第一話
猫です。
目の前に黒猫がいます。
私の飼い猫ではありません、今日の夕方公園で拾ってしまった野良猫です。
口を開きました、普通の猫ならにゃーと可愛く鳴くのでしょう。
「お前、俺の弟子になれ
さすれば我が剣の全てを授けよう」
聞きましたか?
この猫は日本語を喋るのです、話している内容から剣道をやっている私の師匠になってくれるそうです。
「氏素性の分からぬ師を仰げないわな、すまなかった
我が名は新免武蔵守藤原玄信、訳あって今は獣をやっておる」
聞きました?
宮本武蔵とこの猫は名乗りました。
わたしの名は梅坂六三四、中学2年生。
この物語の主人公にして、これから気絶する運に見放された者です。
夕暮れ、学校からの帰り道、じゃんけんでパーを出してしまった右手を振りかぶると竹刀に見立てて額へと振り下ろした。
一本、それまで!
見事な一撃だった、あんな風に打ち込めればさぞ気持ちがいいのだろうが、生憎だがやられたのは私。
面越しに受けた衝撃は、数時間経ってもまだ首から上に残っているような気がしている。
負けたのは悔しい強くなりたい、だがはやる気持ちから小学6年の時に事故を起こしてしまい、その罰なのか今日まで剣道の剣道の成績は落ちようのないところまで落ちている。
剣道1級にも余裕で合格した天才剣道少女、今の六三四からはその当時持て囃されていた面影は3年の間に全て失われてしまった。
あれほど熱心に剣道を教えてくれた元有名選手の母は既に私を見限り、剣道はおろか学校のことも聞こうとはせず、仕事に明け暮れている。
剣道は好きだ、だが負けが続く今の状況では楽しいよりも苦しい時間が多い、正直続けていく自信があるかと聞かれても、胸を張ってはいと即答できる自信はない
どうすればいいのだろう、誰か教えてくれないかな。
他力本願な願望が口から漏れる、こんなことだから母は離れていったのだろう。
それでも強くなれば、勝てるようになればまた剣道だけは楽しめるのかもしれない、その一念に縋るように練習だけは続けてきた。
しかし、その細く小さな道で付けた僅かな自身も、今日偶然舞い込んできた強豪選手との試合で全て吹き飛ばされてしまった。
ことの発端は六三四が通う中学校の校長先生の思い付きであった。
六三四が通う私立火古学園は小中高一環の進学校ではあったが、県内でも有数の運動部を幾つも有する有名校でもあった。その一つに女子剣道部があり六三四はそこに所属している。
部員の私が言うのも何だが、うちの剣道部ははっきりって弱い、弱いのでやる気のある部員は一握りしかいないほどだ。
昔は剣道の強豪校であったが今は衰退して見る影もない、そのことを考えると親近感が沸くと同時に泣きたくなってしまうので、普段は頭の隅に追いやって考えないようにしている。
女子剣道部の成績はというと、県どころか市や区レベルの大会ですらチームや個人で優勝経験は誰も無し、予選を通って1回か2回勝ってから敗退して消える無名校である。
毎年廃部の話が理事会で議題に上るも、強剛時代を知る教員や役員の恩情で存続が認められているという、部活としてもギリギリのところで踏みとどまっているのが現状である。
そんな我が部の状況を見かねた存続派の一人である校長が、友人が理事を勤める四羅縫学園中等部の剣道部と練習試合をさせて目を醒まさせようとしたのは、話しとしては筋が通っている。
しかし、当人たちが頼んでもいない親切は、時としてとてつもない迷惑となることを忘れていますよ、校長先生。
練習試合当日の今日、レギュラーメンバーの内3年生は受験の準備やら病気を理由に突然お休み。穴埋めとして私たち2年生が試合に駆り出されることになった。誰と当たるかは話し合いでは決まらずじゃんけんで決めることになった、私はというとパーを出して一番始めに敗北、私は誰も指名しなかった県内でも有名な時都選手と戦うことになった。
足を挫いて見学が続いていた親友の貫城さんは、強い人と戦えてよかったねと面倒を押し付け距離を取る部員たちを押しのけ、何の悪意も無く喜んでくれて、私は文句を言う気力を削がれ何の抗議もできなかった。
それで結果はどうなったかといと、ついさきほど右手を使って再現した通り、綺麗な惨敗でった。
まぁ、自分なりに善戦はしたと思う、思わなければ今すぐにでも泣きそうなのだ。
「あなた! ふざけていますの!」
県を代表する選手とレギュラーですらない私、手合わせすれば直ぐに相手の実力など大抵分かるものだ、元より学校に顔を立てた弱小剣道部と試合、怒ったからといってあんな言葉を吐く必要はないのだ。
あ!
