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第八話

「公園でお前が言った件だが、それ無理」

 自宅の玄関で靴を脱ごうとしていた六三四に向かって、リビングへと続く廊下の真ん中で振り返った武蔵が素っ気なく言い放った。

 え! 無理って、時都さんへのリベンジのこと、嘘でしょう、うぁぁぁぁ!

 靴を脱ごうと片足立ちとなっていた六三四は思わず体勢を崩して木製の廊下へと派手に倒れ込んだ。

 ドスンと派手な激突音と六三四の「いったーい!」という悲痛な叫びが梅坂家の内外へと鳴り響いた。

 反射的に受け身をとった六三四だが判断が少し遅く体の左側面全体を板床にぶつけてしまった、余りの痛みに目に涙が滲む、いつもならここで運が悪いと思うところだが顔を守ることができたのは不幸中の幸いだろうと思うことにした。

「動画というもので見たぞ、今のはお笑い芸人という者の動きであろう

将来は芸の道に進むつもりであったのか、お主」

 仰向けになった六三四の視界に上下が逆さまとなった武蔵の顔が飛び込んで来る。

「動画って、何で見たのそれ?」

「お主がいつも持ち歩いている、スマホという絵が動く板切れだ」

「何勝手に使っているの!

っていうか現代に馴染むの早すぎ! 生まれ変わったことに気づいて2、3ヶ月しか経ってないのにスマホ使えるのはおかしいでしょう!

っていうか他にも家のもの勝ってに使ってるでしょう!」

「え、その、それはそれ、これはこれで・・・・・・・」

 しまったといった顔で今にも逃げそうな気配の武蔵、六三四は瞬時に体を反転させまるで百足のように廊下を高速で這って黒猫の体を両手で捕獲する。

「そ、れ、よ、も、無理って何よ

私がまた負けるっていうの、強くなって来てるのに?」

「このたわけ!」

 武蔵が暴れて緩んだ手の間から前脚を引っ張り出すと、六三四の頬にストレートパンチをお見舞いした。

「あの娘がこちらに背を向けた時に見せた滑らかな動き、あれを見て簡単に勝てるとまだ思っているお前には無理なのだ、これは事実だ」

「弟子してくれるんでしょう」

「先輩一人倒した程度で鼻を伸ばして得意になっている天狗の面倒など見るきはないわ」

 武蔵は勝って調子に乗って戦いに挑む相手の実力を計れないこと叱ったのだ、六三四はそれに気付くと思い当たる節の洪水が脳内を駆け巡って余りの恥ずかしさに顔を赤らめた。

「武蔵さんのアドバイスで強くなったのは事実でしょう

今すぐ弟子にしてよ」

「お前、大人しそうに見えて一回タガが外れるとかなり強引にくるな

色々言いたいところだが、我が身を振り替えって恥ずかしがることはできるようじゃな」

 緩んだ手から武蔵はまるで液体になったような動きでするりと逃れると、少し離れた所で鋭い目付きで六三四に向き直った。

「ならば弟子になるのはこれから言う試験に合格してもらうこととする

その条件とは・・・・・・」

 六三四は体を瞬時に起こすとその場で正座をした、靴は履いたままだが時都に勝てる道が目の前に開けるかどうかの瀬戸際、そんなことは直ぐに以外意識の外へと放り出されていた。山籠りのような厳しい訓練だろうか、それとも道場破りみたいな強引な他流試合だろうか。六三四は知らずに唾を飲み込んだ、天下が定まり始める時代とはいえ真剣勝負と合戦を経験した者が考える試練だ、平和な時代に生きる自分が考える以上に厳しいものかもしれない。

「それはお前の友、貫城に試合を挑み勝ち越すことじゃ」

 え! それだけ? そ、そんなことでいいの!

 武蔵が出した予想外の条件が信じられず立ち上がって詰め寄ろうとした武蔵、だが脚が縺れて廊下へ盛大に倒れこんだ。

「相変わらず落ち着きのない奴じゃの」

「うぅぅ、脚が痺れただけです」

 俯せになった状態で顔を上げると、呆れた武蔵の顔が鼻先にあった。

「ヌッちゃんに勝ち越すだけで本当にいいの?

井上先輩とか剣道部のレギュラーに勝てとかじゃなくて?」

 武蔵は首を縦に振った、貫城とは1回勝つまでに3回は負ける程実力差があると彼に聞かれて答えたことがある、ある程度時間は掛かるがこのまま行けば勝ち越せそうな気はしている。幾ら六三四を弟子にしたい気があるにしても、この条件は緩すぎる気がする。何か他の目論みがあるのだろうか?

