人間に戻る薬
藤色の髪の少年は暗い都を走る。彼なりの全速力で走る。光の薄い青い瓦礫の街を過ぎれば、電飾の賑やかな中心街に着く。ある場所を目指して走る。遊郭街をチラリと横目に見て、なお走る。やがて見えてきたのはとある和風の屋敷。
「ただいまぁ!」
勢いよく戸を開け、中に入っても走る。幾つかの戸を無視し、たったひとつ、目指していた戸を開けた。
「大黒天さん、ただいま!!」
「おかえりアイちゃん。今日はどうだった?」
アイちゃんとは、雑魚くんの本名である。アイは大黒天に抱きつき少し涙目になると、小さな5歳くらいの幼子の姿に変わった。猫の耳を持った幼子こそ、アイの本当の姿である。
「今日も負けたぁ!ねぇ、どうすれば落ち着いて戦えるのかな?今日は二十四言狼とは違うただの一般人もいたんだよ!今日こそは食べれると思ったのに…。」
「アイちゃん、人肉は食べちゃダメって言ってるだろ?人間を食べれば人ではなくなるっていうお父さんからの言いつけ、ちゃんと覚えてるか?」
「覚えてるよ。でも強くならないと。俺がパパを守らないと…。」
「お父さんは大丈夫だ。今もとても安全な所にいるだろう?」
「そうだけどさ…」
アイはわかりやすく拗ねた。
「イオタなら教えてくれるかな…?」
「ん?」
「いや、なんでもないよ。」
アイは大黒天がわかってくれると知っていても、イオタに助言を貰っていることを隠した。本当は友達のことを話すように話したかった。しかし、アイは5歳にしては賢いのだ。500年も生きているのだから。
いつどうやって、自分と二十四言狼の仲が良いかバレてしまうかわからない。バレたら最後、アイも大黒天もアイの父親も殺されるに違いない。
それだけは避けなくてはならない。
「明日も行くよ。そしてイオタをギャフンと言わせてやるんだ!」
「そのことなのだけど…ちょっと耳を貸してほしい。」
「ん?」
大黒天はある指示をアイに出した。
アイは目を丸くして驚く。しかし、全てを理解したアイは静かに頷いた。
「そろそろ人間に戻れる手段が出来上がってるはずだから、アイちゃんは先に地上に戻ってなさい。私とお父さんは後で向かうから安心して生きなさい。」
地上に出たアイはラッパの音とともに現れた朝日を見てポロポロと涙をこぼした。ここはイオタの家の屋根の上。粗末で低い家だから登るのは容易だった。やがてイオタが出てくるだろう。そこで事情を聞いてもらう。
ドアが開いた。アイは地面に降り立つと、幼子の姿からいわゆる雑魚くんの姿に変わった。
「ぅおあああぁっっ!?」
「うわぁ!?」
ものすごいリアクションに驚いた。出てきたのはあの食い損ねた人間だ。
「イオタさん、イオタさん!!!なんかいきなり雑魚くんが!!!」
「はぁ?」
家の奥の方から声がした。
「イオタ!!」
「…本当に雑魚くんじゃないか。こんな早くから来てどうしたっていうんだ。」
「それが、その…」
「危害を加えるつもりでないなら少し上がっていくといい。くれぐれもカレットをいじめないように。」
アイは安心したのか、少しいつもの調子に戻る。
「そんな余裕あるかよ!」
「いや、それは俺のセリフだわ!」
対してカレットは肝を冷やすのだった。
「さて、どういう経緯で今に至るか話してもらおうか。」
イオタの家にはダイニングテーブルはない。アイを雑にソファに座らせ、ソファの前の小さなちゃぶ台に菓子とお茶を置いている。
「閏が、人間に戻れる技術が出来たかもしれない…って言われて来たんだ。」
「ほぉ、誰に?」
「大黒天さん。俺の父親代わりの人。」
「ふぅん、そうか。」
まるで知っているような顔。何も知らないくせにとアイは心の中でイオタに向かって舌打ちした。
「…確かにちょうど昨日そんな技術が出来た。君に飲ませたらどうだと、錠剤を預かっている。やけに出来すぎた話で驚くが、事実だ。」
