極楽浄土
あの意地悪婆が、ああも変わるとはねぇ。
口を開けば皮肉と屁理屈。
息子夫婦に愛想尽かされ、近所からも鼻つまみ。
ヨボヨボの野良猫だけが話し相手でよ。
マルだっけ?よく餌をやってたな。
ああ、あの猫が生きてた頃はまだマシだった。
猫が死んでからは手がつけられんくなってよ。
だけど、ホレ、去年の正月。
あの婆、古い家で独り侘しく餅食って、喉に詰まらせて死にかけたんだ。
あれから変わったんだよな。
なんでも鬼に会ったらしいぞ。
どこで?
そりゃ三途の川さ。
んで、その鬼に、
今からでも遅くない、引き返してご近所さんや息子さんに謝っていらっしゃい。
ちゃんと許してもらえたら極楽へお連れします。
って、言われたんだと。
鬼の説教が効いたのか、憑き物が落ちたみてぇに人が変わってなぁ。
私らにも謝ってくれたし、息子家族とも仲直りしてよ。
今年の正月は息子達が来てくれたって、そりゃ嬉しそうに話してたっけ。
なのによぉ。
あれから一年で死んじまうなんてなぁ。
しかも正月で余った餅食って、また喉に詰まらしちまったんだろう?
笑っちまうよなぁ。
けどよ、鬼との約束は守ったんだ。
きっと今頃は極楽だろうよ。
ああ、きっとそうに違いねぇ。
◆
はるか遠い後方から、婆の死を悲しむ声が聞こえてくる。
ここはこの世とあの世を分ける三途の川。
この世側のほとりには婆が、あの世側のほとりには一年前のあの鬼が。
川を挟んで二人は向かい合っていた。
『おおい、おおい、あんたの言う通り、ちゃんと向こうでケリつけてきたよ。近所の連中にも、息子達にも、今までの意地悪を謝って仲直りしてきたんだ。聞こえるかい、私が死んで悲しむ皆の声が』
婆はそう大声で叫んだ。
『聞こえますよ、皆さん心から悲しんでいらっしゃる。ここ三途の川には正直な言葉しか届きません。どんなに取り繕っても嘘の言葉は届かないのです』
鬼の言葉に婆が後ろを振り向けば、いまだ皆の泣き声が聞こえてくる。
婆はその声にきまり悪そうに前を向くと、
『そうかい……私は極楽に行きたい下心で謝ったのに、騙したみたいで心苦しいねぇ』
『いえいえ、最初は下心だったのかもしれません。ですが仲直りをして一番嬉しかったのはあなたなのではないですか?』
『ああ、そうかもしれないねぇ。あれから年中ジジババ共とお茶を飲んだし、嫁に孫の話を聞かせてもらった、それに今年の正月は息子達が来てくれて……まぁ、楽しい一年だったよ』
『あなたが勇気を出して謝った事で、ささやかながら沢山の人達が幸せになれたのです。意固地にならずよく頑張りました。さて、それでは約束通り極楽に案内します。さあ、川を渡っていらっしゃい。あなたはもうこちら側の住人です』
鬼がそう言うと川の水がすぅっと引いた。
優しい鬼の手招きに導かれ、婆はゆっくりと川を渡る。
一歩、また一歩と踏み出すたびに婆の老いた身体が若返り、向こう岸に着いた頃にはすっかり娘時代へと姿を変えた。
そして渡り切ったそこに見たものは果てなく続く花畑。
『わ、若返った!すごいねぇ、身体が軽いよ。膝も腰も痛くない!』
『それは良かった。さて、ここがあなたにとっての極楽です。花がとてもきれいでしょう?ここにはあなた以外に人はいません。元々人付き合いが苦手なあなただ、かえって気楽と思いまして。なに、退屈はしませんよ。だってここには、』
と、言いかけたその時、
ニャニャーン!