「稽古、いやお前の自主練習中の助言はこれからも続ける

時期がきたらお前から貫城に何かしら理由を付けて、勝負の話しを持ち出すのじゃぞ、いいな」

 御丁寧に試験の始め方まで教えてくれた武蔵に向かって、倒れたままの姿勢で小さく首を縦に振る。武蔵の真意は分からないが時都に勝てるようになる為には、この機会を逃がす訳にはいかない。武蔵は満面の笑みを浮かべて六三四の頬を肉球でつついてくる、断らなかった決断を誉めているつもりだろうが爪が隠れてきれてはおらず、頬がちょっと痛いので正直やめてほしい。

 六三四の抗議の目に気づいたのか、それとも飽きたのだろうか、武蔵は前脚を引っ込めるとお尻をこちらに向けてリビングへと歩き出した。武蔵の現代と猫の体への順応速度は驚異的で、自分で扉を開けて部屋の電気をつけることは難なくやってのける。急いで後を追わなくても後はソファーの上で勝ってに寛ぐだろう、変に緊張して少し疲れた、もう少しこのまま廊下に転がっていてもいいだろう。

「そういえばお主、あの井上に勝ったことまだ母君に伝えてはおらぬようじゃな

何か言い出せぬ理由でもあるのか?」

 武蔵がリビングへと続くドアを跳び開けた武蔵が何の前触れもなく別な話題を切り出して来た。怠惰に沈みかけた六三四の目が驚きで見開く、意識しないようにしていた話題だ。母は仕事で忙しいのだ、今更才能をみかぎった娘の部活動の話を聞かされても困るだろう、何かとあると武蔵はこの話題を持ち出す、正直もう止めてほしい。

「武蔵さんには関係ないでしょう!

もうこの話はしないで!」

 苛立ちは大声となって廊下に響いた。

 しまった、つい怒鳴ってしまった、彼は心配してくれた、そう頭では分かっているはずなのに。

 だが武蔵は怒るどころかため息一つつかずに、暗闇の中に沈むリビングへと消えていった。

 嫌われたかな、六三四は自分の大人げない行動に嫌気がさしてしまい、廊下に額を何度も擦り付けた。

 気にかけてくれるのはそれが弟子にしたい下心があっても嬉しい、だが触れてほしくない所に手を出されては怒鳴るしかない。

 私、怒鳴ったんだ、そういえば大声を上げたのは何年ぶりだろう。小学生の時には結構あったと思う、中学に上がってからは多分一度もない。何考えてるんだろうわたし。


「私これから貫城さんの家寄ってから学校行くね

・・・・・・武蔵さんは今日も剣道部の練習見にくるの?」

 一夜開けて六三四は学校に行く時間を迎えていた、いつも通り両親は帰って来ておらず一人、そして一匹の少し寂しい朝だ。

「今日は行かぬ

たぶれっと、とかいうここの板切れで現代の剣術がどうなっているのか見ておきたい

他にも少し調べておきたいことがあるのでな」

 武蔵はリビングの中心にある朝食を終え片付けられたテーブルの上で背を向けたまま答えた。下に向けられた視線の先には六三四が貸したタブレットが置かれている。器用に前肢を動かして操作している、掛け声と竹刀の打ち合う音が流れ始める、以前に剣道上級者の動きが見たいと言われ動画サイトなら簡単に見られると教えておいたのでそれを見ているのだろう。

 昨日の今日なので、六三四とは別な弟子候補を探しているという考えが脳裏を過ったが、これまでの彼の行動からそうなれば既に家を出ているはずだ、口うるさい黒猫のやることが最近少しだけ分かってきた。

「私行くね

お父さんとお母さんが帰ってきたら、猫の振りお願いね」

 猫に猫の振りをしろという日が来るとは何とも奇妙な感じだ、武蔵は「にゃん」と一鳴きするとその場に寝転がって後ろ脚で首筋を掻いた。OK、どこからどうみても猫だ、猫好きの私が四本の脚を取って教えたお陰だ。最初は恥ずかしがって拒否していた姿からは想像もつかない成長を見せてくれた、目頭がほのかに熱を帯びる。

 六三四は動物の生徒に背を向けると、そのまま家を出た。

 玄関の鍵を閉める、武蔵が家に来る前は家の施錠はこれで完璧だったが、今日は台所の窓の一ヶ所だけわざと閉めていない。武蔵は留守番中に家から出るときにその窓を使っているのだと、今さっき聞いたからだ。台所の窓の外には格子が備え付けられ子供でも隙間を通れない、武蔵なりに梅坂家の防犯に気を使ってくれているのだろう、そこまで気が回るなら外でうっかり喋ってしまわないよう大人しくしていてほしいものだ。

