59話 兄弟
棒を投げつけられたであろうエルメーテが涙目になる。
「お前ら後ろから襲うって酷くね!? 頭と背中が激しく痛いんですけど!?」
叫びながら振り返った。
そんな彼をベリザリオが蹴り飛ばす。床に倒れたエルメーテの頭はディアーナが踏みにじっていた。
流れるような連携プレイがいっそ見事だ。
「人の女を叫ばせるお前が悪い」
半眼でエルメーテを睨んでいたベリザリオが私の横に来る。私には笑顔を向けるとその場でしゃがんだ。
特に何もないと思うのだけれど、ベリザリオに一瞬悪い顔が見えたのは気のせいだろうか。
「あんな楽しそうな遊びは私がやるに決まっている」
聞こえてしまったその一言で、見たものが勘違いでなかったことを私は悟る。
次の瞬間にはベリザリオがバランスボールをつついてきた。
ゆっくりした運動に戻るかと思いきや、必死にバランスをとりながら叫ぶ時間に逆戻りだ。私はたまったものではない。
「私で遊ばないで!」
「アウローラと遊んでいるだけだ。問題ない」
「私は問題ありまくりだよ!」
こんな大変な運動ずっとは続けられない。予想どうりすぐに力尽きて落ちそうになった。そうしたらベリザリオがボールを支えて固定してくれる。
私が休憩しやすいようにしてくれたのだろうか。
わからなかったけれど、ボールに乗った状態のまま私はペタンとなった。
「た、助かった……」
へばっていると、思い出したようにディアーナが言ってくる。
「ああ、アウローラ。頼まれてたもの持ってきたわよ。渡し忘れるといけないから、ロッカーででもまた声かけてちょうだい」
了解と、私は軽く片手だけあげる。
「何を頼んだんだ?」
ベリザリオが聞いてきた。
「お酒飲んだ後に、アルコールをさっさと抜いたりする方法その他もろもろが載ってる本」
「最近飲みが多いからって、アウローラがあなたを心配してるのよ。優しい彼女で良かったわね」
ディアーナがくすっと笑う。「俺にも優しくして」とエルメーテが言ったそばから彼を踏む力が強くなった気がするけど。見なかったことにしよう。
私の横ではベリザリオがしみじみと幸せそうにしている。
「私は幸せ者だね。感謝を込めて、今日は全力でアウローラの運動を手伝おうと思う」
待って。発言の後ろの方が何かおかしかった。
それに、ベリザリオの瞳に嗜虐の色が浮かんでいる。これは危険な兆候だ。絶対おもちゃにされる。
逃げなきゃ。と思ったのだけれど、蛇に睨まれた蛙よろしく身体が動かない。
「もう少し休んだらバランスを再開しようか。なに。アウローラの限界ラインでいじめ……負荷を調整するのは得意だ。アウローラは全力で頑張ってくれればいい」
無駄に優しい笑顔をベリザリオは向けてくる。休憩中なのに私は汗が滲みそうになった。反面、つきっきりで相手してもらえるのが嬉しいような。
この矛盾する感情はどうしたらいいですか?
* * * *
そうこう過ごして迎えた新年度。生活にいくつか変化があった。
1つは、活用法を模索していたウィルスを用いての実験をベリザリオが開始させたことだ。
普通の人なら、教皇庁の職員か科学者、どちらか片方の道しか選べない。なのに、ベリザリオは並行してどちらもやるという荒業を選択した。
できてしまうのが天才を天才たらしめるゆえんだろうか。
といっても、しばらくは本実験のための試薬調整や予備実験のような軽いものしかしないらしい。
教皇庁での勤務が終わった後、接待が無い日に化学研究所に寄って帰ってくるようになった。
こうなると、接待以外の日でもベリザリオの帰宅時間がわからない。
それに、ここにきて、ベリザリオは自分で家事をするのを完全に諦めたみたい。週に何日かお手伝いさんを入れようか? と尋ねてきた。
デッラ・ローヴェレ本宅くらいの広さがあるとか子供がいるならともかく、アパートでの2人暮らしだ。やる事はそう多くない。私の仕事はゆっくりだから、家事を全部する程度の余裕もある。
それに、ベリザリオが重要な書類や論文を持っていたりすることもあるかもしれない。他人を入れない方が機密保持上もいいだろう。断った。
そんなある日の夜。掃除中の我が家にフェルモがやってきた。
「こんな時間に悪いね。兄様に添削頼んでおいた論文が欲しくて。見終わったやつが書斎に置いてあるから持ってけって言われたんだけど、入っていい?」
「うん、どうぞ」
ベリザリオから許可が出ているのなら問題ない。書斎に案内した。
書斎の机は書類でいっぱいなのだけれど、1つ1つファイル分けされて、処理済みと未処理、項目ごとに分類がされている。私が見てもどこに何があるのかわかりやすい。
