32話 疑惑の彼女
水曜、16:30。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に行く。
約束通りカンタール司祭様は聖堂にいてくださった。目は合ったけれど、挨拶だけして彼の前を通りすぎる。
教会が閉まる17時ギリギリまでお祈りをして、神父様に来週もお願いしますとお願いして、少しだけ寄進をして帰る。特に何もしていないのだけど心が落ち着いた。理由はわからない。
でも私にはこの安息が必要だったから、水曜日の教会通いを生活のルーチンに組み込んだ。
ベリザリオから手紙がくる頻度はさらに落ちた。中身も短くなってきている。
寂しかった。――はずなんだけど、いつからかあまり気にならなくなった。そうなれば、冷静に1歩引いた返事が書ける。手紙にこもる熱量がベリザリオと大差なくていい。
こんな事が出来るようになったのは拠り所ができたおかげだろうか。
クリスマス会にベリザリオも呼べば? というお母さんの提案は適当な理由を付けて断った。クリスマスカードにありきたりな言葉だけ書いて送る。もちろん会う約束なんてしない。
付き合い始めて7年。こんなに心が冷たいクリスマスは始めてだ。
そんな事を続けてしばらく。
水曜日だから今日も教会に行く。そこにはいつものようにカンタール司祭様がいて微笑んでくれていた。
この笑顔を見れるのが最近はとても楽しみ。だって、この笑顔だけは私を裏切らないから。私をほったらかしにして、誰かの所に行ったりしないから。
「司祭カンタール」
そんな安らぎの時間に水を差す声がした。今はあまり聞きたくない声だ。わざわざ振り向かなくてもベリザリオはこちらにやってきて、私の視界に入った。
「何か?」
「大司教様がお呼びです」
その先は一般人に聞かせられない内容なのか、ベリザリオはカンタール司祭様に寄って小声で話す。司祭様が残念そうな顔になった。そうして私に申し訳なさそうに言ってくる。
「申し訳ありませんメディチさん。呼び出しを受けてしまいましたので」
「お気になさらないでください。また来週お願いします」
「はい来週」
にこりと笑って司祭様は奥へと引いていく。ベリザリオも一緒に引くのかと思いきや、彼はその場に残った。
「アウローラ、少し――」
彼がこちらに伸ばした手を私はさり気なく避ける。わざとだと彼も気付いたのだろうか。表情が少し歪んだ。
「お疲れ様ですヴィドー神父様。もう失礼しますので、それでは」
余裕を持って軽く会釈して身を翻した。それっきり後ろは見ない。
ベリザリオも追ってこない。
他人の目があるのだから当たり前だろうけれど。
彼が伸ばした手の薬指にはお揃いのペアリングがはまっていた。
普段は、私と遭遇する可能性があるからつけているのかもしれない。それか惰性か。私だって指輪はつけたままだし。
私にも気持ちが残っているからというパターンもある。それこそエルメーテが複数人彼女をはべらすみたいに。
まぁ、でも、今は……。私の味わった気分の少しでもベリザリオが味わえばいい。そんな力さえ、彼の中の私には無いのかもしれないけど。
それからすぐにベリザリオから手紙が来た。「何かあったのか?」と、本当にそのことだけの手紙が。困っている事があるのなら話を聞く時間を作る。いつがいいか教えてくれと。
「本当に調子のいい人」
自分の立場の悪さにでも気付いたのだろうか。それで焦って連絡をしてきた? でもごめんなさい。私はまだあなたに会いたくない。
「どうもしないよ? ごめん、しばらく忙しいの」そんな返事をしておいた。
壊れてしまいそうな悲しみは、いつの間にか怒りに変わって私の中にある。この感情がもうちょっとおさまるまで、たぶん私達は会わない方がいい。
1週間後。ディアーナから手紙が来た。いつもと同じ取り留めのない中身だ。けれど、気になる1文があった。
『この日にフィレンツェに行くんだけど、暇ある? なんならお茶しない?』
と。ベリザリオとディアーナが会っていた事、私が知っていると彼女は知っているのだろうか。知らないから誘ってこれたのだろうけど。
ベリザリオとは会いたくないけれどディアーナとなら会えそうな気がする。際どい話だって、まぁできるだろう。今まで散々ぶっちゃけ話をしたりしてきたから、耐性があるのかもしれない。
承諾と返した。
約束の日のお昼。フィレンツェ中央駅の改札からディアーナが出てきた。ヒールの高いルブタンを颯爽と履きこなす彼女は今日も格好いい。他の人もそう思っているようで、周囲の男の人の多くの視線が彼女に向いている。
当のディアーナはそんなもの完全無視して、朗らかに私に手を振った。私も手を振りかえす。駅を出るためにとりあえず歩きだした。
「行ってみたかったお店があるんだけど、そこでいい?」
「いいわよ。当たりだといいわね」
「だね。実は予約しておいたの。嫌だって言われなくて良かった」
取り留めのない話をしながら店に向かう。予約しておいた個室に通された。迷いながら注文をして、いつもみたいにシェアして食べる。会話はもちろん忘れない。
「ディアーナって、しょっちゅうフィレンツェに来てるの?」
「月1くらいかしらね」
「そうなんだ。来てるなら連絡してよ。今日みたいにお茶したいし」
「悪いわね。野暮用だけ済ましてすぐ帰るから、連絡するまでもないと思っていたのよ」
「そっかぁ。ディアーナも忙しいだろうしね」
私は小さく肩を落とした。それから、話の流れを切らないように注意して、疑問を話題に乗せる。
「それで、野暮用って何をしてるの?」
フォークとナイフを動かすディアーナの手が一瞬止まった。それでも答えはすぐに返ってくる。
「つまらないことよ」
「ベリザリオとホテルに行くのが?」
今度はディアーナの眉が動いた。皿に向いていた彼女の顔が私に向く。少し不愉快そうだ。
「なんの事かしら?」
「11月22日。夕方。ミケランジェロ広場」
現場を目撃した日付を私はゆっくり言葉にした。
言ってしまった。もう後には引けない。さぁディアーナ、戦おう。