 今日は私が貫城さんを迎えに彼女の家に行く日だ。

 スマホで時間を確認する、武蔵に気を取られて家を出る時間が少し遅くなってしまった、走れば間に合うだろう。

 六三四は階段を駆け降り門から道路に出ると走り出した。

 今日の荷物は鞄が一つだけなので、竹刀袋が通行人に当たることを気にする必要はない。

 息を弾ませ下ろし立ての革靴でアスファルトを軽快に叩いて六三四は街を走る。既に夏の気配を感じさせる程朝日は強く、家を出て3分も立たない内に運動で上気した体を更に炙り、ブラウスの中は汗ばみ始めていた。体が軽い、これも武蔵から走るフォームの指導、いや彼が勝手に口出しした助言に従って走り方を変えたお陰だろう。

 武蔵を拾ってから色々変化があったが、この日毎交互にヌッちゃんと自分の家で待ち合わせをして登校する日課は変わらない。今日はどんな話をしようか、昨日やったゲームの話をしようか。この時間は遠足前のわくわくに似た感じがして六三四は好きであった、恥ずかしくて貫城には言ったことはないが。

 六三四は細い裏路地を抜け少し歩いて交差点の赤信号で足を止める。貫城の家兼病院はここを渡ればもうすぐ到着である。朝の通勤ラッシュ、目の前を左右交互に車がひっきりなしに通りすぎていく、それを眺めながら六三四は武蔵が言った弟子になる条件を思い出していた。

 貫城と試合をすること、それも自分から勝負を挑むこと。

 不思議なことに勝敗は条件に含まれていない。

 昨夜、寝る前に条件をもう一度武蔵に確認したところ、同じ台詞がそっくりそのまま帰って来た。

 少し武骨で言葉足らずなこともある武蔵だが彼はあの姿でも心は武士のままだ、それが勝敗を条件に含め忘れるとは到底思えない。

 彼の言葉を鵜呑みにすれば、貫城に勝負を挑めば今日中にも条件は達成できてしまう。

 ? 鵜呑みにすれば・・・・・・

 武蔵が私を弟子にするかどうか決めたあの公園での出会い、彼は勝負を挑み私を試した。だとすれば、今回も試されているとみていいだろう。きっと彼の言葉通りに行動して弟子にしてくれと言ったら、その場で不合格になる可能性が高い。

 武蔵が出した本当の条件を見極めて、貫城に勝負を挑む必要がある。

 六三四の口から溜め息が漏れる、夜の公園で襲っておいて今度はヒントのない採用テスト、普通の女子中学生には少し難易度が高すぎませんか、黒猫さん。

 六三四の隣を誰かが走り抜けた、気がつくと歩行者用の信号は既に青となっていて更に点滅を繰り返し今にも赤へと変わろうとしていた。六三四は慌てて交差点を渡ると、直ぐに背後を車が走り抜ける音が聞こえた。危なかった、隣にヌっちゃんが居たら慌てた様子を見て馬鹿笑いされていただろうが、見知った人間が周囲に居なかったのでセーフ。

 スマホで時間を確認、集合時間まであと5分を切っている。六三四は小走りとなり、交差点近くの民家と民家の間の細道へと入った。「また遅刻かい?」玄関先に出ていた見知った顔の中年女性に話しかけられ六三四は曖昧に笑って応えて走り続ける、そして貫城の家の前に来で止まる。

「せ、セーフ、はぁはぁ」

「遅い、一分の遅刻」

 膝に両手を当てて深呼吸を繰り返していた六三四が顔を上げると、門の前にいつの間にか貫城が腕を組んで仁王立ちしていた。

「何でいつも私が気がつかない内に家の前に立っているの?」

「我が親友に呼び鈴を押させる手間を掛けさせるわけにはいかんのでな」

 これが貫城家のお持てなしだと意味不明なことを言って彼女が笑った。

 六三四は肩から力が一気に抜けて項垂れる、小学校からの付き合いだが未だに彼女の冗談を理解できない時がおおい。貫城家にやって来た六三四に気配を殺して近づくのもその一つである。例え時間通りに着いても、呼び鈴を鳴らす前に背後から肩を捕まれ驚かされてしまう、貫城家とは忍者か何か物騒な家系の末裔ではないかと六三四は勝手に思っている。

 以前止めるように言ってみたが、剣道部員なら気配で気づかなければならないと返され、鼻を明かしてやろうとしてはいるが悔しいが今日と違う結末を迎えた日は一度たりともない。

