28話 母の教育
そして現在19:40
バスを降りた私は全力で走りだした。ベリザリオの指定してきたお店は旧市街にあるので道が狭い。バスが入らないのだ。イコール、バス停から距離がある。
「なんでお母さんとお姉ちゃんまで行きたいなんて言いだすのよ〜!」
泣きたくなりながら叫ぶ。通りすがりの人の視線が少し痛いけれど無視した。叫びでもしないと不満がはけないのだから仕方ない。
原因はどう考えてもお姉ちゃんだ。
家に帰ってからお母さんに教会での出来事を喋っていたのはいい。私も参加していたし。
そのすぐ後から予兆はあったのだ。
お姉ちゃんとお母さんがコソコソしているのには私も気付いていた。
けれど、デートについて来ると言いだすだなんて思ってもみなかった。それも出かけ際に。
「あなた達の待ち合わせ場所は押さえてあるのよ!」
と、ベリザリオのメッセージが走り書きされたパンフレットを目の前に突きつけられた時は一瞬めまいがした。
そのうちちゃんと紹介するから!
娘もしくは妹の久々のデートの邪魔止めてー!!
とかなんとか、言い合いが始まってしまって。気付いたら凄い時間が経っていた。
それを挽回するための全力疾走である。
けれど――。
駄目だ。全力疾走なんかしたら化粧が崩れる。お店に入った時に息が上がっているのもみっともない。汗をかかず疲れない限界のスピードで歩こう。ああ、やっぱり走らないと駄目かも。
正解っぽい考えにたどり着かないものだから、そのまま走る。最近は夜が涼しくなってきてくれているから、汗だくというのだけは避けられるかもしれない。
そんな小さな努力をした結果。お店に着いたのはタイムリミットギリギリの19:50。
ベリザリオは奥の席で本を読んでいた。机にはワインとチーズとハムが置かれている。お酒を飲みながらでも本の中身って頭に入るのだろうか。
「ごめんね遅くなって」
とりあえず謝った。けれどもう疲れてしまって、それだけ言ってベリザリオの斜め向かいの席にダウン。あの2人の妨害さえなければこんな目に合わなくてすんだのに。なんとも恨めしい。
「お疲れ様。何飲む?」
ベリザリオが苦笑した気配がした。そうして私の顔の前にメニューを置いてくれる。
「お水。炭酸入ってるの」
「食事は?」
「まだ」
そこまで話したら彼はウェイトレスを呼んだ。いくつか注文をしてくれている。ここのお店には私も来たことがあるし、どれも美味しかったからハズレを引くという心配がない。それにベリザリオのことだから、私の好きなものを頼んでくれているだろう。
すでに失態は見せているので開き直ってぐったりしておく。
お水が来たらきちんと座り直した。ようやくベリザリオと目を合わす。迎えてくれる彼の笑顔はいつものように柔らかい。
「今日は都合が悪かった?」
「ううん。ちょっと、出かけ前にゴタゴタしちゃって」
お母さんとお姉ちゃんを引き剥がすのに苦労しただなんて言えない。毛先をいじりながら適当にごまかす。ようやく動悸の治まった私は笑顔を浮かべた。机の上に無造作に置かれていた彼の手に私の手を重ねる。
「久しぶりベリザリオ。会えて嬉しい」
「私もだよ」
ベリザリオが重ねられた手を引き寄せて指先にキスをした。それで手を離して、ハムやチーズの乗ったプレートを2人の真ん中辺りに動かす。食べていいという意思表示だろう。さっきまで読んでいた本は端に置かれている。何やらまた難しそうなものを読んでいたようだ。
「応用微生物学って、今度は何の勉強?」
「うん? ああ、これ。ほら、前に、除染して外の世界に行きたいって話をしただろう? でも、そうそう簡単に出来るものじゃないし。いっそ、都合よく除染能力を持ってるバクテリアでもいないもんかと安全域ギリギリの地域にエルメーテと行ってな」
