人の欲に終わりはない・1
クロエの孤児院運営に関する提案は、その後何回かの議論を経て、提案者を伏せられたまま、バイロンによって議会に通された。
頭から一蹴しようとする貴族議員に、バイロンはクロエが事前にやって見せた通りに説明する。
平民議員からは支持が得られ、貴族議員も一部は賛成へと転じ、次回もう少し具体的に話を詰めるということでまとまった。
「というわけさ。君、自分で説明してみる気はないかい? 今度は仕事としてだ。議会に出れるだけの立場が必要だから、私の補佐官という形になるがどうだろう」
バイロンからそう言われ、クロエは息が止まりそうになる。
現時点で、女性の補佐官はいない。それでも、内々にならばやれると思うが、議会にまで出席するとなれば話は別だ。
議会には父も兄も出席している。そこで、クロエが女性としては出過ぎたことをすれば、叩かれるのはあのふたりだ。
「駄目です。そんなことは……できません」
「どうして?」
「だって私は女ですし……」
「そうだね。孤児院の運営は領地を持つ貴族の奥方が主に担当するから、あまり男は関わらない。女性である君だからこそ説得力が増すのではないかと思っているのだが、どうだ?」
「でも……」
クロエは一度うつむいた。
反発してくる貴族たちを言いくるめることは、おそらくできる。けれど、父や兄が彼らから馬鹿にされるのは我慢がならない。
彼女を眺めていたバイロンは、足を組み、その上に両手を乗せ、背もたれに寄りかかった。
「……君の懸念は、なんとなく想像はつくよ」
「え?」
「君は頭脳も度胸もあるわりに、妙に公の場ではおとなしい。それはなぜかとずっと考えていた。君たち家族は仲が良い。おそらく、君にとって一番大事なものが家族なのだろう。家族に反対されることが怖い、もしくは、家族に自分の行動が害を及ぼすことを恐れている……違うかな?」
見事に言い当てられ、クロエは思わず、彼に見入ってしまった。
「……どうして」
「王家の三兄弟の誰にも物おじしない娘が、議会ごときにおびえたりはしないだろう。躊躇する理由は別のところにある。であればそれは、君が大事にしているものに関連しているはずだ。君がケネスにべったりなのはいつものことだし、イートン伯爵の子煩悩は有名だ。総合して考えれば、おのずと見えてくるだろう」
この人は観察力に長けているのだと、クロエは思い出した。
小さく笑い、諦めたようにつぶやく。
「そうですね。バイロン様の思っておられる通りです。私がなにか言われるのは一向にかまいませんけれど、家族が後ろ指を刺されるのは困ります。それに、おそらく父は私が仕事をすることに反対するでしょう」
父に嫌われるのは怖い。クロエにとって居心地のいい場所は、伯爵邸しかないのだから。
「ではどうするのだ? 結婚はしたくないのだろう。目立つ仕事もせず、家にただいるごくつぶしになるつもりか? それはそれでご両親を悲しませることになるのでは?」
「結婚は……」
「いずれする? 君が?」
バイロンに顎を持ち上げられ、クロエは反射的に手ではじいた。
「あっ……」
不敬だ。と咄嗟に思い、謝ろうとしたが手で制された。
クロエはなにも言えなくなり、ただじっとバイロンを見つめる。
「……前から思っていたのだが。君は男が怖いのではないか?」
ビクリ、と体が震える。
誰と討論しても負けることはない。気が強く、勝気な美貌を持つクロエを、臆病だと呼ぶ人間はほとんどいない。
「夜会と言えばエスコートはケネスだ。アイザックも、君とは昔馴染みだが敵対心しかもたれていないと言っていた。それだけの美しさだ。いい寄る男がいなかったとは思えない。その中の誰かに、いやな思いでも?」
クロエに言い負かされて、皆がすごすごと立ち去るわけではない。いきり立ち、軽い脅しを加えてくる男はたくさんいた。大抵はケネスが守ってくれたが、五歳上の兄とは学校が共通する期間が短かかった。
「だっ……て、お、男の人は力が強いわ」
声が震える。クロエは恥ずかしくなって軽くうつむく。
弱い姿なんて誰にも見せたくないのに、なぜこんなことになったのだろう。
「そうだな。私としては、それは自分より弱いものを守るために使うべき力だと思っている」
「そんな人ばかりじゃないわ。図に乗るなと言われたことも何度だってある。体にこそ傷はつけられないけれど……」
目のすぐ脇を拳がかすめていく。頬に風があたり、壁にめり込むのでないかと思うような固い音が耳元で鳴る。男性の示す〝力〟はクロエの足をすくませた。
それでも、弱みなど見せたくなくて、クロエは彼らを睨んだ。
名門伯爵家の令嬢だ。脅し以上のことは、彼らもできない。もししたならば、イートン伯爵からの報復が待っている。
けれど――見せつけられた男の力に、クロエが恐怖を感じないわけではないのだ。
「わ、私……」
クロエの体が震えだしたことに気づき、バイロンは慌てたようにクロエから手を離し、これ以上何もする気がないと見せつけるように両手を広げて見せた。
それを見て、クロエは無意識に、安堵の息を出す。
「落ち着け。私のいい方が悪かった。怖がらせるつもりはなかったんだ」
「……はい」
「君のことを考えていた。なぜ適齢期を迎えて結婚しないのか。イートン伯爵は王家の信用厚い、由緒正しい家柄だ。そして君の美貌を考えれば、相手から断られることはまずない。であれば、君が……男が恐ろしいから、結婚したくないのではないかと思ったのだ。あれだけ親のことを大事に思っているのだ。他に問題が無ければ、政略結婚を受け容れ、家のために尽くそうという気概は、君にはあるだろう」
バイロンが正しく物事を見ていると分かって、クロエはなんとなく力が抜ける気がした。
クロエが男に怯えているなんて、おそらく他の誰も気づいていない。両親やケネスでさえ、だ。
「どうしてわかったんですか」
「さあな。自分で思っているより、君は分かりやすいのではないか? とにかく、それを糾弾したいわけではないのだ。結婚したくないならしなければいいと私は思う。ただ、その場合、仕事をした方がいいという提案をしたいだけだ。親にも認めさせてな」
そこでようやく話の流れが分かった。
バイロンはクロエの気持ちを理解したうえで、今後を生きるための提案をしてくれているのだ。
洗いざらい両親に話し、結婚しないで生きる道を歩ませてほしいと願えと。
「でも、そんなことを言ったら母が……」
「では誰かと結婚するのか? 君がそんな泣きそうな顔をしているほうが、伯爵夫妻にもケネスにも辛いのではないのか」
分かっている。年齢的に、八方ふさがりなところまで来ているのだ。
これまでは、結婚しないと言っても、令嬢のわがままで済んだ。でも、二十歳を超えたらもう無理だろう。
きっと母は泣く。父は自身の伝手を頼って、クロエが気に入るような紳士を次から次へと探してくるだろう。いつまでも断り続けることはできない。
だからといって、仕事がしたいと言えば?
令嬢が主に行う行儀見習いの仕事だって、二十歳を過ぎればやらない。それ以降は本格的に職業婦人とみなされる。そしてそうなることは、貴族社会では恥ずべきことだと教わってきた。
クロエ自身は良くても、歴史ある伯爵家の立場がない。