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言霊円~Border of the mankind~  作者: 羽葉世縋
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漁夫の利

イプシロンは案外臆病な男である。

5歳の頃に父親が二十四言狼として徴兵された時には大声で泣いた。自分だけでは母親を守りきれない気がしたから。そうなるべくしてなったのかはわからないが、ある朝目を覚ました時には母親が失踪していた。空の家を歩き回ったが、誰もいない。お腹が空けば母親が帰ってくると信じた彼はやがて酷い栄養失調の状態で施設に保護された。16歳の頃生まれてすぐのサンピが施設に入ってきた。20歳の時戦場に来た。名前を隠し、戦う日々。次第に物事がどうでも良くなってきた。


そして現在、26歳。震える手で遺書を書いている。ほとんどがサンピに宛てたもの。自分が教えられることの全てを書き記すつもりで筆を滑らせていく。しかし、本音としては、

「イプさん…あの、今大丈夫ですか…?」

「シータか。どうしたんだ?」



「私、イータさんに嫌われてるんですかね…?何度会いに行っても冷たいですし…。」

「シータは前のシータとよく似ているから、逆に受け入れられないだけなんだよ。好きだからこそ避けなくてはならない時もある。彼女は君を好きになりたいから悩んでいるんだろうさ。ただ、前のシータとどうしても比べてしまうんだろう。君を君という個人として受け入れられるまで、根気強く待とう。きっと大丈夫だから。」

「…はい!ありがとうございます!!」

「嵐が来ていて風がうるさいだろうけど今日はもう寝た方がいい。明日にも閏が来るんだから。」

「そうですね、おやすみなさい。」

ふんわりと笑う少女にこんなにも救われるとは。…勇気が湧く。イプシロンは部屋の扉に背を向け、机に突っ伏してほくそ笑んだ。しかし、どうしてか涙が溢れた。


明日、明日さえ越えれば。きっとまた命は1ヶ月の猶予を得る。死は待っていてくれる。だが、もし今日が最後だとしたら?怖い。だが、だが…、怖がって許されるこの命ではない。もしもの時は二人を守らなくては。絶対に逃げてはならない。わかってる。


それでも、本当はもっと生きたい。



イプシロンがサンピの能力に気づいたのはサンピが3歳の頃。施設で飼っていた犬に対してサンピは「死んじゃ嫌だ」と泣き叫んだ日があった。その涙を犬はペロペロと舐めていた。元気な犬だった。5歳だったし、死ぬような年齢じゃない。それでも、それは起きた。予言の次の日、犬が脱走した。イプシロンと数人が追いかけた。その目の前で犬は車にはねられた。あっという間のこと。あっという間もなかったか。

その遺体は施設の金木犀の木の下に今も埋まっている。


もし死んだとしたら、遺体は残るだろうか。前のシータのように、腕の骨一本しか残らないかもしれない。

あぁ、生きたい。生きていたい。

ザラザラした願いが喉を這いずる。その純粋で汚いものを無理矢理冷水で押し流すのだった。




今日も今日とて何もない荒野。風は落ち着き、空は快晴である。イプシロンは一人、立って待っていた。どうせ来るのだろう。来るのなら来い。その思いとは裏腹に、心臓はバクバクと急いで全身に血を流す。緊張で倒れそうだ。

サンピとシータは遠くから見守っていた。きっと大丈夫だと信じて。



太陽がさらに30度昇った頃、ヒビから音がし始めた。刀を構える。

ザリ、ザリ…

イプシロンの周囲に火の粉が散る。

ザリザリ…

イプシロンを取り囲むように赤い炎が上がる。

ザリザリザリザリザリザリッッッッ

「来たな!!」

見るからに強そうな巨体が這い出てきた。ざっとイプシロンの2倍はあるか。顔はギリギリ人の形をしているが、潰れたカエルのように見えてしまう。そして頰には特有の痣。胴体は筋肉の塊か。閏のスーツがはだけてしまっている。腕はまるで丸太のよう。爪は獣より鋭く伸びている。

