人間が増えた
恵比寿が俺の後ろをついて歩く。トコトコと。12歳だったわりに幼い雰囲気で。
俺は恵比寿がついてきていることを確認すると前を向いて歩き始めた。
スタスタ、トコトコ。
俺の目の前に現れたのは、菊や躑躅、彼岸花に囲まれた上り坂。
これを登れば家に帰れる。
進もうとしたところで恵比寿が後ろから俺の手を引いた。
一体なんだと振り返れば、そこにいたのは俺と同じ身長になった恵比寿だった。
口の周りを赤く汚して無邪気に笑う。
恵比寿の足元には人の腕の骨。
恐らく上腕骨。
一気に血の気が引いた俺は思わずよろけ、尻もちをつく。
そこに恵比寿が抱きついてきた。
過呼吸を起こした俺を落ち着けると、恵比寿は俺に伸びた前髪を切ってくれとせがむ。
気を失ってしまいそうだった。
というところで持国天は目が覚めた。大黒天が心配そうに持国天の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か?持国天。だいぶうなされてたようだが…。」
「…大丈夫だ。なんでもない。」
大黒天は布袋以外に対しては考えが柔軟なタイプである。だから立場が上でも持国天が友達であろうと言えば敬語を使わずに話せるのだ。
「そうだ、大黒天と布袋さんは明日から地上に出るんだろう?」
「あぁ。もうここには戻らないかもしれない。」
「しばらく寂しくなるな…。俺も後々出て行くから、地上に広い家を用意しておけよ?」
「あぁ、わかった。任せておけ。」
「…死んでくれるなよ?」
「大丈夫だ。布袋…アダムさんがいてくれるからな。俺が守るし、守ってもくれるさ。」
「そういう関係も良いな。…恵比寿は…置いていかなきゃな。」
「そうだな。今の彼は危険だ。」
暗い丘の上。風もないが木は力強く立ち続ける。
カレットたちが鍛錬に励んでいる間、イオタはつゆに勉強を教えていた。王子に取り寄せて貰った教科書はわかりやすくてありがたい。平仮名、カタカナ、アルファベット。主要な文字は着々と覚えていった。
「つゆは賢い子だなぁ。」
「えへへぇ〜」
ぽんぽんと頭を撫でると嬉しそうに笑ってくれた。
教科書の山の中には地図帳も入っていた。アドベント地方のページには既に付箋がしてある。王子の配慮だろう。
そのページを開くと、確かにアドベント地方の全体図が載っていた。真ん中には楕円状の栽の都。それを囲うように森があり、それを囲うように荒野、そしてまた森が囲う。そしてこの楕円を囲うように4つの国が広がる。東は日の国『高天原』、西は儀式の国『エデン』、北は海の国『ポセイドン』、南は音楽の国『エルドラド』。
「今はこんな地形なんだな…。」
「イオタさんはちずをみないの?」
「うーん、見たところでここからは出られないからなぁ。」
「なんででられないの?」
「…そういう決まり事なんだよ。なんでとは言えないなぁ。」
「そっかぁ…。でもここなにもないからつまんないなぁ。」
「そうだねぇ。でも色んな人がいるから楽しいよ。イータって子は君よりも小さい頃にここに来たんだよ。」
「へぇぇ…!」
「さて、次は僕の練習に付き合ってもらおうか。」
クセロがカレットとアイの戦闘演習を止めてこう言った。
「お、今日はどうやってやるんだ?」
「うーん…今日はカレットの攻撃回避かな。」
「おっけ。アイちゃんはイオタのところに戻っておけよ。つゆちゃんの勉強に付き合ってあげな。」
「おう!」
アイはトテトテと家の方に歩いていった。
「さぁクセロ、やるぞ!」
カレットが構る。しかしクセロはカレットに静止するよう合図をした。カレットはそれに従う。
今日は嵐明け。強い閏が来る可能性が高い。