突然私の右足が引っ張られて転びそうになる、足元を見ると靴紐がほどけてそれを反対の足で踏んでいた。
左手は竹刀袋で塞がっている、もう少し歩く速度が速ければ顔面から転んで大ケガになっていたかもしれない。
やっぱり、今日はトコトンついていない。
早く帰って、自室に籠ったほうがいいだろう。
身を屈めて地面い竹刀を置くと、靴紐を素早く結ぶ直す。
直ぐに終わらせてしまおう、歩道でこんなことをしていたら今度は通行人とぶつかるかもしれないから。
私の心配を他所に紐は直ぐに元通りになった、安堵の溜め息が漏れる、誰ともぶつからなかった、誰とも?
私は立ち上がり周囲を見回すと、そこは家から近い公園の中であった。どうやら、考え事をしていて知らずに足を踏み入れていたらしい。この三井出公園は駅、住宅街、商店街を結ぶ線より外れているため夕方という時間帯であっても人の出入りはあまり多くない。
靴紐を急いで直す必要はなかったのだ、要らぬ心配をしていた自分が可笑しくなって、口から乾いた笑いが漏れる。
同じ剣道部員である貫城ちゃんが隣にいたら、大笑いされていたに違いない、恥ずかしいところを見られずにすんでよかった。
胸を撫で下ろそうした瞬間、貫城ちゃんから聞いたある言葉を思い出してしまい、私の全身が一斉に泡立った。
近頃、剣道部員が人気のない場所で襲われるって話知ってる?
いつもの冗談だと思い、聞いたその場で曖昧な返事をして流し、それ以上追及はしなかった。その後、近い時期に県内で犯罪に巻き込まれた学生が2,3人居たことをネットで知った。それぞれの事件は人通りのない場所で夕方以降に行われ、被害者の年齢も学校もバラバラ、唯一の共通点は剣道部員でその日、竹刀袋を持ち歩いていたという。
それは報道機関では無く匿名でまとめられた情報だったので、六三四はよくある噂話だと思い、真に受けた貫城を心配すると今に至るまで忘れていたのであった。
空を見上げると、落ちかけた陽によって全体が淡くオレンジ色に染まっている、地面に目を向けるとそこには竹刀袋が転がり、その両者の間に剣道部員の私が居る。
自分の置かれた状況と噂話の状況の重なりに気づいてしまった、すると心臓が鼓動がどんどん速度を上げ息苦しくなっていく、そして全身が僅かに汗ばむのが分かった。
あれは単なる噂よ、噂、きっと作り話。
自分にそう言い聞かせると、竹刀袋を拾おうと屈んで手を地面に伸ばした。
ガサガサ!
