結婚なんていたしません!・3
伯爵令嬢としてのクロエの毎日は、退屈の一語に尽きる。
「お母様、学術院へ行ってまいります」
「まあ、また? そんなところに行くより、この招待状をさばく方が大事でしょうに」
「お母様にお任せするわ。でも私、パートナーにはお兄様をお願いするつもりですから、お兄様の都合のつく日しか参りません」
「クロエ! 待ちなさい!」
グラマースクールを卒業したら、令嬢は通常、結婚相手を探す。
情報収集目的でのお茶会や、出会いを求めて夜会に出席するなど、その生活は意外に忙しい。だが、結婚する気のないクロエにとっては、それらすべてが無駄なものであり、やることが無いのだ。
そこで国の最高学府・ポルテスト学術院の聴講生に登録して幾つか講義を取っている。
今取っているのは哲学と歴史と経営についての講義だ。哲学と歴史は単純に趣味で、経営については、伯爵家の領地経営を見越してのことだ。
このままケネスが結婚しないのならば、伯爵家の内向きをさばく人材は必要だ。クロエがそれをできるようになれば、独身でいようとも存在価値は生まれるはずだ。
馬車で学術院まで乗りつけ、おおよその帰宅時間を告げ、迎えを頼む。
クロエの年頃ならば、常に侍女がついて回ってもおかしくないが、クロエは基本ひとりで動く。
学術院の学生は大半が男性である。女性は全くとは言わないがほとんどいない。いても、事務方の仕事をしている下級貴族の娘であり、その服装は地味なものだ。
美しい顔立ちであり、身分に見合ったドレスを着こなすクロエは、いるだけですごく目立っていた。
いちいち視線を気にしていてはなにもできないので、学術院にいる間は意識的に周囲の音を遮断している。
だからクロエは気づかなかったのだ、いつの間にか彼が側にいたことに。
「やあ」
背中から声をかけられて、ようやく自分に呼びかけられていると気づいたクロエは顔を上げた。そして、一瞬息を止めた。
笑顔の金髪の青年だ。少し後ろに護衛を兼ねた従者が付き従っている。
「……バイロン様?」
「こんなところで君に会うとは驚きだな」
「それは私も同感ですわ。バイロン様はすでにご卒業されて久しいでしょう」
バイロンはもう二十八歳になる。学術院はずいぶん前にそこそこ優秀な成績で卒業したはずだ。
「ああ、学術院の医局に通っているんだ」
片目をつぶって、こめかみのあたりをトンと叩いた。
彼が伯父のアンスバッハ侯爵から盛られた鉛の毒は遅効性で、体内に多く蓄積するものらしい。残った鉛を除去するためにずっと治療を行っているとは聞いていた。
年齢の割に薄い体が、彼が完全な健康体ではないことを示している。
「お医者様なら城にもおられるでしょう。往診していただけばいいのでは?」
「体力をつけたほうがいいと言われたものでね。動けるようになってからは、学術院の附属病院で診てもらっているのだ」
バイロンがふっと微笑む。マデリン妃に似たきつそうな瞳が細められると、途端にナサニエル陛下に似て見えた。
見た目に置いては、三人の王子の中で最も王子然とした人物である。
だが、クロエは昔、彼が兄をいじめていたことを忘れてはいない。そのせいで、ずっと彼のことを嫌な人だと思っていた。
「そうですか。では私はこれで」
「君はどうしてここにいるのか、まだ聞かせてもらっていないけれど?」
腕を掴まれ、ざわりと鳥肌が立った。嫌いな人間に触られるのは好きじゃない。
クロエは一歩下がり、バイロンとの距離を開ける。
「私は聴講生です。嫁に行く当てもありませんから、暇つぶしにいろいろ学んでおりますの」
「君がその気にさえなれば、貰い手は多く居そうだけどね」
バイロンは気にした様子もなくにっこりと笑う。
コンラッドのことを言っているのなら勘弁してほしい。どれほど熱烈に求婚されても、応じる気はないのだ。
真意の見えない会話に、クロエは疲れてきた。
「なぜ女性は結婚しなければなりませんの?」
「うん?」
「必ずしなければならないと決まっているわけではないでしょう? 私、できれば結婚などしたくありませんの。だから放っておいてくださいませ」
これを言うと、両親には嫌な顔をされる。クロエは家族が大好きなので、彼らの憂いた顔を見るのは嫌だ。が、だからと言って自分の気持ちを捻じ曲げるのもごめんだ。もう何年も続く、母とのやり取りも正直辟易している。
どうして、〝結婚しない自分〟を認めてはもらえないのだろう。
「ふむ」
バイロンは腕を組み、真面目な顔で取り合った。
「あいにく、私の周りには今までその考えの女性はいなかったな。だから私は君に答えを提示できない。だとすれば君が自分で考えてみてはどうかな。なぜ結婚しなければならないのか。したくないのならば、どうすればしなくても生きていけるのかを」
「……は?」
クロエは自分の耳を疑った。バイロンが言っていることが理解できない。
「……申し訳ありません、バイロン様。私、なにか聞き間違えてしまった気がするのですが」
「簡単に言うと、私には分からないから、君が考えてみてはどうだと言った」
「考えたって……どうしようもないじゃないですか」
貴族女性のたしなみ、女性としての幸せの在り方。それはずっと前から決まっているのではないか。たとえ意に添わなくとも、自分を殺して添わせていかなければ生きていけないのではなかったのか。
そう問いかければ、「私もそう思っていたが、クロエ嬢は添うつもりはなさそうではないか」と言い返された。
「だから私は異端児なんですわ。父にも母にも、困った顔をされるし、同じ年代の友人には呆れられています。バイロン様もそうしていただいて結構です」
「……君の意には添ってやりたいところだが、あいにく、君の言っていることがそうおかしいとも思えないのだよな」
困った顔をされた。先ほどとは違った意味で、鳥肌が立った。
――この人は、なにを考えているの?
得体の知れないモノを前にしたとき特有の危険信号だ。
わけがわからないものには近寄りたくない。だが、そう思うときに限って、相手の方はそうでもなかったりするのだ。
「クロエ嬢の講義はいつ終わるんだ?」
「え? ……一時間半後ですが」
「この件は話が長くなりそうだ。図書室で待っているから、終わったら声をかけに来るように」
「え、ちょっ……」
クロエの返事を聞かずに、バイロンはすたすたと行ってしまった。
王家の三兄弟の中で一番年の離れているバイロンは、クロエにとって最も馴染みが浅い人物だ。
「バイロン様って、こんな人だった?」
なぜか心臓がバクバクした。この日の講義は領地経営についての話で、クロエとしては真剣に聞いておきたいものだったのに、全然頭に入ってこなかった。
いつか、もう一度同じ講義を受けなければならないと思ったくらいだ。