天高らかに響く可愛らしい鳴き声が鬼の言葉を遮った。
『おや、私よりマルさんに聞いた方が良さそうですねぇ』
そう言って笑う先には金色の瞳が美しい、若くしなやかな黒猫の姿があった。
『マル?あの黒猫が?確かにマルに似てるけど……でも違うよ、マルは十年前に死んだんだ。それにあの仔は私と一緒でヨボヨボの年寄りで、あんなに若くは……』
そこまで言ってハッとする。
そうだ、ここは死者の国。
三途の川を渡った者は若返る。
現にこうして自分だって……なら、あの猫はマルなのか?
生前、嫌われ者の婆に寄り添ってくれた黒い猫。
あの仔がいてどんなに救われた事か。
『マル、なのかい?』
婆はおずおずと黒猫の名を呼んだ。
マルは賢い仔で呼べば必ず返事をしてくれた。
あの猫が本当にマルならば……
ニャッ!
黒猫が短く鳴いた。
瞬間、力強く大地を蹴ると婆に向かって全速力で駆けだした。
ニャッニャッニャッニャッニャッ!
『おまえ本物のマルか!なんてこった!こんな所で逢えるなんて!マル!こっちにおいで!』
ニャニャニャッ!
もちろんさ、とでも答えたのか。
弾丸と化したマルはひた走る。
そして婆まで1mを切った所で、切り株を踏み台に大きく飛んだ。
ニャーン!
宙を舞うマルの瞳は爛々と輝いていた。
四肢を大の字にぱぁっと広げ、髭は完全に前を向いている。
婆は思い出していた。
この仔は老猫のくせに甘えん坊で抱っこが大好きだった。
だが困った事にジャンプはいつでも目見当。
無茶な毛玉は飛びさえすれば、あとは婆が受け止めてくれると心の底から信じているのだ。
『マルゥッ!』
ぼふっ!
マルが死んで十年経つが身体が動きを覚えていたようで……間一髪で受け止める事が出来た。
『危なかった……若返ってて良かったよ、婆のままじゃ落としてた。はー、まったく。マルは相変わらず無茶するねぇ』
うにゃーん、なにがぁ?といった顔で婆を見上げる黒猫は喉を鳴らしてご満悦だ。
『マル、おまえずいぶん元気になったねぇ。ここには美味しいごはんがあるのかい?昔と違ってふっくらツヤツヤ。年取って病気だったあの頃の、ガリガリでヨボヨボだったのが嘘みたいだ。嬉しいねぇ、嬉しいねぇ』
あまりの嬉しさに、マルの頭に熱い接吻を降らす婆。
その気持ちに応えるべく、婆の下顎に親愛の頭突きを食らわすマル。
『イテ!イテテ!マル!おまえ!わかったから!頭突き!イタイ!あはは!こら、』
ニャニャーン!
そんな二人に目を細めていた鬼だったが、婆に話しておきたい事があると語り始めたのはマルの事だった。
『マルさんはね、あなたがここに来るのを十年も待っていたんですよ』
『マルが私を……?十年って事は、マルは死んでからずっとここで?』
『はい。あなたの事が大好きだったのでしょう。生まれかわる事を拒否してずっと一匹で待っていたのです』
『マル、おまえ……』
『あなたが一度目に死んだ時、マルさんはやっとあなたに逢えると大喜びでした。ですが残念な事にあなたには極楽行きの資格がなかった……それを知ったマルさんの悲しみよういったら……可哀そうで見ていられませんでした。そこで私は、あなたに一年間の機会を差し上げたのです』
そうだったのか……
そう小さく呟いた婆は、こみ上げる愛しさにたまらずマルを抱き締めた。
生きていた時も、死んでからも、私を救うのはいつだってマルだった。
この仔がいれば私の心は満たされる。
そんなマルとここで一緒に暮らせるなんて。
ああ、ここは私にとって最高の極楽浄土じゃないか。
『マル、ありがとう、だいすきだ。これから二人で、のんびり楽しく暮らそうなぁ』
ニャニャーン!
嬉しそうなマルの返事が、極楽浄土の天空高く元気に走り抜けていった。