フェルモも同じだったようで、すぐに目的の論文を見つけだしていた。
「兄様が片付け完璧の人で良かったわ。科学者とかって、片付け全く駄目な連中が多いんだよね」
見つけたばかりの論文の束をフェルモはパラパラとめくる。目的物を見つけたとたんにドタバタと帰っていかないのだから、時間にゆとりがあるのだろうか。
「お茶でもしてく?」
なので声をかけてみた。
「出してくれるんだ? じゃあご馳走になっていこうかな」
にこりとフェルモが笑う。こういう時の顔はどことなくベリザリオに似ているから、やはり兄弟だなと思う。
フェルモも私と一緒に書斎を出てリビングに移動する。ソファに落ち着いたらまた論文に目を通しだした。
「それ、フェルモの書いた論文?」
珈琲とちょっとした茶菓子を用意して私もソファに行く。フェルモが顔を上げた。
「ううん。うちの所員が書いたやつ。正確には、論文として世間に発表して問題無いかの確認中なんだけど」
「そんなことしてるんだ?」
「そそ。父様と兄様と僕の三重チェック。兄様はさすがに全部には目を通しきらないみたいなんだけど。でも、見たやつは僕達より細かくチェック入れてるんだよ。だから、兄様の添削地味に人気なんだよね」
フェルモの視線がまた論文に落ちる。ベリザリオがどんな添削をしているのか気になって、私もフェルモの横に行って論文を覗きこんでみた。
私は知らない単語がズラズラとビッシリ綴られている紙に所々赤線が引かれている。近くに貼られた付箋にベリザリオの字で何か書かれているから、これが赤を引いた部分への突っ込みだろう。
こういった専門性の高い分野は相当勉強しないとついていけないと思うのだけれど。その時間をベリザリオはどうやって捻出しているのだろう。出来が違うから、私なんかよりずっと早く色々理解していくのだろうけど。
恋人ながら規格外な人だ。今更ながらにそれを再確認したら溜め息が出た。
「それで、わざわざこれを取りに来たのは何で? 論文書いた人が添削待てなくなっちゃった?」
「いや。僕と父様が見た範囲だとミスは無さそうだったから、一歩進んだ実験を組もうかって話になったんだよ。そしたらそこに兄様が通りかかって、前提条件に矛盾があるからこの先に進んでも失敗するって言いだして」
「それを確認しにきたんだ?」
「そういうこと。あー、これだね。こんなに入り組んでて複雑な系までなんで気付けちゃうかね、あの人。無駄な実験しないで済むから助かりはするんだけど。はぁ。ここのミスだと、ゼロから理論組み直しかぁ」
がっくりとフェルモがうなだれた。癒しを求めるように珈琲に手を伸ばす。
「それで、兄様元気にしてる?」
唐突にそんなことを言われた。
なぜフェルモからその質問が出てきたのかわからなくて、私はまばたきする。
「元気そうだけど。フェルモも研究所で会ってるから知ってるんじゃないの?」
「会ってはいるんだけどさ。あの人僕達には弱味見せないんだよね。けど、家でなら疲れている姿も普通に晒すんじゃないかなって」
「?」
話の要点がますますわからなくなって私は首をかしげる。フェルモが苦笑した。
「兄様ってさ、基本なんでも出来るだろ? そのくせに、あれで根は良い人じゃん? だからか、困ってる人の問題を簡単に肩代わりする傾向があるんだよ。そりゃ兄様ならどれもすぐに解決できる程度の物なんだろうけど」
話を一旦切ったフェルモが珈琲に口をつけた。ふぅ、と吐いた息で湯気が揺れる。
「最近の兄様は、家の運営や教皇庁での出世競争っていう激重な荷を初期状態で持ってる。上乗せさせ過ぎると潰れるんじゃないかと思ってさ」
ここまで言われて、彼の言わんとしていることが私にもわかってきた。私の気付きにフェルモも気付いたのか、顔に笑みが浮かぶ。
「兄様、いくらきつくても自分からは荷物捨てないと思うんだよ。だから、気付いたらでいいから、アウローラの方で兄様への荷物流入止めてやって。あの人に潰れられると僕にしわ寄せがくるからさ」
最後は付け足すようにフェルモは言葉をしめた。照れ隠しなのだろうが、言う必要はあったのだろうか。それに、目的を達するための手段がなんだか回りくどい。
「直接ベリザリオに言えばいいのに。無理しすぎないでって」
「言えるわけないじゃん」
「なんで?」
フェルモを見つめる。彼はちょっとたじろいだ。そのまま私が見ていると、ぽりぽりと頬をかいて、視線をそらし気味に言う。
「無理は無理なんだよ。理由なんて無くさ」
照れくさくて言えないってことですね。男兄弟だからかな。なんだか面倒くさいね。