クセロの視線の先のヒビ。数十秒後にザリザリと音がし始めた。
修行の成果か、クセロの未来予知は鋭敏になっていたのだ。
「来る…。」
現れたのは朱色の髪の和服の男だった。全身が出たところでキョロキョロと辺りを見回す。
「アダム様…?」
「アダム…?アダムさんの知り合いなのか!?」
「アダム様を知っているのか!?…ということは…ここに待機しておけばいいか…?」
どうもかなり混乱しているらしい。眉を八の字にして、困っているようだ。
「あんた、名前は?」
カレットが聞く。その問で男がパァと笑顔になるから思わずたじろいだ。
「俺は大黒天。アダム様の直属の部下…というか付き人というか…。とにかく親しい人だと思ってくれ!」
「アダムさんがいないから信用しきれねぇよなぁ…。」
「そこをなんとか。せめてアダム様が到着するまで待ってくれ!」
「わかったわかった。でも怪しい動きをしたらすぐに切るからな。」
「ありがたい。でも俺もアダム様と同様に君たちの味方だからな。」
カレットとクセロは2人で集まってコソコソと話す。
「なんか腰の低い人だね。絶対良い人だよ。」
「いや待て、白目のとこ見たか?雅と同じ黒だぞ?信用しきれねぇなぁ…。」
「でも、普通の閏だったらもう僕たちに襲いかかってるよ。そんなことしてこないし、きっと良い人だよ。」
「だといいんだが…。」
「アダム様!!やっと来られたんですね!」
その声を聞いて振り向いた。
「すみません、大黒天さん。ギリス様の相手に時間がかかってしまいまして。」
「ば、バレてしまったのですか?」
「面倒なのでバラしてきましたよ…。ギリス様、あの子がちょっとおマヌケさんで助かりました。」
クスクスと笑う姿はまさにカレットたちがよく知るアダムだった。
「アダムさん、アイちゃんを呼んできましょうか?」
「いえ、こちらから向かいます。イオタさんとも話をしなくてはならないですし。」
「それなら行きましょう!イオタさんも喜びますよ。」
アダムはアイの姿を見て卒倒しかけた。アイの横には勉強机に座りながらアイに抱きつこうとするつゆがいたのだ。
「あ、パパ!」
顔は喜んでいるが、今回はつゆを優先した。だからアダムは余計に驚いた。
「アイちゃん…良いお兄ちゃんになって…。」
「そうかな?」
「そうだよ。息子が紳士になってくれるなんて…父親冥利に尽きるよ…。」
涙を拭くジェスチャーをして見せるとアイは恥ずかしそうにした。
「大袈裟だよ、パパ。」
「ふふふ。あぁ、イオタさんに用事があるんでしたね。イオタさん、少々お時間頂けますか?」
「え、あ、あぁ。」
イオタが立ち上がってアダムのそばに行く。
アダムは掌を差し出すと微笑みながらこう言った。
「その刀で私の掌を少し切ってみてくださいまし。ちょっとテストをしてみたいのですよ。」
「…はぁ?死ぬかもしれないし、痛いだろ?」
「痛いのは承知しております。加えて私は死なないという確信もありますゆえ。」
「まぁ、わかった。信じるからな?」
「ありがとうございます。」
閏を殺す毒のある刀でアダムの掌を小さく傷つける。血が滲み、赤い雫を作る。
「…大丈夫そうですね。何も無さすぎてちょっと不安なくらいです。あとでヒビの上に立ってみましょうかね。」
「一体なんのつもりで…?」
「閏が人間に戻る基準の最終テストですよ。あとは大黒天さんにやってみて貰えませんか?結膜が黒い場合はどうなるのか、という実験なのです。」
「わかった。お前が大黒天だな。手を出してみろ。」
大黒天は無言で掌を差し出したがどうもオドオドしているように見える。
「大黒天さん、大丈夫ですよ。安心なさってください。」
「は、はい。」
さっきと同じ手順で傷をつける。数十秒、間を置いて変化は訪れた。