「お前、今までに何人食ってきた…?」

イプシロンの質問に、ハンドサインで答えた。

『2』

どおりで屈強なわけだ。さてどうする、王子が先日言っていた武器はできていない。とにかく殺してもう一度地下に葬るほかない。


イプシロンは一気に距離を詰めた。足を切れば動きを遅くできると考えたのだ。

しかし閏も阿呆ではない。パッと回避するとそのまま蹴りに移行する。

その軌道にいたイプシロン。

とっさに刀を利用して受け身を取る。

吹き飛ばされたが、身を翻し上手く着地した。

── 閏は足の痛みに気づいた。焦げるような匂い。まさかと思って見てみれば剣が触れた部分が黒く焦げていた。

もちろん一瞬で炭化を引き起こしたのはイプシロンである。

ふぅと一息つくと、また炎を上げた。その熱はサンピたちの元へも届く。

「焼き尽くしてしまえば、何も関係ないだろう。」

イプシロンはニッと笑った。


刀にすら炎は灯る。イプシロンの白い髪を赤く染める。

その様子を見て閏は唾を飲んだ。

いくら強そうに見せたところで、この閏にとって人間など美味しそうな餌。骨の髄まで奥歯の奥の奥で噛みしめたいくらいの代物。

どうしても三度目を味わいたいのだ。

閏にとって地上に出るということも争奪戦。地上に出られるのは1日二人まで。そういう法律なのだ。

30年ぶりの地上。初めて人間を食らったのは300年前だったか。

食えば、さらに強くなる。


イプシロンは首を狙うことに決めた。やるなら骨ごと断ち切る。

瞬きより早く閏の後ろに回り込む。

閏はそれに気づいた。

後ろに向けて腕を回す。

なんとタイミングの悪いことか、その肘がちょうどイプシロンの腹に入った。

ドッと鈍い音がした。

「があっ!?」

── ダァンッ

そのまま地面に叩きつけられる。

受け身の暇もない。

怯んだその一瞬のうちに閏の大きな手に拘束される。

背骨を折ってしまえば閏の勝ちだ。

ギリギリと力が込められていく。


負けてたまるか。

イプシロンはさらに熱い青い炎をまとった。

その業火は閏の皮膚を焼く。

閏は思わず手を離した。

イプシロンはどさりと地面に落ち、そのまま倒れこむ。

しかしすぐに立ち上がる。

剣を握ろうとした。

握ろうとした。


右手が言うことを聞かない。

剣を握れない。

炎を振り払った閏が咆哮を上げた。



怖かった。



それはとっさの判断。

動かない腕はいらない。


イプシロンと別の個体と化した右腕型の肉は新鮮な血を振りまきながら宙を舞う。

さぁ、美味しそうだろう。

馬鹿みたいに食いつけ、むしゃぶりつけ。


思惑どおり閏は右腕に食らいつき、その隙にイプシロンは閏の首を切断することに成功した。

すぐに傷口を焼く。

パッと顔を上げ、サンピたちの方を見た。

とても清々しい笑顔だった。





イオタは深刻な表情で走る。

カレットやアイを待つ暇などない。

たったの3キロがあまりにも遠い。


イプシロンの居場所に、たった今消えたものと別の反応がある。

現れた瞬間、イプシロンと閏の戦闘から距離をとったらしい。

凄まじい勢いでイプシロンの元へ近づいていく!!

羅針盤を見る時間すら惜しい!!


もうなんでも構わない、無事でいてくれ。





数十秒後、視界に広がったのはあまりの惨状だった。

閏を見据えたサンピがシータを守るようにして立つ。

炎が消えたと思われる焦げた煙を上げ続ける地面。

とある青年の姿の閏。

やつに抱きかかえられながら少しずつ食べられていく、首のないイプシロンの遺体。


「毘沙門天ッ!貴様ぁぁぁッッッッ!!!!」


奴がニヤリと笑ったところまでは覚えている。





「イオタさん、イオタさん…!!」

カレットの声でハッと目を覚ます。上半身を起こして見回してみる。一体何がどうしたのか、地面のいたるところが抉れている。

「サンピに聞きました。イプシロンさんが…殺されてしまったと。」

「…夢じゃあ、なかったんだな。」

イオタはまた仰向けに倒れこむ。快晴の空の深い青に吸い込まれるような錯覚を起こす。

「イプシロン…。」

寂しそうな声で、イオタは涙をこぼし始めた。

「名前、名前は聞いたのか…?」

ハッと思い出したかのようにカレットとサンピに尋ねた。

カレットはサンピに視線を送る。

サンピは一つ頷くとその名を呟いた。






「ケオ・ヘルゲート」






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