第二話
夢を見た。
白刃が空を切る、血霧が舞い苦悶の呻き声が響く。
それは一度では終わらず、時間と場所を変え凡そ60回程繰り返された。
真剣勝負、勝った者は生き、負けた者はそこで生を終える。
至極単純な摂理、他を食らい今日を生きる獣ですら考えずとも心得ている。
俺はその中で白刃を、刀を振るい生きてきた。
剣客であった父の影響だろう、物心付いた時には独楽や折鶴よりも研ぎ澄まされた刃に心を奪われていた。
その後は剣を振るう術をひたすら餓鬼のように貪った。
そして元服を待たず真剣勝負に挑み勝利を納めると、15年以上もの間命を賭けて剣を振るった。
強く、もっと強く、焦がれ白刃を振るい勝つほどに腕は上がり、より高みへと俺は進み続けた。
だが、巌流島で剣客佐々木を倒した後、ふと我に返り世を振り返ると、天下は太平へと向かい大きな合戦は消えようとしていた。
剣を極めた先に大軍を率いる戦場を微かに夢見ていた、一介の客がそれを成すには戦場での功が必須、しかしその機会は半ば失われた事に気づき俺の期待は失望へと裏返った。
その後は真剣勝負から離れ、城主に招かれ人に剣を教える道を歩み、幾つかの書物を残して最後は病に倒れた。
自分の人生に悔いは無い満足している。
しかし、己の剣に預けた心は今も叫び続けているのがはっきりと聞こえる。
もっと強く、もっと高みへ、高みの果てのその先を見たいと。
もしも生に二度目があるのならもう一度剣を振りたい、それが許されぬなら誰か代わりに高みを目指してくれ!
いつしか思いは声となっていた、だがそれは誰の耳にも届くことなく、俺を包む暗闇に溶けていった。
六三四はソファーの背に隠れながら僅かに顔を上げ、リビングのテーブルの上に乗っている段ボール箱を覗き込んだ。
上蓋は開けられ、その隙間からたっぷりと敷き詰めた清潔なタオルの上で黒い塊が呼吸する度に僅かに上下に揺れている。
起きる気配はない、六三四は胸を撫でおろした、そして頭を抱えて蹲った。
どうしてこんなことになってしまったのだろうと。
今、時計の針は夜の10時を少し過ぎたところを指している。
数時間前に公園で喋る?黒猫を殴ってしまった私は、親友である貫城さんのお母さんが開いている獣医へと駆け込んだ。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした私を見た貫城お母さんやスタッフの人は酷く驚いたが、抱えている猫がぐったりしていることに気づくと直ぐに診察を始めてくれた。
私はというと、診察中はずっと猫を殴って殺したと泣き続け、スタッフの人に慰められてしまい何の役にも立たないどころか、とんでもない迷惑をかけてしまった。
黒猫はどうなったのかといと、気を失っていただけで死んではいなかった。頭部には軽い打撲跡があったが、気を失ったのは重い栄養失調で激しい動きをしたからだだろう。診察開始から30分もしないうちに、貫城さんのお母さんが待合室にやって来て、猫はお腹が減って餌を強請っただけだったの、そい言って頭を撫でてくれた。
猫が生きていた、小さな命を奪ったのではないかという恐怖から解放された私は、安堵からまた頭が真っ白になってしまった。気が付くと貫城さんのお母さんが運転する車で家まで送られ、門の前に立っていた、黒猫が入った籠を抱えて。貫城さんのお母さんは黒猫を私のペットと勘違いしたようだ、事情を説明しようとしたが、彼女は既に車に戻っていて、お代は出世払いでと言いエンジン音を響かせて直ぐに視界の外へと走り去ってしまった。
どうしよう、取り残された私は腕の中の籠とそれを抱えう手に張られたガーゼを見つめた。
この猫は餌を強請ったのではない、人の言葉を喋り私を試すべく襲い掛かって来たのだ。目を覚ませばまた襲われるかもしれない。そう思うと公園で襲われたときの恐怖が鮮明に甦って来た。
このまま何処かに捨ててしまおうか。
幸い両親はこの猫の事は知らない、貫城さんのお母さんにはあれは知らない野良猫だったと言って、ほとぼりが冷めてから籠を返しに行けばいい。
私はかぶりを振るい無責任な考えを振り払った。
相手が何であれ防具を着ていない相手を竹刀で打ってしまったのだ、このまま捨てては剣道をする人間として自分で自分を許せなくなってしまう。
目を覚ますまで家に置いておこう。
もしまた、襲い掛かてくるなら窓を開けて追い払えばいい。
寝起きなら動きも鈍くて、私一人でも何とかなるはずだ。
そう恐怖と責任の間に妥協点を見つけ、無理やり折り合いを付けると私は猫を抱えて玄関を潜り今に至る。