その時、天地がひっくり返った視界の端で、風も無いのに膝丈程の生垣が微かに揺れたのをはっきりと目撃してしまい、私の体はこの短い間で二度目の硬直を迎えたのであった。
恐怖で葉が揺れ動いたことに、必要以上に怯えてしまった訳ではない。目だ、夕日に照らされ鋭く輝いた誰かの目が、葉と葉の間から覗いているのを見てしまったからだ。こちらの動きが止まった瞬間、目は一瞬にして消えてしまったが持ち主が移動した気配はない、生垣の向こうで息を潜めているのだろう。
気のせいだと思いたいが、こちらの様子を覗う何者かの視線を確かに感じる。
試合に負けて気分が落ち込んでるだけ、気のせい、気のせい。
私は自分にそう言い聞かせると、固まった手を無理やり動かして竹刀を拾い立ち上がり、公園の出口へ向かって歩き出した。
出口に着く前にきっと誰かと出会うはず、そうなれば本当に犯罪者に狙われているとしても襲われることはないはずだ。噂話では、被害者の悲鳴を聞きつけた人が現場に駆け付けると、犯人は被害者に大けがを負わせることなく直ぐに逃げだしたのだという。兎に角、他の誰かが居てくれさえいれば命まで取られることはないのだ。
私は夕暮れに染まる公園の歩道を歩きながら、不安に飲まれそうになる自分へ安全だからと必死に言い聞かせた。
だがそんな抵抗も空しく、こちらを監視する何者かの視線は近づくことも離れることもなく、一定の距離を保って追いかけてきているのでった。
暫く歩いてみたが誰一人すれ違うことはなかった、不意に塗装が剥げかかった標識が目に飛び込んできた。しまった、この先は西の出入り口だ。六三四は思わず泣きそうになった、本当に今日はツイていない。
三井出公園は傾斜に作られており、南は展望台で行き止まりとなっていて、出口は北と東と西の三つ存在する。六三四が向かっている西口は最も人通りから離れた所に存在している。この方向に進んで人に会う確率は低い、下手をすれば公園を出て大通りに出るまで一人だ、襲うとする人間にとって有利な状況へと知らずに飛び込んでしまったのだ。
ど、どうしよう。
走って引き返そう、いやいや、そんな素振りを見せれば相手は必ず歩道に飛び出して行く手を阻むに違ないない。
震える右手をスカートのポケットに入れると、スマホをぎゅっと握りしめた。何かあったら警察に直ぐ通報しよう。警察が車で時間がかかるのも忘れて、六三四はその言葉が自分を守る呪文であるかのように胸の中で何度も繰り返したが、溢れ出す恐怖と不安が消え去ることはなかった。
「あ!」
六三四は口から小さな悲鳴を上げると、勢いよく歩道に倒れこんだ。いつの間にか小走りになっていた脚と脚の間に、竹刀を挟みこんでしまったのだ。受け身を取ることなく歩道に叩きつけられた六三四の体、その衝撃に悲鳴を上げる。
「痛い!」
六三四は我慢できずに痛みを口にした、だがしかし周りに人影はなく、それは誰の耳にも入らず風に揺れる草木の音に紛れ消えていった。
もうやだ、お家に帰りたい!
六三四の目に涙が溢れた。
倒れたままで右手を見ると、掌は擦り剥け血がにじんでいる。なんで今日は嫌な目に、こんなにも会わなけらばならないのだろう。竹刀に脚を絡めたのは自分あることも忘れて、六三四は今日わが身に降りかかった理不尽な出来事を順々に思い出しては、運に見放された自分を一人呪った。
「情けない」
その時、人の声が耳に届いた。
その声音には、はっきりと呆れと侮蔑の感情が込められていた。
誰か居るのだろうか、顔を上げて周囲を見回すが目に入る範囲に人の姿は無かった。
聞き間違いなんかじゃない、人の声は確かに聞こえた、六三四は注意深く一度当たりを見回した。居た、歩道脇に生えている生垣の間からこちらを覗う何者かの目が、夕日を浴びて一瞬輝いたのを確かに見た。私を馬鹿にしたのは追って来た奴だ、瞬時にして湧きあがった怒りと悔しさに怪我をしたことも忘れて右手を強く握りしめた。
六三四は近くに落ちていた竹刀袋を掴むと、転んだ痛みが残る体を引きずるようにゆっくりと立ち上がった。
「本当に情けないのは、隠れて人を追い回すあなたの方よ」
頭に上った血の勢いで怒鳴りながら竹刀を袋から取り払った、そして正眼に構えると目が見えた生垣に切っ先を向ける。
竹刀を防具もつけてない人に向けてはいけないと、剣道部の顧問や小学生時代に母からきつく言われていたが、夕暮れの公園で中学生を追いかけまわす不審者相手なら話は別だと自分に言い聞かせる。
「構えは様になっているな」
大人の声だ、本当に自分は追われていたのだ。
でも、どうして後ろから声がするの!?
