56話 オペラ座の居眠りさん
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イレーネちゃんの騒動がひと段落した3日後。水曜日。
私はローマ歌劇場の前で立っていた。
『18:30からのクラシックコンサートに行こう。歌劇場前に集合で』
と、お昼にベリザリオから連絡をもらったから。
私の前を通りすぎて白大理石の巨大な建物に入っていく人達のほとんどが同じ目的だろう。たまに、ナンパに精を出す不届き者もいるけれど。
時刻は18:10。そろそろ待ち人も来る頃だろうか。
「すまない。待たせた」
適当にナンパをさばきながら過ごしていると、ベリザリオが走ってきた。すかさず私は彼と腕を絡める。
「ううん。そんなに待ってないよ。お仕事お疲れ様。バタバタだね」
「アウローラもお疲れ様。私としては、バタバタでもこの時間の講演で良かったよ。仕事上がりのデートにちょうどいいし」
喋りながら建物に入る。まずはチケットを買う列に並ぶのかと思ったのだけれど、それに彼は並ばずエレベーター乗り場へ行く。
「チケットは?」
「昼休みに買っておいた」
「そうなんだ? バタバタだったんじゃない?」
「バタバタ……ではあったな。でも、夜の楽しみを思えば大したことのない労力だ」
エレベーターが来たので乗りこむ。4階で彼は降りてチケットを出し、席を確認し始めた。
「バルコナータ1列目の……ああ、ここだな」
バルコニー状になっている客席の最前列、舞台正面に近い場所にベリザリオが座った。隣に私も座る。
「よくここ取れたね。もっと端かと思ってた」
「あまり有名な弾き手じゃないのかもな。演目だけで選んでしまったから誰が弾くのか私も見てもいないが。好きだろう? ショパン」
ベリザリオが今晩のコンサートのプログラムをくれる。私はそれを広げた。
バラード第1番ト短調Op.23、幻想即興曲、革命のエチュード、華麗なる大円舞曲 、エチュード第3番「別れの曲」――。
演目には有名曲がズラリと並ぶ。
ピアニストの名前は申し訳ないけれど知らない。だから人気がなくて、席に余裕があったのだろう。有名どころのコンサートだと、販売開始した途端に全席完売したりするらしいから。
ついでではあるけれど、有名どころではないから服装規定も緩い。
バルコナータ自体が気楽な席なのもあって、ちょっと綺麗程度の普段着で問題なしだ。
「今晩このコンサートがあるってよく知ってたね?」
「午前中に小耳に挟んだ。これはデートに良さそうだと思って、あとは頑張りました」
「そんなにデートしたかったんだ?」
「当たり前だ。イレーネがゴネたせいで、ここ2カ月日曜は実家帰りばかりだったんだぞ? 私だって遊びたい」
「お兄ちゃん冷たいね」
「私はアウローラにだけ優しくあれればいいよ」
実際には、本気で困っている人には分け隔てなく手を差し伸べる人がそんなことを言う。まったくもって天邪鬼だ。
そうこう喋っていると会場の照明が暗くなる。
舞台だけ明るいままに保たれピアニストが登場。演奏が始まった。
名のあるピアニストではなくともさすがはプロ。とても上手だ。
私だってピアノは弾ける。中でもショパンは特に好きだ。けれど、難し過ぎて自分では弾きこなせない。だから、こうして聴かせてもらえると嬉しい。
ピアノというのは、弾くのが好きなのは女性に多いと思うのだけれど、手の大きさと力の関係で男性向きの楽器ではある。
私の手では届かない和音も、ベリザリオの長い指なら余裕だったこと多数。私が苦戦していたフォルテフォルテッシモも楽々クリアー。
思い出したら、肘置きに置かれている隣人の骨張った長い指が羨ま憎くなった。
ル・ロゼ在学中、この指が、それこそ私が弾きたかったショパンを弾いていた。エチュードやバラードといった難易度がおかしい曲は、練習中よく詰まっていた記憶ばかりだけれど。
今でもまだ弾けるのだろうか。
期待を込めてベリザリオを見たら、彼の顔は見事に下を向いていた。覗き込んで見えた目は閉じている。視覚を閉じて聴くのに集中している……なんてことはないだろう。二の腕をつついてみても反応が無いし。
これはたぶん寝ている。
姿勢は綺麗に保ったままで頭だけ下向きなんて器用なことをされたから、全く気付かなかった。
でも、それも仕方ないかなと思う。彼、たぶん夕べ徹夜しているから。
今朝、起きたらベッドにベリザリオがいなかった。
早く目が覚めただけの可能性もあるから騒ぎはしない。とりあえずいつものように朝ご飯の用意をする。
途中、書斎からベリザリオが出てきて、「もう朝か」と苦い顔でつぶやいていたのを聞いて徹夜だと思った。新しい論文でも手に入れて、それを読むのに夢中になっていたのだろう。
やはり書斎があるのはよくない。
ヴァチカンに引っ越してきてからこっち、新居に書斎が増えて、ベリザリオがそこにこもりっ放しのことが増えたから。
仕事ははかどるのだろう。けれど、寝る時に私が一声かけても無反応な時など、うっかり徹夜をすることが増えた。そんな生活が身体にいいはずがない。
今は私が寝る時にしている声掛けを、強引に書斎から追いだす、とかにすれば、嫌でも寝ざるをえなくなるかもしれないけれど。書類を持ってリビングに移動するだけの可能性も高い。
一時的にだけど意識が現実に戻るから、そろそろ寝た方がいい時間だと認識させるのにはいいかもしれないけれど。
これだという案は中々出てこない。
とりあえずしなければならないのは、コンサートが終わった後にベリザリオに説教だろうか。疲れているのだろうから起こしはしないけど、自分から誘ったデートで寝るのはけしからんと思うの。




