61話 隙間の埋め方
3、4カ月もしたら根回しがほどほど終わったのか、ベリザリオが接待に行く頻度が落ちてきた。
それで早く帰ってくる日が増えるのかと思いきや、そうならないのが彼だ。
接待が減った分だけ研究所に行く日が増えた。手間がかかる実験操作が増えたようで、帰りが0時過ぎも珍しくない。
今晩も0時を過ぎてから帰ってきた。そんな彼に私はおかえりのキスをする。
「おかえり」
「ただいま。遅くなってすまないね。いいね、眠い時は先に寝ているんだよ?」
ネクタイを外しながらベリザリオが言った。そのまま彼はシャワー室に行く。その間に私はおかずを温め直しておいた。
こざっぱりしたベリザリオがシャワー室から出てきて食卓につく。彼の前の席に私も座った。
「実験の調子どう?」
「まずまずかな。今のところ大きな問題も出ていないし」
「そうなんだ」
軽く相槌を打ってベリザリオが食べる様子を眺める。
特に喋りもしないでそんな事をしていたからだろうか。「何かあった?」とベリザリオが尋ねてきた。
遠慮がちに私は言ってみる。
「その実験って、今の時期しないと駄目なもの? 教皇庁での出世がひと段落してからでもよくない?」
「急にどうした?」
「ううん。ただね、実験はもうちょっと落ち着いてからにすれば、ベリザリオがゆっくり休む時間を取れるんじゃないかって」
「ああ、そういうこと」
ベリザリオがカトラリーを置いた。机に肘をついてゆったりとした姿勢になる。
「私の今の実験は、将来的に難病の遺伝子治療につながる予定だ。だが、実用化までに壁も多い。私がやっている部分の技術が確立されても、そのあとディアーナに引き継いでの治験まである。それこそ年単位でデータを積み重ねないとならない部分だ」
だからというわけではないけれど、なるべく早くディアーナが手を出せる段階まで持っていってあげたいらしい。
今この時にも、既存の技術では治療できぬ遺伝病を持って産まれてくる子はいるだろう。そういった人達に救いの手を差し伸べられればいい、と彼は言う。
エリートたるもの、境遇によって与えられた知識や技能は社会に還元すべきだと。
「そんな答えでいい?」
穏やかな顔をベリザリオが向けてくる。
私はうなずくしかなかった。彼の答えはどこまでも正論で、ケチのつけようが無かったから。
先の事や社会より、私は今とベリザリオ自身を大切にして欲しいのだけれど。そんな希望なんて、彼の大きな話の前では霞んでしまう。
ほどなくして、ベリザリオの研究所への滞在時間が延び始める。
深夜3時くらいに帰ってきておきながら、研究所に寄って教皇庁に出勤するために6時前には出ていったり、研究所に泊まりで教皇庁と行き来する日が出てきた。
あれだけ続けていたジム通いまで気付けば無くなっていた。
深夜に動くベリザリオとはもちろん会えない。
私達の生活パターンは完全にずれ込んでしまって、まともな会話がない日が続く。
朝。起きた私は朝食用の珈琲を淹れ始めた。
夕べ、ベリザリオは帰ってきたらしい。作り置きしておいたご飯が無くなって食器が洗われているから。
それに、ダイニング机の上に朝食用のパンが用意されて布巾がかけられている。
ベリザリオが用意していってくれたのだろう。
私が起きてくる直前くらいに出かける時、彼、私の分の朝ご飯まで用意していってくれるから。
それにしても、帰ってきたのに全く気付かなかった。彼がベッドに入ってきた感覚が無かったからだと思うのだけれど。
夜中にちょっと帰ってきただけの時、彼はベッドに寝ない。ソファで毛布に包まっているのを夜中にトイレに起きた時に目撃した。
私を起こさないためというのはわかる。
けれど、それでは身体が休まらないだろう。私のことは気にせずベッドで寝ればいいのに。
こういう事が続くと、ベリザリオの仕事が日勤だけになるからと、ヴァチカンに引っ越したのを機にベッドを1つにしたのが失敗だったと思えてくる。
思いだしたら溜め息が出た。下を向いた拍子に、机に置かれている見慣れないカードと開かれた連絡帳が目に入る。
リアルタイムで会えないから、連絡帳に言いたいことを書いておくのが私達の会話になった。
といっても、別段特別なことは書かれない。
ベリザリオからはだいたい毎日、今日も美味しかったご馳走様。家事をさせっ放しですまない。愛してるといったメッセージが残されている。今日はそれにもう一言。
『アウローラ用のカードを作っておいた。自由に使ってくれ』
と書かれていた。
机の上の白金色のカードは私名義になっている。仕事の癖で確認してしまったカード番号から判断すると家族カードだろうか。ベリザリオが用意したのだから、彼の口座に紐付いているのだろう。
身をあけられない彼にとって、今はこれが精一杯の愛情表現なのだろうけれど。こんなものより1日デートしてくれる方がいいと言ったら彼は困るだろうか。
朝食の前に日課のピルを飲もうとしてふと手を止めた。飲む必要があるのかと疑問が浮かんだから。
夜の触れ合いも長らくご無沙汰だ。
ベリザリオの様子を見ている感じ、しばらくそれは変わらないだろう。
「子供ができたら、ベリザリオ、もっと家にいてくれるかな」
つぶやきが漏れた。
すぐに自分の口走った事に気付いて私は首を横に振る。馬鹿な考えを振り払って薬を飲んだ。
今のベリザリオに子供は負担にしかならない。私のわがままで余計な荷物を増やしては駄目だ。子供は結婚してからという一線は守ろうとしているみたいだし。
「駄目だ。私、このままだと絶対何かしでかす」
大きな溜め息をついた私は頭をかかえた。
ベリザリオのことは変わらず愛しているけれど、心に巣くった寂しさという穴は日々拡大していっている。今の状態で誰かに優しくされたり必要とされたら、その人についていってしまいそうだ。
起きたてで脳に栄養がいっていないからこんな考えばかりしてしまうのかもしれない。
とりあえずご飯を食べた。
仕事に行くために身だしなみを整えて、出かけるまでの残り時間をソファでゆっくりする。
しばらく考え事をして――職場に電話をかけた。今日はまだ火曜だから、ひとまず今週いっぱい休みをもらう。そうしたらトランクに数日分の着替えを詰めた。
連絡帳に『しばらく実家に帰ってきます』と書く。これなら夜に私がいなくても、ベリザリオが心配することはないだろう。
たぶん、この家にいるから駄目なのだ。ベリザリオの近くにいるから、寄り添えない寂しさを強く感じるのだと思う。簡単には会えない距離まで離れてしまえば諦めがつく。
実家に帰ってお母さんのご飯を食べてお姉ちゃんに愚痴ろう。そんな事をしていれば、多少気も晴れるだろう。
私はベリザリオと別れたくない。けれど、いつも私を満たしてくれる彼は動けない。ならば、精神は自力で安定させるしかない。恋人は休業だ。
実家に帰るあいだ家の事がお留守になるから、作ってもらったカードは置いていく。帰ってきて家事をしだしたら、仕事に対するご褒美という感じで受け取れば、プレゼントとしてもしっくりくる。
気分が落ち着けば2、3日で帰ってくるけど。
しばらく頑張ってベリザリオ。
心の中でエールを送って私は家を出た。