「大黒天さん、痛みは?」
「掌以外はなんとも…。」
「そうですか、そうですか。」
大黒天が辺りを見回すと、カレットたちは目を見開いて驚いていた。
「大黒天さん、鏡見て…。」
アイがキッチンに置いてある鏡を指さして言った。
鏡を覗くと、普通の人間の顔があった。結膜は綺麗な白。頬の爪痕のような痣もない。
「大黒天さん!成功ですよ!!」
あまりに嬉しいのか、アダムは大黒天の背中に抱きついた。
「なるほど…あなたが元に戻れたということは、人間の境界は人を食べたかどうか、という部分になっていくんですね。」
「そうですね。」
「大黒天さん、大黒天さん。次は私も見てみてくださいまし。ヒビの上に立ってみましょう!」
アダムがはしゃぐ。大黒天の手を引いて外に出て行った。人間に戻ってもその身体能力に変化はなさそうだ。
「すごい!ヒビの上に立っても何も起きませんよ!本当に人間になったんですね…!」
アダムが目元を摩った。
それからしばらくして、大黒天はアダムに問いかけた。
「そういえば、どうやって帝釈天を退けたのですか?」
「あぁ〜…。…簡単な嘘ですよ。私が管理している遊郭街を任せてきたのです。私がいない約10年の間ちゃんと守りきることができれば、お付き合いなりなんなり、どんなことでも叶えてあげましょうと。」
「…結構残酷ですね。」
「うふふ。大人って狡いんですよ。」
「奴のことは俺も嫌いですけど、そこまで酷いことはしませんよ…。」
「昔、アイちゃんをいじめたんですよ。許せませんよ。」
「それ、450年前にほんの1回やっただけですよね…。」
「だからといって、許す理由にはなりませんよ。時効も何もあるものですか。謝ったとしても憎悪は消えませんよ。」
「まぁそうですけどね。でもちょっと不憫ですね。」
「彼が本当に出会うべき相手は私じゃなくて増長天ですよ。私が仏なわけないでしょうに。増長天のことはあまり好きではないですけど、仏と言うなら彼の方だと思いますよ。素直で優しくて都合のいい子と言いますか。」
「あはは…。」
普段はいい人なのに、どうしてこの2人の話になるとトゲトゲした人になってしまうのか。大黒天は少しだけ呆れた。
「アイちゃん、久しぶりの私の手料理ですよ〜。」
「やったぁ!!つゆ、俺のパパの料理は美味しいんだぞ。」
「ほんとに?たのしみ〜!」
この日は全員でイオタの家に泊まることにした。狭い家だがまぁなんとかなるだろうとイオタは言っていた。
しかし、いかんせん狭い。カレットとクセロと直視は固まって座っていた。
「ここまで狭いと苦しいな。」
「イオタさんなんてこの状況で寝てるよ。ご飯だし起こしてあげようか。」
「お前今真ん中だろ、動くなよ。俺がいく。」
「ありがとうね、直視。」
「おう。」
直視はイオタのそばに行くと、何かに許可を取るような仕草をしてからイオタを揺り起こした。
「んぁ…なんだ、飯か?」
「そうですよー。起きてください。」
「ありがとな。」
横たわっていたイオタが上半身を起こす。少しボーッとしているようだ。
「イオタさん、イオタさんの近くにはほんとにたくさん幽霊がいますね。めちゃくちゃ怖いです。」
「…は?」
目を見開いて驚いた。
「俺、幽霊が見えるんですよ。言ってませんでしたっけ?」
「…初耳だと思う。」
「そうですか。」
「じゃ、じゃあ…」
その声はアダムの呼び掛けによってかき消された。
アダムと大黒天はクセロ許可を貰ってケオが住んでいた家に住むことにした。かなり散らかったままの部屋を片付けることが条件である。アイとつゆはイオタのもとに留まることにした。そう宣言した時、アダムは泣いたフリをしていた。




