あの春
春。
あの頃の、あの時の気持ちは、今も鮮明に覚えてる。写真を見るだけで、その中に写る自分の顔を見ているだけで、胸の片隅がすんと冷えていく。それはたしか青春を問い直した矢先の、春だった。
「何となく」と言い訳を重ね、都合よく目を背けながら進んだ道の先にあるものは、自分がきっとそうだろうと確信していた未来は、何となく一歩進む度、刹那に消えてしまう。
何故か。
今ならわかるだろう。あの春を生きた自分を見つめて、私は私を笑っているのだから。簡単なこと、広い道、安全な方法では間違っているのだという、哀れなアイデンティティに溺れていただけ。何も見えてはいない、見ようともしない、私は私を導こうとしていなかったのだから。
生きることはいつだって悲しい。
幸せな時間を幸せな時間だと捉えてしまった瞬間に、その時間は壊れ、やがて迫る来る悲しみに心は奪い去られてしまう。
そう思わせたのは誰だ。私を不幸にしたのは誰だ。
振り返ってはいけなかったのか。前だけを向いていればよかったのか。
あの時、確かに、埋まらない隙間があった。それを埋めようと、或いはその隙間に触れまいとしたとして、それでも時間は経過するのに。
結局は、生きるしかないのかと、生きることへの憤りに身が蝕まれるのみで。
春だというのに。どうしても思い出してしまうのに。
この頭が、心が。あの春に置き去りには出来ずにいる。
でも、ただ一つ分かったことがあり、それは私を知るのは私だということで、つまり私以外私を知る者はいない。初めから、私の思い通りになるはずもないのだと。憤りはない、至って簡潔な結論を胸に、一つの点のような存在だと、赦しを乞うのがいいと。
本当に、そう思うのか。そんなはずは無いけれど、そう思えば上手くいくのだろう。