恋という名の甘美なる果実・4
「……バイロン様、少しよろしいですか?」
にっこりと笑みを投げかけてきたのはケネスだ。あまりいい予感はせず、バイロンは眉を寄せた。
だが、断るわけにもいかない。アイザックにも内密で話したいというので、ふたりは中庭に移動した。
白や黄色の蝶々が、甘い蜜を求めて飛び回っている。ケネスはそれを眩しそうに見つめながら、バイロンに頭を下げた。
「まずは、コンラッド様をグリゼリン領に戻していただいてありがとうございます。大変だったんですよ。屋敷に乗り込んでこられて。揚げ句、本人の意思も無視して嫁に欲しいなどと言い出すのですから」
「……悪かった。私の方から、もうクロエ嬢に手を出さないよう、きつく言っておく」
コンラッドも悪い人間ではないのだが、まだ考えが幼い。癇癪を抑えられないところもあるし、望みに対してただ自分の意志だけをぶつけようとするところは子供のようだ。
コンラッドの教育係として、誰かひとり送り込んだ方がいいのかもしれない。
バイロンの謝罪に、ケネスは頷いて受け容れながらも、怒りの感情をあらわにはしていた。
「俺が気に入らないのは、いつかクロエの気持ちを変えられると彼が信じていることですよね。厚かましい。あの子は俺や両親が大切に育てた大事な妹です。あの程度の男にはやれませんよ」
「手厳しいな」
バイロンは苦笑した。
そして思う。彼女は守られている。家族にこんなに愛されているのだ。今少しばかり気の迷いで傷ついていたとしても、きっと立ち直ることができるだろう。
「バイロン様」
ケネスがいつになく真剣な声を出した。
「クロエに、宝石の話をしたでしょう」
「何の話だ?」
「人は原石だという話です。生きているうちに磨かれて宝石になるのだろうと。磨かれ方は人生によって決まる、とね」
言われて思い出した。まだクロエと話すようになったばかりの頃に、たしかにそんな話をした。
「ああ。言った……が、もう一年以上前の話だぞ?」
「感慨深いお言葉だったようですよ。クロエにとってはね」
「そうか」
他愛もない話だと思うが、それをケネスに話すくらいには印象深かったのだろうか。
「ですがね、殿下、俺は思うのです」
ケネスは足もとから小石を拾い上げ、指で軽く撫でて見せた。
「石は自分より柔いものでは削られませんね。よしんば削られたとしても、長い年月が必要です。殿下は今のクロエをどう思います? エネルギーの行き場がなく、結婚はしたくないけれどどうしたらいいのか分からないと腐っていた、俺や両親が手をかけて磨いたクロエではもうありません。この一年で、あの子の角を削り、輝く宝石にしたのは、誰だと思います?」
バイロンは言葉が出なかった。
それは自分だと、うぬぼれではなく思う。彼女が望みどおりに生きられる道をと願って、誘導していった自覚はあるのだ。
「誰にでも削られるような妹ではありません。少なくとも、コンラッド様では力不足ですよ」
「おまえも容赦がないな」
「逆に言えば、バイロン様にはクロエの角を削り、磨く力があったということです。あの子はあなたに気持ちを伝えたことを、今後悔しています。信頼に背く行為をしてしまったのではないか、とね。……あなたが妹を得る気がないならそれでも構いませんが、あの子の決死の告白をなかったことにするのだけはやめていただきたい。そういうところが、気に入らないんですよ俺は」
ケネスの目には、怒りが宿っている。
そうか、決死か。と不意にバイロンは思った。
クロエは強い令嬢だ。王族だからと怯むことなく、不遜とも思える勢いで自分の意見を言う。だが、その実、とても臆病なところがあるのだったと思い出した。
「そうだな。悪かった。だがおまえも先ほどのアイザックとの話を聞いていただろう。私の体が完全な健康体に戻ることはない。体内にはいまだ毒が残っている。そんな私と結婚して、障害がある子供が生まれでもしてみろ、彼女を不幸にすることしかできないだろう」
ケネスは少し眉を寄せた。口もとに手をやり、考え込むような仕草をする。
「心配事はそこですか。あの子を望んでいないわけではないんですね」
「……彼女を嫌う人間などいるのか?」
「少なくともアイザックは苦手そうでしたけどね。……まあ、でも、告白をなかったことにしている原因がそこなら、決めるのはあなたではないでしょう」
ケネスはそう言うと、にこりと笑った。
「どういう意味だ?」
「あなたを諦めるかどうかを決めるのはクロエです。すべてさらけ出して、あの子に決めさせてください。このままでは、あの子の人生から結婚という言葉は一生失われます」
「分からないだろう? これから先、彼女はいろんな男に会う。その中の誰かと……」
「分かってませんね。あの子は固い原石なんです。削れる人間など、限られている。殿下は、貴重な方なんですよ。……殿下は、クロエに望む人生を与えてくださった。俺はそれだけで感謝しています。だから無理に、あの子の気持ちを受け止めてやって欲しいとは言いません。ただ、最後にもう一度、向き合ってやってほしいだけです」
ケネスは、今度は嫌味なところなどひとつもない笑顔を見せた。
バイロンは一度逡巡し、そして駆け出した。
「どう転がっても悪く思うなよ」
「はいはい。ご報告お待ちしていますよ」
走るのは、ずいぶん久しぶりだった。
バイロンは自らの心臓の鼓動を感じて、不思議な気持ちになる。
寝たきりとなり、思うように動けなくなれば、いろいろなものを諦めなければ生きていけなかった。
思考を鍛えようと思ったのは、少しでも誇るものが欲しかったからだ。
だが、もう一度、手を伸ばしてもいいのだろうか。あたり前の幸せに。諦めてしまったすべてのものに。
巻き込まれた人間はどうなる? 不幸になるかもしれない。だけど彼女が、それでもいいというならば。
(まだ決まってもいない未来を前に、誰かを不幸にするのが怖いとしり込みするなんて、私も、存外と臆病だったのだな)
バイロンはクスリと笑い、前を向く。
胸がはやる。もう何年も感じることのなかった感覚が、こそばゆい。
バイロンは、執務室の扉を思い切り開け放って、叫んだ。
「……クロエ嬢!」
普段バイロンが駆け込んでくることなどないので、クロエだけではなく補佐官全員が呆気にとられた顔をしている。バイロンは構わずクロエに駆け寄った。
「話がある。時間をくれるか?」
「わ、私ですか」
「ああ」
バイロンは、他の補佐官に仕事を割り振ると、絶対に着いて来るなと念を押してクロエを連れ出した。
腕を掴んで引っ張られ、クロエは目を白黒させる。
普段一緒に歩くときも、適度な距離を保つバイロンの、妙に積極的な態度が不思議すぎる。
まるで人が変わったとしか思えなかった。