いつでも窓を開ければ追い出せるようにとリビングに眠る黒猫を置いた訳だが、そうなると気になって宿題も好きな漫画も手につかない。暴れて部屋をめちゃめちゃにしないか心配なところもあったが、実は私は猫が好きなのだ。家を空けがちな両親と部活で帰りが遅くなる私、それを考えるとペットを飼いたいとはとても言い出せずにいた、そんな訳で野良猫を家に連れ込んだ状況にテンションが上がっている。
黒猫は相変わらず眠ったまま、起きる気配はない。傍に寄ってその背中を撫でたい衝動に駆られるが、何とか耐える。いつまでもこうしてはいられない、相手は人の言葉を喋り私に襲い掛かって来た猫なのだ、そう自分に言い聞かせ気持ちを切り替えると、床に置いていた竹刀を握り立ち上がる。
黒猫が目を覚ました時に備えて素振りでもしておこう、偶然転ばなければ一太刀も浴びせらえなかった相手と戦うかもしれないのだ。
私は黒猫を起こさないようにそっとリビングを出た。
梅坂家には母の剣道趣味が高じて、小さな道場が敷地内に建っている。
元は倉庫で船舶会社で働く父がクルーザーを買って置いておこうとしたが、仕事で忙しくその計画は頓挫した際、母が引き取って改築して道場となった。
その母も私が中学生に上がるころには仕事にのめり込み、今では足を運ぶ人間は私しかいない。
両親の興味を失った存在、まるで私みたいだ。
渡り廊下を抜け道場の入口の前に立った私は、ふと誰かの視線を感じ振り返った。
母屋の入口は閉じられ誰かが明けた形跡はなく、左右に並ぶ採光用の窓は金網入りの曇りガラスであったが、その向こうに人らしき姿は見えない。
色々あって過敏になっているのだ、気のせい気のせい。
扉を開け道場に足を踏み入れる、埃っぽい中にワックスの臭いが混じった空気が鼻を突いた。そういえばここ最近、道場の掃除どころか換気もしてはいなかった。ごめんね、と胸の中で謝ると照明のスイッチを入れ、道場の中心に立って竹刀を正眼に構える。
素早く竹刀を振りかぶり踏み込んだと同時に一直線に振り下ろす。次に腕を振り上げながら左足を軸に体を180度回転、背後の空間を竹刀で叩く。今度は右足を軸に90度回転、左側面の空間を水平に叩く。
相手はこちらの攻撃をかわすと必ず死角から攻撃してきた。自分が習っっってきた剣道にこんな攻撃への対処方法はなかった。短時間では付け焼刃程度にしかならないが、やらないよりはマシである。
体を回転しては空想の黒猫目掛けて竹刀を振るう、何度も、何度も。
中学生にもなって何をやっているんだ、沖田総司かわたしは。
体を動かしていくうちに、何だかバカバカしくなってきたが止める気にはなれなかった。試合と公園での騒動をた剣道にこんな攻撃への対処方法はなかった。短時間では付け焼刃程度にしかならないが、やらないよりはマシである。
試合と公園での騒動を。試合と公園での騒動を経て、私の体は疲れ切っている筈なのに竹刀の描く軌跡がブレが無くなっていった。気持ちいい辞めたくない、そんな気持ちが四肢を縦横無尽に突き動かしている。いつぶりだろうか、竹刀を振るうのがこんなに楽しいと思えるのは。
神経が高ぶってハイになっている、しかし明日は土曜日で学校はお休み、昼まで寝ればいい気にする私、今は竹刀を振るうことだけを考えろ。
いつしか空想の黒猫は消え、代わりに防具に身を包んだ一人の女と私は打ち合い始めた。
実力差は歴然、私が逆立ちしても勝つことはできないだろう、それでも!
幾多の突きや打ち込みを食らい、こちらの攻撃はかわされ防がれる、あきらめずに勝機を待つ、そこだ!
竹刀を引いた隙を見た私は相手の面を打った。
届いた、だが浅い、一本には程遠い。
でも一本は一本だよ、時都さん。
私は空想で戦っていた相手として、今日試合をした時都さんを思い浮かべていた自分に気づき、恥ずかしさにその場に転がりたくなった。
負けた相手に想像で仕返しするなど、中学生にのすることではない、そこまで幼稚だったのか私。
「何を恥ずかしがっている
未熟ながらも良い打ち込みだ、もっと胸を張るがよい」
え、誰、お父さん?
突然、聞き覚えのある低い声が耳に飛び込んできて、私は当たりを見回したが私以外の人間の姿は無い。幾ら素振りに集中していても、入口から人が入ってくれば気が付くはずだ。それにお父さんは今日帰ってくる予定は無い、突然にしても必ず連絡を入れてくる。
私は唾をのみ込むと恐る恐る視線を床に落とした。父以外で低い声の持ち主は、。今家にあれしかいない。2、3メートル離れた所に一匹の黒猫が居た。
「我が名は新免武蔵守藤原玄信
お前、我が弟子になるがよい」
黒猫は物凄く偉そうに人の言葉を喋った。
武蔵って、母さんが好きな宮本武蔵?
武蔵って猫だったの?
それに弟子って何?
猫から何か教わるの。この私が?
突然のことに私の脳の中で何かが弾ける、視界が急激に閉ざされ私の体は床に倒れ込んだ。
誰か運を下さい、私の意識はそこで途切れた。