「なんかすげぇな。」
「なんかすげぇだろ。」
2人は昔からの知り合いのように話す。カレットは置いていかれるばかり。
「カレット、水を出してやってくれ。早速だが飲ませてみよう。成果報告についてはまぁ、1番近くに住んでるイプシロンに話せばいいだろ。」
「え、あ、はい!」
蛇口を捻れば水が出る。
「万一、雑魚くんがスパイだったら俺たちは三日後には死ぬかもな。こんなところでどうやって水が出てるんだって話だしな。」
「俺はスパイじゃない!大黒天さんの指示なんだからな!!」
「万一、と言っただろうが。疑ってはいないよ。」
カレットがイオタに水の入ったコップを渡す。
「あぁ、ありがとうな。さぁ雑魚くん、飲んでみろ。」
「…よし。」
つい先程目を覚ましたイプシロンは上半身を起こしてはいるものの、下半身は布団に飲まれたまま動かない。1つあくびをすると、頭をかいて、背伸びをしてようやく動き始めた。散らかった部屋に溜め息が出る。しかし片付けは苦手なのだ。
「眠い…」
立ったまま寝そうだ。
「兄さん!!何立ち寝してるんだよ!!シータがどうすればいいかわからなくて愚図りかけたんだぞ!!」
「…。」
眠い。どうしようもなく眠い。
「しっかりしてよほんとにもう…。」
ベッドの上で寝たまま動かないよりかマシかもしれないが。サンピはふとそう考えた。
その時だった。
「キャー!!!」
シータの叫び声。玄関の方だ。
「シータ!!!」
一気に目が覚めたイプシロンはサンピより早く現場へ。しかし、
「な、なんですかその可愛い子は…!」
シータは目を輝かせて、口を抑えて震えていた。
「シータ…?」
「イプシロンさん!見てください見てください!イオタさんがすんごく可愛い子を連れてるんですよ…!!」
「は?」
シータの叫びは可愛いものを見た女の子特有のものだったようだ。
「イプシロン。例の錠剤についてなのだが。」
「まさかそれ、雑魚くんか…?」
フニフニとしてそうな丸い頬にイプシロンと同じ模様、藤色の髪から覗く猫耳、二股の尻尾、手足も小さく、まさに五歳児のような。
「そうだ、雑魚くんだ。」
「これが俺の本当の姿だよ、悪いか。」
「いや…いや、可愛いな。」
「だろ。でも505歳だからな。」
年齢でマウントを取ろうとするところも子供らしい。
「カレットはどうしたんだ?」
「全力で走るから家に置いてきた。3kmも全力で走りきれるかあんな子供に。」
「全力のレベルがおかしいんだよお前ら。」
雑魚くんはイオタに抱えられて来たが、あまりの速さに意識が飛びかけたのだという。
「とにかく、あの薬の効果はこのようなものだ。閏を人間に戻すことは出来る。」
「なるほどな。それで、雑魚くんはどこで預かるつもりだ?いい加減うちも空いてないぞ。」
「しばらくはうちでどうにかする。狭いが、雑魚くんも小さいしどうにかなるだろ。」
「お前も意外と雑だよな。」
「別にいいだろ。それと、今日からカレットの訓練を始めようと思う。まずは足の速さと基礎体力の向上がいいよな。」
「それならお前の家から俺の家までの往復を取り入れたらどうだ?サンピもいるし、いい中継地点になるだろう。」
「そうさせてもらう。」
「…イオタ、俺が死んだあとはサンピとシータのこと、頼んだぞ。いつ死ぬかわからないから言っておくが。」
「…分かった。雑魚くん、帰るぞ。」
そう言ってイオタは雑魚くんを小脇に抱えると一気に走り去った。
「お前とカッパの足の速さは異常なんだよバーカ。」
砂埃の先に向けて嫌味を漏らした。
「シータ、朝ごはんを作るから手伝ってくれるか?」
シータの方を見た。が、彼女は何か、決意に充ちた顔をしている。
「イプシロンさん!私もやります!走り込み!!もっと雑魚くんをもふもふする時間が欲しいんです!!」
まさかの原動力に驚いたが、イプシロンは笑顔で快諾した。