六三四は恐怖に弾かれ体を180度回転、背後にあったゴミ箱側の生垣が僅かに揺れるのが見えた。
ついさっきまで声の主は目の前の生垣に隠れていたはずなのに、いつのまにか足音一つ立てず背後に移動していたのだ。冷えた汗が頬を伝う、あの状況で相手が動いたら鈍い私でも足音位は耳にしたはずなのに。六三四は理解の範疇を超えた事態に一瞬呼吸を忘れた、再び息を吸い込むと先ほど啖呵を切った時にはあった威勢が急速に萎んでのを感じた。
「だが未熟、まだ幼い」
自分を値踏みする男の声が、今度は左の生垣から聞こえた、慌ててそちらに竹刀の切っ先を向ける。
今度も移動した足音どころか、気配すら感じなかった。
相手が喋らなければ、あのまま無防備な左半身を晒し続け襲われても対処出来なかっただろう。
喋らなければ?
恐怖で血の気が引いた頭が僅かだが思考力を取り戻すと、自らが置かれている状況の違和感にようやく気付いた。
相手が噂の暴漢で気配を殺して移動できるのなら、背中を向けて逃げる中学生をを襲う機会など幾らでもあったのだろう。
しかし、相手はそれをすることはなかった。
代わりに姿を見せずに、こちらの出方を覗うような素振りを見せている。
何をする気だろう?
まさか、抵抗されるかどうか見極めてから誘拐でもしようとしているのだろうか?
誘拐という非日常の脅威が急に目の前に現れ、竹刀を握る両手が試合の時以上に汗ばみ微かに震える、。
「ふふ、怖くて震えることだけは一人前にできるようだな」
声から重苦しい雰囲気が僅かに消えた、代わりに震える六三四を見て嘲笑っていることがわかる軽さがそこには含まれている。
馬鹿にされた!
物心付いた時から人よりも行動がワンテンポ遅く、周囲の人間から笑われていた六三四は相手がこちらを軽んじた瞬間を敏感に嗅ぎ取った、嗅ぎ取ってしまったのだ。
再び沸き上がった怒りが恐怖を押しのけると、このまま何もせず逃げるという選択肢を頭の中から掻き消えた。
声の主が隠れている目の前の生垣との距離は約3メートル、防具ではなく制服と運動靴の今の状態なら一瞬で打ち込める距離。
六三四はとの距離を目算で測り、竹刀を握り直して戦う決意を固める。
相手は自分よりも速い、だが一太刀打ち込んで怯ませ動きを止めさえすれば、逃げることも警察に通報することも可能だ。
がんばれ六三四!
相手は油断している、きっとこの作戦は上手くいく。
作戦と呼ぶには笑っちゃうくらい単純な物だったが、今の六三四にはこれ以上の策が思いつかない以上、賭けるしかなかった。
空はいつのまにか濃厚な橙色から薄い黒へと塗り替えられていて、等級の小さな星が瞬き始めている。近くの街灯が点灯、寿命が切れかけた電球が助けを求めるように点滅を繰り返す。夜の冷たさを僅かに纏った風が吹き、僅かに汗ばんだ体から熱を奪う、この場に通行人が現れる気配は相変わらず無い。
六三四は声の主と対峙したまま静かに攻撃の機会を待つ。時間にして30秒も経っていないだろう、その時は何の前触れもなく訪れた。点滅を繰り返していた街灯が消えた、光が消えた空間を一瞬にして闇が飲み込んだ。
今だ!
胸中に響いた声に突き動かされ六三四は歩道を蹴ると、一直線に生垣、その向こうに居る声の主に向かって突進する。
ガサガサバチン!
