69話 交換条件
5月初旬の指定日。
私とベリザリオはメディチを訪れた。出迎えてくれたお母さんは満面の笑みを浮かべている。
「いらっしゃい。ごめんなさいね、こんな日に来てもらっちゃって」
「こちらこそ、お忙しい中お時間をいただきありがとうございます。これ、ヴァチカンで最近話題になっているチーズです。ワインのあてにいいかと思って」
手土産を渡すベリザリオも笑顔なのだけど、普段よりよそよそしい。特殊な状況だから緊張しているのだと思う。
お母さんもなのだろうけれど。行動がいつもより大振りで声が大きいから。
「お父さんは?」
私は周囲を見回した。見える範囲にお父さんはいない。この期に及んでごねているのだろうか。気になって尋ねた。
「応接室で待ってるわよ。動きたくないんですって。出迎えくらいしてあげればいいのにねぇ」
困ったようにお母さんは溜め息をつく。そのまま奥へ歩きだした。手土産は途中ですれ違ったお手伝いさんに渡す。
案内された応接室の上座にお父さんは座っていた。それも無表情で。
怒っていると思っていたから意外だった。
ひょっとして、感情を悟らせないために表情を殺しているのだろうか。
感情を悟らせないための表情といえば、私の隣のベリザリオも似たようなものだけれど。こちらは作り物の笑顔を崩さない。
男性2人の間に流れる空気は明らかに不穏だ。昔みたいに勝負でも始めるつもりだろうか。
……。違う気がした。それを回避するための無表情と笑顔なのかも。
「いつまでも立っていないで座って」
お母さんが席を進めてくれる。お手伝いさんもやってきて珈琲とお茶菓子を置いて出ていった。
4人とも席についた。お茶も出ている。話を始める準備はできた。
そう思うのだけれど、お父さんは話しださない。お母さんがお父さんの脇をつついてもだんまりだ。
「そういえばお話があるんですって?」
痺れを切らしたのか、お母さんが場を進めだした。こちらはベリザリオが口を開く。
「実は私、メディチの方々に嘘をついている状態の事が1つありまして」
「嘘?」
お母さんが小首をかしげる。お父さんは片眉を上げた。
「私の本名はベリザリオ・ジョルジョ・デッラ・ローヴェレと申します。ヴィドーは母方の姓なので、別段名乗れないこともありませんが。司祭研修中はその名前で過ごしていましたし。研修が終わってからも訂正をしなかったことを、まず、お詫びいたします」
ベリザリオが静かに頭を下げた。お母さんはぽかんとしている。お父さんは無表情でベリザリオを見下ろしたままだ。
一拍置いてベリザリオの言葉は続く。
「その上で、本日はお願いがあって参りました。アウローラさんとの結婚をお許しください」
「許さん」
間髪入れずお父さんが言い放った。
「あなた!」
お母さんがお父さんを睨む。私もムッとした。ベリザリオは頭を上げる。真面目な表情になっていた。
お父さんもベリザリオも、私とお母さんが横から何を言っても視線をそらさない。目をそらした方が負けとでも言いたげに見つめあっている。
口はお父さんが先に開いた。
「私がお前との結婚を反対する理由はアウローラから聞いているか?」
「はい」
「諦めるつもりはないのか」
「諦めるつもりなら、はなから挨拶には伺いません。彼女も、枢機卿のポストも得るつもりですから」
背筋を伸ばしてベリザリオが言った。大きな声ではなかったのだけれど、不思議な力強さがある。
それに、なんだろう。
普段の彼からは感じない威圧のようなものを感じる。あと、傲慢さと絶対的な自信を混ぜたような独特の雰囲気。
普段、私には見せない顔だ。
その姿を知れたのは良かったけれど、私としては早く決着をつけてもらいたい。圧がこちらにも漏れてきているから。慣れないプレッシャーなものだから、私なんて横にいるだけでも疲れてしまう。
お母さんの身体がお父さんから離れるように傾いているのも、私と同じような理由だろう。
お父さんの視線が私に向いた。一瞬だけ目が合った次の瞬間には、お父さんの口から溜め息が漏れている。
同時に、緊張感が一気に緩んだ。
「どうせ、私1人が反対しても、お前達は結婚するのだろう?」
「可能な限り全員に祝福されたいとは思っています。無理な結婚をして、実家との軋轢ができて苦しむのはお嬢さんですから」
ベリザリオも穏やかな表情と雰囲気になる。
場の空気がようやく緩んで、私とお母さんの口から吐息が漏れた。
お父さんの手が珈琲に伸びる。自然と他全員の手も珈琲に伸びた。それぞれに珈琲休憩に入ってしまって、溜め息が漏れるのも仕方ない。
「1つ約束しなさい」
ベリザリオを見ながらお父さんがぽつりと言った。
「要件によります。何でしょう?」
「お前が40歳になるまでだ。それまでは待とう。枢機卿になりなさい。早い者はそれまでに芽が出てるからな」
だが――、と、お父さんの言葉は続く。
「無理だったら教皇庁は辞めてもらう。それでうちで働きなさい。給料は落ちるだろうが、生活は穏やかになるだろう。この条件が飲めるなら結婚を認める」
部屋に沈黙が落ちた。
少し経ったら、言われたことの意味を私の頭が理解した。私は机をばんと叩きながら立ち上がって前のめりになる。
「ちょっとお父さん!?」
「いい。飲みましょう。その条件」
そんな私の前にベリザリオが手をかざす。顔には不敵な笑みが浮かんでいた。ベリザリオ的には自信があるのだろうけれど、安請け合いしていい問題だとは思えない。
そんな私の気持ちなんて放置して話は進む。
「嘘ではないな?」
「家名に誓って」
男性2人の間では契約が結ばれてしまったようだった。つん、と、私はベリザリオの腕をつつく。
「いいの? 夢を捨てちゃうんだよ?」
「どうせ私の欲しいポストはここ3年が勝負だ。機会を逃せば取れる確率は大幅に下がる。いっそ教皇庁を去った方があと腐れもない。再就職先まで用意してくれたのは、コジモさんの優しさだよ」
「エルメーテとの約束は?」
「無理だった、スマン! とでも謝るか」
「いいかげん」
潔いというか適当すぎて、私は呆れた。なのにベリザリオは笑っている。
「いいんだよ。失敗した時の事はまだ考えなくて。この事案に関しては、結果が出るまでひたすらに成功のために頭を使う方がいい。退路を用意すると、敗北を呼び寄せかねないし」
ベリザリオが握手を求めるように片手を上げた。
「共に夢を追いかけてくれるんだろう?」
言われて私はまばたきする。
ああ、そうだった。ベリザリオのもとから私が去る道も彼が示した時、一緒に頑張ろうと提案したのは私だった。何気なく言った一言を彼が覚えていてくれたのが少し嬉しい。
「もちろん」
私は笑顔で彼の手をとった。
お父さんがわざとらしく咳払いしたから手を離す。「あなた達は本当に仲がいいわね」とお母さんはころころと笑っていた。
お父さんはまだ少し渋面だけど、取りつく島もない状態からは脱したみたい。なんとか穏便に結婚の許しがもらえそうで良かった。