「お、お弁当忘れてる、ぜぇぜぇ」

 六三四と貫城が学校へ向かって歩き出して間もなく、背後から女性の声がして二人は振り返る。そこには貫城の母が手に包みを掲げて肩で息をしていた。貫城家からここまで10メートルも離れていないが、剣道で鍛えられた娘の母とは思えないほど彼女は体力が無くそれを気にしている、六三四は昔から知っている何も言わない。

「いっけねぇー、ありがとうな母ちゃん

獣医とはいえ医者だからもっと運動して体力付けた方がよくない」

 貫城が弁当を受け取ると直ぐに鞄に閉まう。

 細かいことを気にしない彼女は、走って揺らされた弁当箱から汁が漏れているかもしれないことなど気にしないのだ、少しは気にしてほしいのだが。

「慌てて反対方向に走ってからここまで来たので、お母さんは今日の運動は十分したとおもうの」

「俺がそそっかっしのは母さん譲りなんだな」

「それは父さんです、絶対、絶対、ぜったい違います」

 貫城の母が顔面蒼白で訴えて来て、六三四は思わず隣の娘と一緒に頷く、夫婦でも同じと思われたくないことがあるようだ。

「それじゃ、俺と六三四はもう行くぜ」

 六三四はお辞儀をしてその場をいち早く離れた貫城の後に続く、振り替えると貫城母は手を軽く振り背を向け走り出した、大丈夫なのか?

「そういえば六三四、夏休み前にある市の剣道大会出るんだって」

 切り替えの早い貫城が以外な話題を切り出してきた。

六三四達が住む隆賢市は毎年剣道大会を開催している。開催期間は一日で個人戦のみ、中学生と高校生に大学生も含めた社会人の3つが同時に開催される。過去に全国レベルの選手を幾人か輩出しているがここ数年はゼロ、

だが中学生の部のみ去年はあの時都が一年生ながら優勝して一部の注目を集めたことを六三四は遠巻きに憶えている。

「出るわけないじゃん、私レギュラーどころか補欠でもないんだよ」

「あの井上の野郎、じゃなかった井上先輩ボコったんだろう

大会に出るために隠れて誰かに剣道教わってるんじゃなかったのかよ」

「誰にも教わってないよ、練習の仕方を少し変えただけ」

 六三四の答えに、貫城は一瞬眉をひそめてたが直ぐに元の顔へと戻った。六三四は胸を撫でおろした、幾ら親友とは言え武蔵のことを伝えるかどうか未だ迷っている。六三四は自分が嘘が下手なことを自覚している、貫城は踏み込んでほしくないことを察して引いてくれたのだろう、ごめんなさい貫城さん。

「そう言えばヌっちゃん、井上先輩とあんまり手合わせしているところ見たことないけど」

 井上は部長以外の剣道部員を強者とみれば、機会があれば必ず挑み叩き潰して家庭内の憂さ晴らしをする趣味がある先輩であることは、剣道部員全員が既に知れ渡っている。2年生の中でも頭一つ抜けている成績の貫城が、勝負を挑まれないのは不自然すぎることを六三四は前々から不自然に感じていた。話を振られた貫城は言葉に詰まって視線を泳がせた、2人の間に何かあったのだろうか?

「聞いちゃまずいことだった、ごめん忘れて」

「謝るなよ、聞かれて困るというよりどう説明していいか分からなかっただけだ」

 貫城は言葉を探しているのか、六三四から視線を外して前を向く。

気が付くと周囲を歩く通行人が、六三四達と同じ制服に身を包んだ人たちに変わり、目と鼻の先に見慣れた中学校の白い校舎があった。

自分と同じで貫城にも人に話せないことがあのだ、親友と言っても何でも話せるものではない。校門を潜ると2人の会話は誰の耳に入ってもいいような身近な話題を2,3話して終わった。寂しさを幾らか感じたが貫城とは同じクラスだ、授業が終わればまた話せると自分に言い聞かせる。

「オッス、後輩ども」

 校舎の入り口が目と鼻に迫ったところで突然背後から声をかけられ、2人は同時に振り返り、そこにあった顔を見て同時にため息を漏らした。

一年上の先輩である井上が立っていた。

あの試合以来六三四は彼女によく話かけられることが多い。しかしそれは試合をして通して仲良くなったなどというスポーツ漫画のような展開とは程遠いものであった。当たり障りのない会話の中に、強さの秘密を聞き出そうとする話題やあからさまな悪意ある言葉が潜んでいた、六三四の中で井上への苦手意識は日に日に膨らんでおり、できることならこのまま直ぐに逃げ出したいところである。