六三四が振り下ろした竹刀が、生垣とその向こうの空間を打ち据えた。竹刀は六三四の枝葉を散らし、生垣の半ばで止まる。人を打ち据えた手ごたえは無い、逃げられた!
「良い打ち込みだ、筋は良さそうだ」
その声は右から聞こえた、近い、手を伸ばせば届く距離に居る!
悲鳴を上げることも忘れて六三四は右足を軸に回転、竹刀の切っ先は生垣を横に切り裂きながら、声がした空間を斜めに斬り上げたが空しく空を切る。
嘘、誰もいない?
当てが外れた、そう思った瞬間、黒い何かが体の横を物凄い速さで横切った。
「痛い!」
右手の甲に鋭い痛みが走り竹刀を落としそうになったが何とか耐える、黒い何かを追って慌てて後ろを振り返ったが、既に姿を消した後であった。
何いまの?
周囲に素早く目を走らせるが、明かりがない状態では生垣が揺れる様子すら確認できない。
え、嘘、消えた?
今の黒いのが喋っていた人なの?
はっきりとは見えなかったが明らかに小さい、小柄な六三四の腕で抱えられそうな大きさだ、とても人間とは思えない。
幻覚でも見ているのだろうか、異常な状況にこれまでの出来事が幻なのではないだろうかと六三四は自分を疑い始めたが、右手の甲を見て思わず息をのんだ。
血だ、中指の付け根から手首まで一直線に鋭利な何かで切られ血が滲んでいる。
幻覚や気のせいなんかじゃない、こちらに危害を加えようとしている何かが近くに居るんだ。
ガサガサ
背後から葉が揺れる音が聞こえた、六三四は振り返ると同時に竹刀を振るったが、そこには人の姿は無く、またも黒い塊が猛スピードで横を通り抜けると左手の甲に一条の切り傷を残していった。
痛い、痛い、何なのこれ!
六三四は訳が分からずに声にならない悲鳴を上げたが、黒い塊の攻撃が止むことはなった。
六三四の死角である背後や側面から連続で飛び掛かって来たかと思えば、目を離した隙に正面から襲い掛かって来る。
完全に遊ばれている。
六三四は悔しさに奥歯を噛み締めた、攻撃はかわせるようになったが、幾ら竹刀を振っても黒い塊にかすりもしない。焦りで肩に力が入り剣筋が乱れ始める。呼吸も乱れ始めるが、恐怖と焦りに呑まれた六三四はそんな自分に気づくことはなかった。
「この程度か、次で終わりにするとしよう」
六三四の背後からまた声が聞こえた。
その声音からは重圧感も侮蔑も消え、六三四に対して呆れて興味を失いかけているのが分かった。
勝手に始めて、勝手に失望しないで!
六三四は身勝手な相手の声に再び怒りが沸き上がった、そして振り返ると同時に前に向かって地面を蹴った。
予想通り、何処からともなく飛び出して来た黒い塊が正面に見えた。
「面!」
一人叫ぶ、そして振りかぶった竹刀をありったけの力と怒りを込めて振り下ろした。
やった!
ここ最近で一番の一撃だ、振り下ろした瞬間、六三四はそう確信した。
振り下ろした竹刀、歩道を走る黒い塊、それらがまるでスローモーションの動画を見るかのように、ゆっくりと六三四の目には見えた。
え、嘘!
