人の欲に終わりはない・3
「では、逆に言えば、兄上はクロエ嬢を女性としては見ておられないのですね」
低く、くぐもったような声で、コンラッドは確認するように言う。
思わぬ発言に、クロエは驚き、思わずふたりを凝視した。
鼓動が乱れてきたのが分かる。そのくらい動揺している自分に驚いた。
(どうして私、こんなにドキドキしているのかしら)
バイロンは今やクロエの主人だ。部下として有能であると思ってもらえるかは大事だが、女として見られる必要はない。
事実、これまでバイロンはクロエに性的な意味で迫ってくることはなかったし、男性への怯えを知っているからか、普通の側近よりも距離を開けて話していてくれた。
なのにクロエはバイロンの口もとばかり見てしまう。なんと答えるのか、それを聞いて、自分がどう感じるのか。
不思議なほどそればかりが気になった。
バイロンはじっとコンラッドを見つめ、一度ため息をつく。
「おまえもおかしなことを言うね。これだけ美しい令嬢だ。女性として見ない男はいないだろう。だが、私は仕事に私情は挟まない。クロエ嬢を補佐官にしたのは、彼女が示した政策が有用だったからだ。今後は女性にも仕事を担ってほしいと思っているし、そのためのプロパガンダとしての役割も期待している。そういう意味で大切な存在だと言っておく」
「要は仕事上でだけ、彼女が必要ということでしょう? では、彼女に俺が求婚しても構わないですね?」
挑むように言うコンラッドに、バイロンはあきれたように首を振る。
「言っただろう。私は彼女のこれからの仕事に期待している。おまえに、グリゼリン領に連れていかれては困るのだ」
「ですが、彼女は二十歳です。もうとっくに適齢期だ。伯爵夫人だって、それを望んでいるはずです。……クロエ嬢」
急にこちらを向かれ、クロエは思わずじりじりと後ずさった。
コンラッドは立ち上がり、クロエとの距離を詰めてくる。
その瞳は真剣だ。クロエはそのまま数歩後ろに下がったが、コンラッドは容赦なく彼女を壁際に追い込んでいく。
「聞いていただろう。これからイートン伯爵のところに行く」
「困ります」
「今結婚しなければ困るのは君だ。行き遅れと言われ、社交界で後ろ指を指されるのだぞ? 君の心が変わるのを待つつもりだったが、もう待てない。君のご両親だって……」
「やめろ、コンラッド」
バイロンがコンラッドの肩を押しのけたので、クロエの視界が広がる。
「離せよ、兄上」
「結婚したい女性を怯えさせるのがお前のやり方か。だとすればクロエ嬢は任せられない」
「兄上の許可がなぜいるんだ!」
「言い争いはやめてください!」
クロエは思い切り怒鳴った。ふたりは気まずそうに顔を合わせ、つかみ合いとなっていた手を外す。
「私は結婚するつもりはありません。仕事が楽しいのです。後ろ指を指したければ指せばいいし、行き遅れといいたければ言えばいいと思います。ですが、強制されて結婚する気はありません」
そうはっきり言い、頭を下げて部屋を出ていく。
その手が震えているのをバイロンは見逃さなかったが、追いかけようとした途端、目の前で弟がしゃがみこんでわめきだしたので、機を逸してしまった。
「ああああ! ……終わった! また、怒らせてしまったじゃないか」
けたたましく後悔を吐露する弟もまた放っては置けない。バイロンは冷たいまなざしで弟を見下ろす。
「おまえね。クロエ嬢がここまで立場を確立するのにどれだけ努力していると思っているんだ?」
「兄上」
「彼女を愛しているのならば、彼女の自立を支えてやるべきだよ」
なだめるように言うと、コンラッドは昔の兄弟ゲンカのときのように、目を剥いて睨んできた。
「きれいごとを言って、兄上は自分の手の中に彼女を閉じ込めておく気なんだろう!」
「おい、コンラッド」
「兄上はずるい!」
子供の癇癪のように叫んで、コンラッドは出ていく。補佐官が呆れたような顔をして彼の後ろ姿を眺めていた。
バイロンは黙ったまま自分の手を見つめている。
「手の中に……収まるような女性ではないだろう」とつぶやきながら。
*
執務室を飛び出したクロエは、城の上階にある物見台まで来ていた。見張りの衛兵が、何事かと遠巻きに彼女を見つめている。
乱れた呼吸を整えながら、クロエは眼下に広がる城下町を眺めていた。
無性に胸が苦しくて、その理由が自分の中でもはっきりしないことがもどかしかった。
コンラッドによって一気にかき回されたので、混乱はしているけれど、傷ついたのはコンラッドの言葉でではなかったように思う。
行き遅れといわれようが、別に構わなかった。その覚悟で、補佐官を引き受けたのだ。
小骨のように胸に刺さっているのは、どちらかといえばバイロンの言葉だ。
『だが、私は仕事に私情は挟まない』
正しい意見だと思う。
クロエが補佐官になってから、バイロンは男女の区別はするものの差別はしなかった。
力を使う仕事は男性に任せたが、狭いところから書類を捜すような仕事はむしろ率先してクロエにやらせた。
人前で発言する事に関しては、男女の別なく平等に仕事を割り振っていたように感じる。
この一年、バイロンはクロエにとって尊敬すべき主人だったし、それで満足していた。
だが、あの言葉には、バイロンがクロエを恋愛対象として見ることはないという意志がはっきりと表れている。
(どうだっていいはずじゃない。結婚はするつもりはないし、主人に変な恋愛感情持たれるよりずっと楽だわ)
そう思うのに胸が疼く。疼くことが悔しいし、辛い。バイロンを裏切っているような気分になる。




