き取っただけだ」
「んなっ。であれば俺が……」
「クロエ嬢を遠いグリゼリン領までやれるわけがないだろう。それに、……クロエ嬢は非常に能力値が高い。多方面から寄こされる煩雑な要望をまとめるのも上手だ。今となっては彼女がいないと仕事に支障が出るんだ。辞めさせる気も、譲る気もない」
バイロンにはっきり言われ、コンラッドは一度肩を落とす。
「クロエ嬢、君はいいのか。伯爵令嬢ともあろうものが、こんな仕事など」
「補佐官は、王子殿下の手助けをする誇り高い仕事ですよ、コンラッド様」
笑顔でクロエにそう言われ、コンラッドはバツが悪くなる。仕事をけなしたいわけではないが、コンラッドにはどうしても納得がいかなかった。
「だが……君ももう二十歳だろう。結婚の話だって……」
「結婚はいいんです。そればかりが女の幸せではないでしょう」
「だが……!」
コンラッドは今度はクロエに詰め寄ってきた。
腕を掴まれ、クロエは一瞬体をびくつかせる。バイロンが、素早くコンラッドの腕を押さえたので、すぐに離してもらえたが、掴まれたところは痛みが残った。
「もういい。やめろ、コンラッド。彼女が今までどんな仕事をしてきたのかも知らずに、今の言い方は失礼だ」
「兄上……」
「おまえだって知っているだろう。仮にコネで補佐官になったとしても、周りから認められるには実力が無ければ無理だ。クロエ嬢は王城に勤めるすべての人間から認められている。おまえが口を出す話ではないよ」
コンラッドの奥歯がギリ、と鳴る。なにかを考え込んでいるような空気だ。
今はどうだか知らないが、昔の彼は思い詰めると暴走するところがあった。クロエはヒヤヒヤしながら、彼らを見つめていた。