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人の欲に終わりはない・4


「……仕事に戻らなきゃ」


 そろそろコンラッドも帰っただろう。あとは父親に、コンラッドからの求婚は受けないで欲しいと強く言っておかなければならない。

 グリゼリン領になど行く気はないし、今の仕事を辞める気もない。


『君のご両親だって……』


 だが、コンラッドの言葉が突き刺さる。吹っ切ったつもりではあるが、それでも他人の心を変えることも言葉を止めることもできないのだ。

 母がお茶会でクロエのことをどんなふうに言われているかくらい、分かっている。

 クロエには気にしていないと笑ってみせているけれど、誰よりも孫の顔を望んでいるのが、母自身だということも、頭の奥では分かっているのだ。


 結婚したいかと言われれば、積極的にはNOだ。跡継ぎをもうけるためという理由であれば、全然する気はない。だけど。


「分かり合える人とずっと共にいるためになら……いいかもしれないわ」


 最近はそんな風に思うようになっていた。


 家族はクロエのことを理解しようと努力してくれる。だからこそクロエも、彼らのことをとても愛おしく思う。

 それでも、両親には両親の生きた時代や常識があり、クロエの考えを全て理解出来てはいない。それは違う個人なのだから、仕方のないことだ。

 家族だからと言って、クロエの考えに無条件で同意してほしいと願うのは傲慢というものだろう。

 だが世界は広く、他人だとしても自分と分かり合える人もいるのだ。より深い思考で、考えを変えてくれたり、新しい見方を教えてくれる人も。


 それが、クロエにとってはバイロンだった。


(ああ、そうか。私はもうとっくに、バイロン様に恋をしている)


 そう気づいて、泣きたいような笑いたいような気分になる。

 相手は決して自分を恋愛相手とは見ない人だ。見込みのない相手に恋なんてするものじゃない。滑稽なだけだ。


「……つくづく、結婚には向いてないのね」


 自分でも呆れながら、頬を叩いて気合を入れ替える。


「あの、大丈夫ですか?」


 見張りの衛兵が、遠巻きながらに声をかけてきた。心配されるほど長くここにいたのだろうか。


「大丈夫です。休憩時間も終わりますので戻ります」


 クロエは彼らに笑顔を見せ、中に戻った。



 執務室に戻ると、コンラッドだけでなくバイロンの姿もなかった。同じ補佐官であるジャンが、クロエを見つけて、駆け寄ってくる。


「大丈夫かい? クロエさん」


「ええ。すみません。勝手に抜けてしまって」


「気にすることはないよ。それにしても、コンラッド様はまだ君をあきらめてないんだなぁ」


 どうやら、コンラッドがクロエに懸想している話は、城にいる者の中では有名らしい。


「ジャンさんも私がおかしいと思いますか? 傍目から見れば、コンラッド様は悪い縁談相手ではないでしょうから」


「ああ、そこは客観的に分かってるんだね。うん。まあ、……例えば君が俺の妹だというなら、結婚したほうがいいと言うかもしれないね。でも、クロエさんだともったいないと思うかな。殿下の信頼も厚く、学術院を卒業していないとは思えないほど博識だ」


「それは、……殿下が学ばせてくださったからだわ」


 学術院の附属病院に行くとき、バイロンは必ずクロエを同行させた。

 そして帰りに、必ず図書館に寄るのだ。

 自分が調べるものがあるのだ、と言っていたけれど、その都度本を選んでくれたことを思えば、あれはクロエの勉強のためだったのだろうと思う。系統だてて渡された本は、着実にクロエの知識を深めてくれた。


 ジャンはきょとんとして、やがてくすりと笑った。


「うーん。そうだとしてもさ、それに応えられるってすごいと思うよ、俺は。勉強なんてさ、嫌いな人間は直ぐ投げ出しちゃうじゃないか」


 だとしたら、少しはバイロンに報いることはできたのだろうか。


 ジャンの言葉に、クロエは胸が熱くなって、歯を食いしばる。でないと、泣いてしまいそうだった。


「……バイロン様は?」


「アイザック様のところに行ってくるって。君が戻ってきたら、これを清書しておくようにって」


 渡されたのはたった一枚の紙だ。すぐ終わるような作業をわざわざ言づけて頼んでいくのは――


(私が、ここに居づらくならないようにするためだ)


「はい、すぐやります」


 ぺこりと礼をして、自分用の机に向かう。

 涙を零せば、紙にインクがにじんでしまう。ぐっとこらえながら、クロエは自分の気持ちを自覚する。


(私、バイロン様が好きだ)


 それはおそらく、補佐官として必要としてくれる彼を裏切るような感情だろう。

 側にいたいなら、一生秘めなければいけないもの。


(……でも、それが私にできる?)


 クロエは基本、自分に正直なのだ。

 彼の姿を思い出し、胸の熱さに心が震える。

 自覚してしまった以上、この気持ちを否定し続けるのは、おそらくとても難しい。




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