六三四は我知らずに半歩身を引くと、井上は僅かに口の端を釣り上げて身を乗り出そうとしたが、すかさず貫城が間に体を滑り込ませた。

「ウィッス先輩、後輩への挨拶はもっと軽くさわやかにした方がいいですよ」

「俺の挨拶はこれがデフォルト、いつも通りだ

俺の挨拶よりもお前はもっと勉強した方がいいぞ」

「お気遣いには感謝しますが挨拶は変えた方がいいですよ、でないと剣道のことで家族とまた揉めたと勘ぐられるっすよ」

 顔を合わせるなり2人は剣呑な言葉の応酬を開始、周囲の空気が一瞬にて冷気を帯びてそれを察した他の生徒が距離を取り、校庭の一角に険悪なエアポケットが誕生する。

井上は笑ってはいるが今にもこちらの襟を掴みかかってきそうな気配、対する貫城も六三四を安心させようと一瞬振り返ったが似たようなものであった。

六三四はというと恐怖で声を上げるどころか一歩も動けない。貫城は自分を助ける為に直ぐに割って入って盾になってくれたというのに。一人悔しさに唇を噛み締めるしかなかった。

「こら! 後輩相手に狂犬ごっこなんて朝からするな」

突然場違いな程かるく聞き覚えのある声が凍りついた空気に割って入った、声の主は井上の背後にいつのまにか立っていてその姿は隠れて顔は見えない。

「何だよ、文句あん、痛!」

井上は振り返ろうとした、背後の人影の右手が高速で動き持っていた本でその側頭部を打ち据えた。井上は痛みを堪えながらも咄嗟に本を奪おうとしたが、相手はそれよりも速く半歩身を引いてかわしてみせた。六三四と貫城は予想外のこととはいえ鮮やかな攻防に目を奪われ声も出せない。

「ごめんなさい、今度はちゃんと首輪をしておくから」

殴ったのはオクコ部長であった。

尚も抵抗しようとする井上の頭を掴んで無理やり礼をさせると、そのまま校舎へと彼女を引き摺って行ってしまった。立ち尽くす二人の周囲に人が戻り、平穏な登校風景が再開された。

「しつこすぎない、あの先輩

一体頭の中なに詰まってるんだろうね」

 貫城の横顔が遠ざかる先輩2人の背中をうっとおしそうに見送る。

「多分、弱いと思った私に負けたのが悔しかったんじゃない」

「だとしてもここまでの粘着は異常だよ

どうせまた家族と部活のことで揉めた腹いせだよ」

 貫城の言うことは一理ある、だが剣道絡みで家族と上手くいっていない六三四は人に当たりたい気持ちが僅かに理解できてしまったので、頷くに留めておく。

「そ、れ、と」

 貫城が突然、六三四の額に指を押し当てた。「自分が弱いは禁止、そうやって弱い弱い言ってると本当に雑魚くなっちゃうぞ」

 指先に力が込めらられ顔が仰け反った六三四は思わず一歩下がった。

「痛いよ、ヌっちゃん」

 六三四の抗議に貫城がしまったといった顔をして謝った。六三四はいつも通り笑って許した。ここで注意された事など次の瞬間には彼女は忘れてしまうだろう、そしてまた強引な行動をして周囲を困惑させることを六三四は身を持って知っているのでこれ以上は何も言わない。

「色々ありがとうね」

 変わりにお礼を言うことにした。

自分が井上に突然絡まれたのを察して、直ぐに割って入ってくれたのは本当に助かった。もし逆の立場だったら絶対に自分は動けなかったにちがいない。その証拠に井上との会話中、彼女の背中に隠れて一歩も外に出れなかった。

六三四が安堵の息を吐いた瞬間、校庭に所定の時刻が来たことを告げる電子音が鳴り響いた。二人は校庭は端に立っている時計へと目を向け小さな悲鳴を上げた。時刻はもう8時30分を回っていた、周囲に生徒の姿は既にない、六三四と貫城は慌てて駆け出した。

僅かに反応が早かった貫城が前に出る、六三四はその背中を見て一瞬遅刻のことを忘れた。そういえばいつも何かあると貫城は前に出てかばってくれた。自分のやるべきことを瞬時に理解して行動できる彼女に勝負を挑んで勝てるのだろうか。

そう思った瞬間、頼もしいはずの背中が一瞬だけうっとおしく思えた、六三四は唇の端を噛んだ。

 武蔵の真意はわからない、しかし彼は六三四と貫城の関係を隠れて観察して、この胸の感情を見抜いたのだろう。

意地悪な黒猫だ、親切すぎてうっとおしい。

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