突然、黒い塊に光る小さな二つの点が現れニヤリと笑ったのだ。そして弛緩して流れる映像の中で、黒い塊が地面を蹴って宙へと跳んで竹刀の軌道から外れた。六三四の行動は黒い塊に全て読まれていたのだ、全てを賭けた最高の一撃はまた空しく空ぶるのだ、そう思うと悔しさで目が涙で滲んだ。
負けたくない、六三四は竹刀の軌道を何とか変えようとしたが、打ち込んでいる最中の足で重心を変えようとした為、再び足が縺れた。
視界一杯に地面が広がる、また転ぶ、六三四は目を閉じる。竹刀に何かがぶつかる、動物の悲鳴が耳を劈く。六三四の全身が舗装された地面に叩きつけられる、彼女の意識はそこで途切れた。
痛い。
六三四は全身の痛みに漏らした悲鳴で目を覚ました。薄暗い視界の中、固い煉瓦の床に公衆トイレ、明かりが点いていない街灯が見えた。明らかに家ではない、どうやら自分は外で寝てしまっていたようだ。
ここは何処だろう、たしか家に帰る途中で公園に入っちゃってそれから追いかけられて、あぁぁぁ!
これまでの状況を思い出し六三四は跳び起きた。急激に動かした体のあちこちが痛みを訴えるが、今はそれどころではない。自分を追いかけてきた人、いや黒い塊はどうなったのだろう、周囲を見渡すがそれらしい者の姿は見えない。
誘拐される前に誰かが通りかかって逃げたのだろうか、だったら倒れている自分の姿を目にして声をかけていかないのは不自然だ。
まさか、何か取られたの!
制服のポケットを探る、スマホも財布も生徒手帳もある。鞄も背負っているし竹刀もそこに転がっている。それに竹刀の隣に落ちている黒い塊も転がっている、何も取られて……黒い塊!
六三四は息を呑んだ、この状況で落ちている黒い塊など、自分に襲い掛かって切り傷を付けられた相手しかいない。
怖くて直ぐに逃げ出したかったが、竹刀を置いていくわけにはいかない。
恐る恐る竹刀に近づくと手を伸ばす。
指先が竹刀に触れる瞬間、黒い固まりが動いた!
黒い固まりは丸めた体を広げると、長い棒を5本地面に放り出した。足だ、既に陽が落ちて辺りは暗くなっていたがはっきりと生き物の足だと分かった。5本目の棒は尻尾、胴を挟んで反対側には小さな頭、顔を近づけてよく見るとボタンの様な鼻と小さなスプーンの先の様な二つの耳がひくひくと震えている。
「猫・・・・・・な、なんだ、猫だったのか」
黒い塊の正体が判明して六三四はほっと胸を撫で下ろした。
「なら、あの声は一体?」
辺りを見回す、気を失う前と変わらず人の気配はない。
六三四は倒れている黒猫を凝視する、まさか、この子が喋ったのだろうか?
喋る猫、そんなの漫画の中だけの存在だ。
六三四はかぶりを振るって馬鹿げた妄想を頭から追い出す。
そうだ、確かめてみよう。
好奇心に刈られた六三四は襲われていた事も忘れて、黒猫に近づいて恐る恐るその体に触れた。
指先が猫の脇腹に沈む、前に野良猫に猫に触れたときと同じ感触がした。
腹から指を離し、黒猫の頬をつつく。
「猫さん、私に話しかけていたのはあなたですか?」
返事はない、起きる気配はない。
無理もない、竹刀で思いっきり叩かれたのだから、え、叩かれた、誰に、誰って私しかいないじゃん。
「え、あ、私、猫を竹刀で殴りつけちゃったの?」
気絶する前に転んだ瞬間、動物の悲鳴を思い出す。
もしかして殺しちゃったの、私。
猫の頬に触れていた指が震える、急いで猫から離しもう片方の手で押さえつけて止めようとしたが、それは瞬時に全身へと伝播する。
息が苦しい、猫が、猫が死んじゃった!
涙が溢れた、視界が歪む。
「おが、おがーさーん!」
口から情けない叫びが漏れる、六三四は落ちていた鞄と竹刀を拾うと倒れている黒猫を抱え無我夢中で走り出した。
お母さんに助けて貰おう、駄目だ、今日は両親共に仕事で居ない。
あ、貫城さんのお母さんは獣医だ、今ならまだ病院開いてるかも。
六三四は走って、走って、走りまくった。
こちらを奇異の目で見る人々の目も気にせず、一目散に親友の母の元へと向かって走り続けた。