サタン
何歳から遊郭で働いていたのかは覚えていない。覚えていたところで何にもならないから覚えていないのだ。
17歳になったギリス様に会うまでの日々は絵に描いたような空虚。つまらなかった。私は男を愛するタイプの人間ではない。そばにいるのなら女性が良かった。それでも同じ遊郭で働く女性たちに辛い思いをさせないためにほとんど全ての客を捌いてきた。ここの女性を幸せにできそうな財産や性格を持ち合わせている男性には相性の良さそうな人に仕事をしてもらうこともあったが。
おかげで客と結婚して毎日が幸せだと、何人も私を訪ねてくる。私が嬉しそうな顔をすれば更に彼女たちは花が咲いたように笑ってくれるのだ。
だが私に感情は無い。
人に合わせて言葉と表情を選べばそれらしく見えるのだ。
正直、私も早く良い人と巡り会いたかった。しかしそんな女性がいるはずもなく。
ある時、街を歩いていると突然腕を捕まれ路地裏に連れ込まれた。
あぁ時間外労働か。その程度にしか思っていなかった。クズにはクズなりに罰を与えればいい。何万円巻き上げようか。
乱暴に壁に叩きつけられて両腕の間に閉じ込められる。何かしら叫んでいるようだが、聞く耳は持たないでおこう。
「それで、何万円お持ちですか?」
そう問えば、相手は怒ったような顔をして着物の襟に手をかけた。
「ひっ…ご、ごめんなさい…どうか命だけは…」
多分こいつの好みは臆病な人間だろう。か弱いふりでもして、店の宣伝にでもしてやろうか。広告費として特別無料体験といったところか。金を巻き上げるのは店に来てもらってからでもいい。
「や、やめてください…!」
キスをされそうになる。怯えてるように見せるためギリギリまで顔を背ける。
あとはだいたい顔を掴んで前をむかせるか、殴って従わせるパターンだろう。前者ならすぐに気持ちよさそうな顔をして、後者なら更に怯えたように泣けばいい。
さぁどうくるか。早く選ぶといい。
答えは前者だった。顔を掴まれ、無理矢理向き合う形に。あとは行為に流されるふりをすればいい。顔が近づいてくる。
「やめろ!!」
強い芯の通った女性の声が響いた。
男と共に声のした方を見た。
「その方を離しなさい!!」
猫族の人間と朱色の髪の男が立っていた。
「イブ、落ち着きなさい。彼の人は俺の主人だから怒るのは俺の仕事だ。」
「ですけど…。」
制服は同じか。よく見れば警察らしいな。
どうすれば一番都合よく動けるかというと…
「あのっ、た、助けてくださいまし…!この方が無理矢理…!」
2人に助けを求めてみた。男が逃げるのを防ぐためにかけられた手に私の手を添える。そして手を離せないよう一気に手を握る。もちろん隠しているが、握力にも自信はある。
離れない手に驚いた男に朱色の男が掴みかかり、うつ伏せに押し倒した。
「イブ、縄。」
「はい、テソロさん。」
手際よく男を拘束していく。
「お前ら何者だ!」
テソロと呼ばれた男は顎でイブに指示を出す。頷いたイブは何かを取り出した。
「私たち、警察の一派なんですよお兄さん。主に護衛が仕事なんですけど、まさか初日から主人が襲われてるなんてびっくりですよ。」
イブがため息をつく。
「アダム様、お怪我は無いですか?」
テソロがこちらを見て問いかけた。
「え、あぁ、平気です。…宣伝の材料にしてやろうかと思ってましたけど、…まぁ嫌な気分ですね。」
「大丈夫です。これからは私たちが貴方をお守りしますから!」
イブが笑顔で私の手を握った。少し屈まなければ私より背の高い女性だ。今まで見てきた汚い者と比べるとあまりにも綺麗な好青年のような人物だ。
「…よろしくお願いしますね。」
微笑みながら答えてやれば、イブはとても嬉しそうな顔をしたのだ。
久々にイブとの出会いを思い出した。
会いたいと思うと苦しくなる。私と出会ったから死んでしまったのではないのか。最初からそんな運命だったのではないのか。
私のせいであってほしくない。そんな卑しい願いが心臓を内側から叩くようで。
恋をしたのは私の方からだった。手に触れると、何も感じやしない心が何かを拾い上げる。その感覚が好きだった。自分が何歳なのか、その自覚はある。愚かだなと思う時、必ず横には彼女がいた。
何かの運命に縋る私に対し、彼女は自分の力で弓を引き、獲物を仕留める人間だった。真っ赤な顔をした彼女が私を壁際に追いやり、腕を私の頭の上に叩きつけると、見下ろす状態のまま愛を囁いた。
この身も何もかも彼女に捧げるはずだったのに。
彼女が先にいなくなってしまった。
あの蛇だけは許してはならない。
あの黒蛇だけは私が殺す。
復讐は何も生まないが、やらねば次々と失い続けるだけ。やってはならないではない。やらなければならないのだ。
何も生まない行為が無駄であるとは言えない。何も生まない時、同時に何かを失うことを回避していることもある。
その一片のもしかしたらに縋り生きていく。
たとえ復讐を果たせずとも息はする。
彼女の遺した愛を守ることが私に出来る最大の弔いなのだから。




