62話 エリートの在り方
お昼過ぎに実家に帰り着いたらお母さんしかいなかった。そんな彼女も平日だからか首をかしげている。
「アウローラどうしたの? 今日火曜よね? あ、わかった。この前忘れ物して帰ったんでしょ。言ってくれれば送ってあげたのに」
「ううん。ちょっと骨休み」
「うん?」
「今週いっぱいくらいこっちにいると思うから、お母さんのご飯食べさせてよ」
荷物をそこら辺に置いた私はお母さんの側に寄る。お母さんがははーんという顔になった。
「なぁに。ベリザリオさんと喧嘩?」
「喧嘩なんてしてないよ」
むしろ喧嘩すらできていないと言うか。大喧嘩にでもなっている方が若干マシな気がする。お互いに言うだけ言った後はスッキリできるわけだし。
まぁ、別段気持ちをわかってもらいたいわけではない。
どちらかというと、詳細を話さないで済む方が、お母さんの中でのベリザリオの評価が下がらなくて良い気までする。
幸い、お母さんは私の発言を全く信じていない様子だし。この場合、都合がよいとカウントするのだろうか。
「そういうことにしておいてあげましょう。それで、ご飯食べてきたの?」
「買ってきたよ。家で食べようと思って。一応お母さんの分も買ってきたけど、もう食べたよね?」
私は手に持ったままの袋を軽く持ち上げる。お母さんがそわそわと中を見たがったので、フォカッチャのサンドイッチを軽く見せた。
お母さんの目が輝く。食べるらしい。「珈琲淹れるわね」と台所に引っ込んだので、私もそちらに行った。
ダイニング机にお皿を出してフォカッチャを置いておく。珈琲もすぐに出てきた。食べながら私は尋ねる。
「お父さん、仕事ばっかりで家にほとんど帰ってこないことってあった?」
「ベリザリオさんが帰ってこないの?」
「いいから」
「はいはい。まぁ、たまーにあったかしらね。損切りの判断が難しくて資料集めに奔走している時とか、交渉が難航してる時とか」
「それは仕方ないね」
「それ以外の時は仕事を持ち帰ってきてる事が多いわね。ほら、それなら、仕事しながらあなた達の相手もできるからって」
お母さんが笑顔を私に向けてくる。私は目をぱちぱちさせた。
「そんな事してたの? 全然気付かなかった」
「まぁ、あなたはほとんどうちにいなかったものね。可愛がれば可愛がるほど家にいなくなるものだから、お父さんしょんぼりよ」
くすくすとお母さんは笑う。お父さんがしょんぼりのくだりは言わないであげた方が良かったのではないだろうか。今さらだけど。
けれど、言われてみれば確かに私は家にいない。9歳から18歳まではル・ロゼで寄宿生活だし、大学卒業後はベリザリオと同棲だ。寄宿生活も一緒に暮らしているとカウントするなら、ベリザリオと暮らしている期間が地味に最も長い。
これだけ一緒にいるのに、共に過ごす時間がもっと欲しいと思うのは、わがままなのだろうか。
「お父さんに家で仕事は止めてって言ったことある?」
「ないわよ。だって、銀行が潰れちゃったら困るじゃない? 私達だけじゃなくて従業員やご家族もね。給料貰ってる分だけ上は働かないと。じゃないと地位も維持できないし。それが上役の義務でステータスでしょう?」
また出た。社会的に上位にいる人間の義務。ル・ロゼにいた頃から高貴なる者の義務って散々言われてきたけど。エリート街道なんて早々に捨てて(というか視野に無かった)、のんきなノンエリート生活を送っていた私はすっかり忘れていた。
あの言葉、こういう形できいてくるんだ。
夜になったらお父さんとお姉ちゃんが帰ってきた。
すぐに夕食になる。
お姉ちゃんからもベリザリオと喧嘩したんでしょとかいう突っ込みが飛んできた。けれど、その話題は今は気分ではない。食事時の話題とも思えないし。適当に流して話題を変える。
