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銀行家の娘とエリートの徒然日記  作者: 夕立
Vatican編 手を携えて
69/83

69話 交換条件

 5月初旬の指定日。

 私とベリザリオはメディチを訪れた。出迎えてくれたお母さんは満面の笑みを浮かべている。


「いらっしゃい。ごめんなさいね、こんな日に来てもらっちゃって」

「こちらこそ、お忙しい中お時間をいただきありがとうございます。これ、ヴァチカンで最近話題になっているチーズです。ワインのあてにいいかと思って」


 手土産を渡すベリザリオも笑顔なのだけど、普段よりよそよそしい。特殊な状況だから緊張しているのだと思う。

 お母さんもなのだろうけれど。行動がいつもより大振りで声が大きいから。


「お父さんは?」


 私は周囲を見回した。見える範囲にお父さんはいない。この期に及んでごねているのだろうか。気になって尋ねた。


「応接室で待ってるわよ。動きたくないんですって。出迎えくらいしてあげればいいのにねぇ」


 困ったようにお母さんは溜め息をつく。そのまま奥へ歩きだした。手土産は途中ですれ違ったお手伝いさんに渡す。


 案内された応接室の上座にお父さんは座っていた。それも無表情で。

 怒っていると思っていたから意外だった。

 ひょっとして、感情を悟らせないために表情を殺しているのだろうか。


 感情を悟らせないための表情といえば、私の隣のベリザリオも似たようなものだけれど。こちらは作り物の笑顔を崩さない。

 男性2人の間に流れる空気は明らかに不穏だ。昔みたいに勝負でも始めるつもりだろうか。


 ……。違う気がした。それを回避するための無表情と笑顔なのかも。


「いつまでも立っていないで座って」


 お母さんが席を進めてくれる。お手伝いさんもやってきて珈琲とお茶菓子を置いて出ていった。


 4人とも席についた。お茶も出ている。話を始める準備はできた。

 そう思うのだけれど、お父さんは話しださない。お母さんがお父さんの脇をつついてもだんまりだ。


「そういえばお話があるんですって?」


 痺れを切らしたのか、お母さんが場を進めだした。こちらはベリザリオが口を開く。


「実は私、メディチの方々に嘘をついている状態の事が1つありまして」

「嘘?」


 お母さんが小首をかしげる。お父さんは片眉を上げた。


「私の本名はベリザリオ・ジョルジョ・デッラ・ローヴェレと申します。ヴィドーは母方の姓なので、別段名乗れないこともありませんが。司祭研修中はその名前で過ごしていましたし。研修が終わってからも訂正をしなかったことを、まず、お詫びいたします」


 ベリザリオが静かに頭を下げた。お母さんはぽかんとしている。お父さんは無表情でベリザリオを見下ろしたままだ。

 一拍置いてベリザリオの言葉は続く。


「その上で、本日はお願いがあって参りました。アウローラさんとの結婚をお許しください」

「許さん」


 間髪入れずお父さんが言い放った。


「あなた!」


 お母さんがお父さんを睨む。私もムッとした。ベリザリオは頭を上げる。真面目な表情になっていた。

 お父さんもベリザリオも、私とお母さんが横から何を言っても視線をそらさない。目をそらした方が負けとでも言いたげに見つめあっている。

 口はお父さんが先に開いた。


「私がお前との結婚を反対する理由はアウローラから聞いているか?」

「はい」

「諦めるつもりはないのか」

「諦めるつもりなら、はなから挨拶には伺いません。彼女も、枢機卿のポストも得るつもりですから」


 背筋を伸ばしてベリザリオが言った。大きな声ではなかったのだけれど、不思議な力強さがある。

 それに、なんだろう。

 普段の彼からは感じない威圧のようなものを感じる。あと、傲慢さと絶対的な自信を混ぜたような独特の雰囲気。


 普段、私には見せない顔だ。

 その姿を知れたのは良かったけれど、私としては早く決着をつけてもらいたい。圧がこちらにも漏れてきているから。慣れないプレッシャーなものだから、私なんて横にいるだけでも疲れてしまう。

 お母さんの身体がお父さんから離れるように傾いているのも、私と同じような理由だろう。


 お父さんの視線が私に向いた。一瞬だけ目が合った次の瞬間には、お父さんの口から溜め息が漏れている。

 同時に、緊張感が一気に緩んだ。


「どうせ、私1人が反対しても、お前達は結婚するのだろう?」

「可能な限り全員に祝福されたいとは思っています。無理な結婚をして、実家との軋轢あつれきができて苦しむのはお嬢さんですから」


 ベリザリオも穏やかな表情と雰囲気になる。

 場の空気がようやく緩んで、私とお母さんの口から吐息が漏れた。

 お父さんの手が珈琲に伸びる。自然と他全員の手も珈琲に伸びた。それぞれに珈琲休憩に入ってしまって、溜め息が漏れるのも仕方ない。


「1つ約束しなさい」


 ベリザリオを見ながらお父さんがぽつりと言った。


「要件によります。何でしょう?」

「お前が40歳になるまでだ。それまでは待とう。枢機卿になりなさい。早い者はそれまでに芽が出てるからな」


 だが――、と、お父さんの言葉は続く。


「無理だったら教皇庁は辞めてもらう。それでうちで働きなさい。給料は落ちるだろうが、生活は穏やかになるだろう。この条件が飲めるなら結婚を認める」


 部屋に沈黙が落ちた。

 少し経ったら、言われたことの意味を私の頭が理解した。私は机をばんと叩きながら立ち上がって前のめりになる。


「ちょっとお父さん!?」

「いい。飲みましょう。その条件」


 そんな私の前にベリザリオが手をかざす。顔には不敵な笑みが浮かんでいた。ベリザリオ的には自信があるのだろうけれど、安請け合いしていい問題だとは思えない。

 そんな私の気持ちなんて放置して話は進む。


「嘘ではないな?」

「家名に誓って」


 男性2人の間では契約が結ばれてしまったようだった。つん、と、私はベリザリオの腕をつつく。


「いいの? 夢を捨てちゃうんだよ?」

「どうせ私の欲しいポストはここ3年が勝負だ。機会を逃せば取れる確率は大幅に下がる。いっそ教皇庁を去った方があと腐れもない。再就職先まで用意してくれたのは、コジモさんの優しさだよ」

「エルメーテとの約束は?」

「無理だった、スマン! とでも謝るか」

「いいかげん」


 潔いというか適当すぎて、私は呆れた。なのにベリザリオは笑っている。


「いいんだよ。失敗した時の事はまだ考えなくて。この事案に関しては、結果が出るまでひたすらに成功のために頭を使う方がいい。退路を用意すると、敗北を呼び寄せかねないし」


 ベリザリオが握手を求めるように片手を上げた。


「共に夢を追いかけてくれるんだろう?」


 言われて私はまばたきする。

 ああ、そうだった。ベリザリオのもとから私が去る道も彼が示した時、一緒に頑張ろうと提案したのは私だった。何気なく言った一言を彼が覚えていてくれたのが少し嬉しい。


「もちろん」


 私は笑顔で彼の手をとった。

 お父さんがわざとらしく咳払いしたから手を離す。「あなた達は本当に仲がいいわね」とお母さんはころころと笑っていた。


 お父さんはまだ少し渋面だけど、取りつく島もない状態からは脱したみたい。なんとか穏便に結婚の許しがもらえそうで良かった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 会う前は「またこの親父か」といった悪いイメージが強いけど、ちゃんと話せば譲歩と見せ掛けて、建設的な提案までしてくれる親父さん。素敵だと思います。 娘が心配なのと、一緒に働きたい気持ちもある…
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