あ、その話、いつかの手紙で読んだな。学生最後の旅行に僻地にエルメーテと行ってきます。みたいなの。きっとそれだね。そんな理由で場所を選んだのは知らなかったけど。
「そこで見つけたウィルスの中に変なのがいたんだ。ちょっと面白そうだからいじってみようと思って。医療方面で応用できそうだったから、上手くいけばディアーナが喜ぶだろうしな」
「そうなんだ?」
「ああ。でも、どこから手をつけたらいいのか2人してちょっと行き詰ってて。どうせフィレンツェにいる間は実験できないから、ヒント探しに基礎に立ち戻って勉強中」
「何か見つかるといいね」
ニコニコしながら適当に相槌を打っておいた。
本には応用って書いてあるけど基礎なんだ。どうしよう、これ以上深く話されるとついていけなくなる。お家が大病院を経営していて、自身も医学方面の知識が豊富なディアーナならともかく、私ではこの系統の話は無理だ。
そんな私の心配などお見通しだったのか、
「アウローラは大学楽しい?」
ベリザリオが話題を変えた。これなら問題ない。私は胸をなでおろした。
「うん。そろそろ卒論考えないといけないのが大変だけど」
ぼつぼつと普段の事を話す。
そうこう話していると食べ物が来た。私好みの皿だ。クスクスにサラダ、燻製チーズ、パンナコッタとフルーツが少しずつ盛られていて、それにパンとワインがついている。
「ここ、こういう盛り付けしてくれるからいいよね」
「アウローラ好みだろう?」
「うん! あ、でも、ベリザリオのは無いの?」
「私は待っている間に食べたからね。それにこれもあるし」
そう言って彼はハムとチーズのプレートを手元に戻す。
「乾杯」
お互いに軽くグラスを掲げてお酒に口をつけた。料理も食べてみるとやっぱり美味しい。ベリザリオが選んでいてくれたお店がここでよかった。
ご機嫌に私は話しかける。
「ベリザリオは研修どう?」
「可もなく不可もなく。ああそうだ。旧市街で部屋を借りるのに、どこら辺がいいとかいう情報を持っていたりしないか?」
「居住用? お金を積めばどこでもそこそこだと思うよ?」
「出来れば安くで」
「?」
ベリザリオから出てくるとは思っていなかった言葉に私の食事の手が止まった。彼の家はとてもお金持ちなので、むしろ家を買い取るくらいしても痛くもなんともないはずだ。
ベリザリオが借主とかではなく、誰かに紹介するのだろうか。
不思議に思って私が彼をじっと見たからだろうか。何かを察したらしきベリザリオが説明をしてくれる。
「研修ついでに一般的生活というのを体験してみようと思って、家からの援助を切ってるんだ。ル・ロゼにいた頃に多少小遣いの制限があったとはいえ、私達は上流階級の暮らししか知らないから。けれど、教会に住んでいるとイマイチ実感がなくてな」
「そうなの?」
「家賃はいらないし、食事も出てくるからね。空調も概ね快適に調整されてるし。それならいっそ部屋を借りようかと。でも、そうなるとかなりカツカツっぽいんだよ」
教皇庁は福利厚生と手当は厚いんだけど、代わりに基本給が低いからとかなんとか、ベリザリオが苦笑する。
そっかぁ。ベリザリオ独り暮らししたいんだ。
そこにたまに……、ううん、ちょこちょこ遊びに行って、「もー、ベリザリオ洗濯物たまってるよ」と洗濯をしたり、「料理の練習したいからキッチン貸して?」と材料を持って押しかけて、ご飯を作ってあげるというのはどうだろう?
いやいや、もういっそ私も一緒に住むとか? 結婚する前にまず同棲しろというし。
どうしよう。妄想が膨らみすぎて止まらない。
料理の練習はここ1年していた。
お母さんが、「男の子の気持ちを掴むには胃袋からよ!」と言って鍛えてくれたから。合わせて家事の練習もひと通り。お母さんが、「愛の深さはアイロン!」と言って鍛えてくれたから。
ありがとうお母さん。置いてきてごめんねお母さん。
おかげで娘は幸せを掴めそうです。




