私らしく生きるとは・3
次にクロエが学術院に向かったのは、借りた本を読み終えたときだ。
カウンターに返却の申請をすると、受付の男性が整理棚から封筒を持ってくる。
「クロエ様、バイロン様より封書を預かっております」
「バイロン様から?」
「はい。こちらになります」
封筒は王家の印で封蝋されていた。儀式で使う香のにおいが鼻をかすめ、クロエの脳裏にバイロンの姿がまざまざと思い出される。
(間違いなく、バイロン様からみたいね)
奥の閲覧机を陣取り、封蝋を開けて中身を改めた。
中身はとくに色気のある内容ではなかった。今度王城に来るときに、先日の本の感想を聞かせてほしいという内容と、この本に興味があるなら次のお勧めはこれだ、といった本の推薦だった。
クロエはしばらく考え、彼の推薦本の中から数冊借りた。
屋敷に戻ってからも、クロエは本を読み続けた。
「クロエ様は、お勉強が好きなんですか?」
と、屋敷で預かっているクリスが、お菓子を持ってきて言った。快晴の空色のワンピースに白いエプロンをつけている。彼女全体から甘い匂いがした。
「ありがとう、クリス。今日も焼いてくれたのね」
「この間のマフィンと食べ比べて欲しいのです。今日は中にドライフルーツをいれたんです」
「分かったわ。……ふむ。おいしいわね。前のバナナのときよりもさっぱりした感じになるから、生地がもう少し甘くてもいいのかもしれないわね」
「なるほど。次のときにやってみます!」
拳に力を入れて、クリスが意気込んだ。
まだ七歳。幼いわりにしっかりとしたクリスは何事も素直に受け止め、改善しようとする。
クロエは癒された気分で、再び本に向かった。
バイロンのお勧めの本は分かりやすかった。
読む段階も考えられているのだろう。前回のものよりも少し高度で、同じことが書いてある部分も記述が違う。より深い考察がなされていて、理解が深まるようなものだ。
(……意外と、勉強家なのか)
選書を見ているだけでも、付け焼刃の知識ではないと分かる。
身分に胡坐をかいてきたわけではなく、王太子という立場に見合う努力を、彼はしてきたのだろう。
それだけのことをしてきたのに、国のためだとその座を弟に譲れる心境はいったいどのようなものなのだろう。
いつの間にか、思考がバイロンのことばかりになっていることに気づいて、クロエは焦った。
「違う違う。なに考えているのよ私」
頭を振って追い払おうとして、……だけどまた思い出してしまう。
これまで、クロエの心を占めていたのは、家族だけだった。
クロエは家族が大好きだ。父や母は温厚で子供好きだし、兄はやや曲者ではあるが、優しい。口調がきつく、敵を作りやすいクロエを、みんなが守ってくれていた。
でもそんな家族でさえも、クロエが学び続けることを応援はしてくれなかった。
考えろ、と言ってくれたのは、バイロンだけだったのだ。
(……調子が狂うわ)
きっと今まで出会ったことが無いタイプだから珍しいのだ。そうに違いない。バイロンの言葉を、何度も思い出してしまうのは。
*
クロエは次にロザリーに会いに行くときに、バイロンにも面会願を出した。
彼は、クロエとロザリーのお茶会が一時間ほど経過したころに顔を出し、前回の本の感想をクロエから聞き、またお勧めの書名を伝えては帰って行く。
そんなことを何度も続けているうちに、話は本の内容だけにとどまらなくなった。
「現在、貴族夫人のたしなみとして行われている孤児院の援助ですけれど、これを国家事業として整備するつもりはないんですか?」
「ふむ?」
ロザリーとのお茶会の場に、バイロンが顔を出したときだ。
クロエとバイロンの会話が白熱していくのはいつものことなので、ロザリーはお茶を飲みながら遠巻きにふたりを見つめている。
「平民議員も多くなってきている今、平民にも有用な人材が多くいることは分かっておられると思います。人を育てるにはやはり教育でしょう? 今の孤児院は、学校に行かない子供も多いと聞きます。その子たちが等しく教育を受けられたら、突出した才能のある人間が現れるかもしれませんし、そこまで行かなくとも、物乞いでしか生きていけないような人間は減るでしょう。孤児院の采配が、領地を治める貴族の財力に左右されているという現状はあまりよくないのではないでしょうか」
「まあね。それは私も教育改革の中で提案したことはある。議会では『親のない平民に金をかけても、なにも戻ってこない』と反対意見が多数だったがな」
「そうかしら。長い目で見れば、彼らを一般市民として独り立ちさせた方が税収は上がるでしょうに。それに自領に多くの有用な人材がいれば、領地は栄えますよね。農家だって、働き手が多ければ収穫量が増えますし」
「そうだね。だが、目先のことで頭がいっぱいの人間が多いんだ。彼らを納得させるにはどうしたらいいと思う?」
探るように、バイロンがクロエを見つめる。けれどクロエは言葉に詰まってしまった。
これまで、クロエは話の通じない相手とは、基本関わらないようにしてきた。彼らを説得するなど、労力の無駄づかいだと思うし、そのために陰口を叩かれたとしても、気にしなければいい話だ。
「納得……。それは難しいです。だって彼らは考えられないんでしょう? 王子の権力で強硬できないんですか?」
「この国が向かおうとしているものは、専横政治ではないからね。我々の独断が通るようではいけないんだよ。政策は提案し、議論し、賛同を得なければ動かせない。彼らを納得させるだけの思想、統計、展望、そして堅実な計画が必要だ。……時間がかかってもいいから作ってみるといい」
「誰がですの?」
「この流れからなら、君が作るべきだろう」
「は?」
バイロンににっこり微笑まれて、クロエは動揺する。
「どうして私が。政治は男性の仕事でしょう」
「どうして君じゃダメなのかな。そこまでの意見が言えるのならば、実現するためになにをしなければいけないのかも考えられるだろう」
「そんなことは……」
反論しようとして、クロエは一瞬考える。
思いつかないわけではない。自領の利を得たい貴族には、孤児院にいる多くの子供が全員まともに仕事に就いたときに得る税収と、十八歳になり孤児院を追い出された子供たちの現在の就労状況と、ならず者となってしまった者たちの犯罪被害を想定して示してみせればいいのだ。
教育を与えてくれた人へは、恩は感じても恨みを抱くことはない。そうやって育った子供は領土のために生きられるだろう。
正式な数値は調べてみなければ出ないが、教師を定期的に孤児院に派遣する程度の費用は簡単に上回るだろう。
「途中でもいいから、その案をまとめて持っておいで。改善点はその時に。ああ、今度はアイザックにも同席してもらおう。ぜひ意見を聞いてみたいからね」
王太子に見せるとなれば、生半可なものは作れない。
それから二週間、クロエは学術院に通い、イートン伯爵領を視察に行ったり、途中にある他の貴族の治める領を見学したりと活動的に動き回った。