30話 疑惑
バスが来るまでベリザリオは一緒に待っていてくれた。車影が見えたらお母さんとお姉ちゃんと頬を合わせてお別れの挨拶をする。
「いつでもうちに遊びに来てね。あなたなら大歓迎よ」
「ええ。そのうちに」
お母さんはベリザリオを気に入ってくれたみたい。良かった。
「また連絡する。気を付けて」
私には軽くキスをして彼は帰って行った。
短い時間しか会えなかったけど、今日は仕方ない。お母さんは私の彼氏を心配しなくなったみたいだし、時間の割に十分に有意義だったと、それで良しとしよう。
ベリザリオは仕事を頑張っている。
それなら私は、いつ彼に呼び出されても困らないように、普段の勉強をもうちょっと頑張ろう。
* * * *
それから1カ月。またベリザリオに会えない。
でも、手紙はたまに来てくれる。頻度はフィレンツェに移動してきてから落ちた気がするけれど。会おうと思えば直接会える距離にいるのだから、そんなものなのかもしれない。
寂しさはそう思ってごまかす。
なのにデートの話が出てこない。フィレンツェでの1回目のデートまでも2カ月かかっているから、おかしくはない。なのだけど、あの日以来お母さんとお姉ちゃんがせっつくことが増えて、彼の事を考える時間が増えた。
試験が近いから勉強しないといけないのだけど、身が入らなくて困る。
その日の授業を終えた私は早々に大学を出た。いつもなら図書館で勉強して帰るのだけど、こんな気持ちじゃ意味がないだろうとしか思えなかったから。
街を東西に走るアルノ川を渡って、高級住宅街を抜けて、フィレンツェ南東部にある丘を登る。小道周辺にはオリーブや糸杉が植えられていて、街中より緑があって気持ちいい。
緩やかな階段を登りきって広場に出ると綺麗な夕焼けが見えた。寒いんだけど、秋の澄んだ空気のおかげかいつもより色が鮮やかな気がする。展望台から一望できるフィレンツェの街は昼間以上に赤屋根が鮮やかで、とても綺麗だ。
せっかくだからもっときちんと見ていこう。そう思ってふらふらしていたら、広場の中央にあるダビデ像のたもとに見知った人影が見えた。
その人は私に気付いていないと思う。ずっと街の方を見ているから。
物憂げな表情をしていたベリザリオが両手で顔を覆って下を向いた。しばらくそうしていた彼は、手をどけたかと思ったら溜め息をついて、また街へ顔を向ける。
街を見ているように見えるけれど。あれは本当はどこを見ているのだろう? 考えることに没頭していて、景色なんて見えていなさそうだけど。
悩んでる……よね? 今日の彼の格好は私服だから仕事中でもなさそう。声をかけて、ちょっと話を聞いてあげるくらいしたら、ベリザリオ喜ぶかな。私が悩んでいる時には、いつも彼が話を聞いて安心させてくれるし。
彼のもとに行こうとして、やっぱり足を止めた。
ベリザリオの前に来た女性が彼に声をかけている。ここからだと彼女の顔はよく見えない。けれどベリザリオの表情は見えた。さっきまでの悩み顔じゃなくて澄ました顔だ。
二言三言喋った2人が場所を動く気配を見せる。私は慌てて隠れた。
ベリザリオがこちらを見そうになったから。
私がここにいても悪くないのだろうけど、なんとなく後ろめたい。顔を合わせにくい。
「どうかした?」
「いや。なんでもない」
2人は連れ立って歩いていった。私は口元を手で押さえる。
なんで? とつぶやきが漏れた。
相手の女の人、ディアーナだった。あの様子だと確実に待ち合わせをしている。会うのなら私にも声をかけてくれていいのに。それをしなかったのは、言えない何かがあるからではないのか。
2人が気になって私は後をつけた。尾行が気付かれないように気をつけて。
普通に出て行って声をかければ良かったのだろうけど、尻込みしてしまうのはタイミングを逃したからだろうか。なんとなくだけど、私の中の何かが隠れて様子を見ろと言っている。
ベリザリオとディアーナが建物に入った。私は言葉を失う。だってそこはホテルだったから。
違うだろうと思うけど。大好きな2人に限ってそれはないだろうけど。こんなことを疑う自分が嫌で、私はその場から駆け逃げた。
真っ直ぐに家に帰って、自分の部屋に駆け込む。鍵をかけた。
我慢できなくなって扉にもたれかかって泣く。声は出なかった。
「アウローラ! ちょっとアウローラ! あなたどうしたの!?」
外からお母さんがドンドンと扉を叩いているから、部屋に入る前から私は泣いていたのだろう。成人しても私は泣き虫なまま。格好悪い。弱い。
ベリザリオとしばらく会えないだけで気もそぞろになって。勉強もせずに散歩なんてしたから、見なくてもいいものを見てしまった。
見たものを忘れたいのに、忘れようとすればするほど変な方に考えが転がる。いっそ愚痴として吐き出せば楽になれるのかもしれないけれど。
どう言えばいいというのだろう?
見た事実だけを言える気がしない。絶対私の主観が入る。
もし勘違いしていた場合。ううん、あの2人だから私の勘違いなんだろうけど。2人の名誉に傷が付く。周囲から向けられる目だって変わるだろう。
言えない。でも、1人で抱えるには辛すぎる。
だから、私は扉を開けてお母さんの胸に飛び込んだ。
「どうしたの? ほら、お母さんに話してごらんなさい?」
言われたけれど、それはできない。首を横に振ってひたすらに泣く。涙さえ流れれば、いずれ気分は落ち着くだろうから。冷静に考えられるようになるだろうから。
何かを察したのか、お母さんは何も聞かずに私を抱きしめて背をさすってくれる。
「そうだ。ベリザリオさんを呼んでみる? あなたがこんな状態なら、ちょっと無理してでも来てくれるんじゃないかしら?」
「駄目! それだけは駄目っ!!」
最もありえない提案を私は全力で拒否した。今彼と顔を合わせたら何を言うかわからない。自分がどういう行動をとるのかもわからない。
そんな事情なんて知らないお母さんは唖然としている。
「そうなの? まぁお仕事中だったら悪いものねぇ。司祭様なら懺悔を聞いたりもなさるから、あなたの話もお上手に聞いてくれるかと思ったんだけど」
普通の状態ならそうなんだろうけど。私だって、何も考えずに彼に全てを相談できていた昔に戻りたい。