「アウローラ。後で私の書斎に来なさい」
食べ終わりぎわにお父さんが言ってきた。
食べ終わった私は言われた通りに書斎に足を運ぶ。お父さんは書き物机に向かって書類をめくっていた。持ち帰った仕事の処理というやつだろうか。
椅子に掛けなさいと言われたので座って待つ。
何枚かの書類を持ったお父さんもすぐに来て私の前に座った。机に手を置いて軽く体重をかけるような姿勢になって、私に視線を向けてくる。
「お前達は……。いや、ベリザリオは私に隠し事をしていないか?」
「なんで?」
表情を動かさないように注意して私は返した。隠しているというか、誤った情報のままになっている事柄があったから。
けれど、真実を明かすのは私の役目ではないと思う。だから、今は潔白を演じる。
机の上にお父さんが書類を放り投げた。
『身辺調査報告書』
そんな文字が見える。
「少し前だが、仕事でヴァチカンに行ってな。ついでにベリザリオの顔でも見て行こうと教皇庁に寄った。それで取り次ぎを頼んだんだが、ベリザリオ・ジョルジョ・ヴィドーなどという庁員はいないと言われた。帰りがけに、枢機卿の乗る車を運転するベリザリオの姿は見たんだがな」
「アポ無しだと取り次いでくれないんじゃない? 教会でも取り次ぎ不可だったし」
「私も最初はそれを考えた。だが、将来はお前の婿になるかもしれない男だ。この機会に身辺調査をしておこうと思ってな」
お父さんがあごをしゃくった。報告書を見ろということだろうか。私が書類に手を伸ばしても制止はかからない。正解のようだ。
表題の書かれた紙をめくった。
1ページ目にはル・ロゼの卒業生名簿の一部が載せられている。ベリザリオの名前があった。もちろん本名で、ご丁寧に彼の名前は蛍光ペンで塗られている。
2ページ目に載っているのは最近隠し撮りしたであろう彼の写真と履歴。
3ページ目以降は個人情報が記されていた。住所欄にはヴァチカンでの私達のアパートの住所が、同居人欄には私の名が書かれている。
あとは日常の行動パターンとか、調査期間中会談を持った人達とか、教皇庁での評判とか。
評判はすこぶる良好らしい。特に女性受けがいいという部分は引っかかるけれど、怒ってはいけない。格好良くて細やかに気を利かせてくれる彼がモテるのは昔からのことだ。
けれど言葉で読むとムカつくので、この項目は見なかったことにする。
デッラ・ローヴェレの本宅や化学研究所に出入りがあることも記されている。けれど内容が薄い。選帝侯本家に近付くほどガードが固いのかもしれない。
読み終えた私は顔をあげた。
「これがどうしたの?」
「驚かないんだな。お前も全て知っていて私達には黙っていたわけか」
「全部は知らなかったけど。それにね、ベリザリオ嘘ついてるわけじゃないよ。司祭研修でフィレンツェにいた時は、教皇庁の方針でヴィドー姓になっていただけだし。今もそのままなのは、タイミングが無いのと必要性を感じていないだけだと思うし」
見終わった書類をお父さんに返した。お父さんは返ってきたばかりの書類をめくって顔をしかめている。
「ル・ロゼを出たくせにエリート街道は捨てた神父かと思っていたら、教皇庁のキャリアとはな。それに順調に出世しているようじゃないか」
「うん、頑張ってるよ」
自然と私の顔に笑みが浮かぶ。
お父さんの顔がますます渋面になった。視線がまた書類に落ちて、しばらくしたら大きな溜め息がこぼれる。
「あの男は駄目だ。止めなさい」
「何を?」
いまいちピンとこなくて私は首をかしげた。お父さんは厳しい目で私を見てくる。
「お前の結婚相手にベリザリオは許さないと言っている」




