22話 本と飴
喫茶店で珈琲を頼んで、ベリザリオの買ってくれた本を開く。
題名は『イエズスの聖テレジア自叙伝』。私が見惚れてしまった彫像の題名が『聖テレジアの法悦』とかだった気がするから、モデルの彼女に関する書物なのだろう。
ただ、困ってしまった。1ページ目にして眠いのだ。あくびばかりが出る。
私はこういう宗教読本が苦手だ。
文章が回りくどくて結論までが遠く、意味のない文章まである。小説とかのようにドキドキがあるわけでもない。ただダラダラと綺麗事が書かれているから。
読むたびに、こんな思考の仕方無理だろうと思ってしまう。
このことはベリザリオ達には言っていない。彼らは神学科に進学している上に、将来は教皇庁で働くことまで決まっているから。おおっぴらに言うには少し悪いかなと思って。
そんな苦手な物なのだけれど、大好きな彼がくれた物だからページをめくった。途中とばし読みもしつつ中身を拾う。
嫌な人に遭遇しても、愛情を持って接すればやがて想いは通じるよ、とか。
どんな苦労も、自分を育てるために神が与えたもうた試練だ。神の愛だ。とか。
そんなことが書かれていた。ここまで信じ込めるこの人が凄い。だから聖人として序列されているのだろうけれど。
そこら辺まで読んだところで私は力尽きた。
今まで読んだ部分にあの彫刻に関する記述があったとは思えない。探している場所はまだ先か。
なんとなく珈琲を飲む。
しばらく休憩と決めて、本を閉じて枕代わりに突っ伏す。ベリザリオに貰った飴を口の中で転がした。優しい甘さが疲れを溶かしていってくれる気がする。糖分って素敵。
というか、ベリザリオならこの本の中身を全部知っているのではないだろうか。苦手な本を頑張って読むなんてせず、彼に話し聞かせてもらえばいい気がする。
それとも、この程度も読み切れない女は嫌いですか? 根性の無い女と嫌われるでしょうか。
頭が疲れているせいか、同じ考えが脳内でぐるぐる回る。
駄目だ。寝よう。頭を1度リフレッシュさせた方がいい。
そう思って寝の体勢になったのに、すぐに誰かが頭を叩く。
「もう、誰?」
億劫ながら顔を上げたらベリザリオがいた。にっこり笑った彼は、黙って私の前に座って珈琲を頼む。頬杖をついてこちらを見てきた。
若干居心地わるく私は身を起こす。
完全に失態である。彼に会うのは1年半ぶりだから、大人になった私をアピールしよう思っていたのに、盛大に失敗した予感がする。
ベリザリオの方を見れなくて、うつむきながら髪先を指でいじる。
「久しぶり。お仕事お疲れ様」
「久しぶり。そしてありがとう。彫像の記述まで行けた?」
ベリザリオが聞いてきた。行けていない私は首を横に振る。
ベリザリオは私の腕の下から本を取るとページめくりだした。そうして後ろの方のページを開いて返してくる。
「ここに」
指でとんとんした。
なになに?
――私は黄金の槍を手にする天使の姿を見た。穂先が燃えているように見えるその槍は私の胸元を狙っており、次の瞬間槍が私の身体を貫き通したかのようだった。……(略)。この苦痛は耐えがたかったが、それ以上に甘美感のほうが勝っており、止めて欲しいとは思わなかった。(略)……。
いや。いやいや待って。これ宗教の本だよね? それも、神に仕える者は貞節を守れっていう時代に書かれた物だよね? こんな赤裸々に書いていいの!?
きゃーっと、私は顔を覆った。顔が熱い。赤面しているのだけは確実だ。私が赤くなるとベリザリオが喜ぶから、化粧にはぜひ頑張ってもらいたい。いつまでも彼に転がされるままの私ではないと主張するためにも。
そのとき私の脳裏に1つの考えが浮かんだ。
ベリザリオが私にこの本を渡したのは、この文章を見て恥ずかしがる私を見たかったからなのではなかろうか。
だって、彼が提示した文章はとても後ろだ。速読でもしなければ1時間では到達できない。明らかに、彼自身が文章を教えて、私の反応が見れると踏んで動いている。
よし、勝った! 心の中で私は万歳した。
企みが読めた今回は私の勝ちだ。少し赤面してしまったけれど、これくらいならまだ挽回できる。
ああ、彼との久々の再会で手玉に取られずにすんだ私は幸せです。自分磨きを頑張ったかいがあった。
そう喜んでいたのに、
「あの彫刻はこの場面を再現したものだと言われている。神の愛を感じた聖テレジアが、修練の段階が次のステージに到達した時の悦びを現したものだと」
ベリザリオの解説を聞いて私は固まった。
修練の段階が次のステージに到達した時の悦びを現したもの、なの?
そう言われて読み返してみればそう読めてくる。
「ちなみに、ふしだらな人間が読むと、性的絶頂を書いている文章に読めるらしい」
私は頭を抱えて机に突っ伏した。
だめだ、さっきより顔が熱い。ああ、私、こんな行動をとったら何を考えていたかだなんてベリザリオに丸わかり。失敗した。恥ずかしすぎる。
おそるおそるベリザリオを覗き見る。彼も私を見ていた。なんだか獲物を見るような目で。
その目で私は気付いた。彼の狙いはこの展開だったのだと。
解釈がわかれる文章とはいえ、何の他意もない文章をいやらしく読み取ったのだと指摘されれば、恥ずかしさは倍増だ。
「アウローラにはどう読めた?」
「テ、テレジアさん信心深くてすごいなって」
なんとかそう返せた。
「そう」
穏やかにそう言ってベリザリオは本を閉じる。それ以上は突っ込んでこずに、優雅に珈琲を飲む姿は完璧な紳士だ。猫被りのレベルが昔より上がっている気がする。
神様、彼の成長そろそろ止めてください。
この3年、私は自分磨きをしてきたつもりなんです。ベリザリオのイタズラに流されないように。でも、彼の成長幅の方が大き過ぎる。このままでは私が壊れてしまいそうです。
「ねぇベリザリオ。約束より早く合流しちゃったけど、もうご飯に行く?」
珈琲を飲み終えて私は尋ねた。考えるようにベリザリオがあごをなでる。
「2人だったらそれでもいいんだが、実はエルメーテとディアーナにも声をかけてあってな。店の予約は動かせるかもしれないけど、あいつらが動けるかはわからない。そのままの方が労力が無くていいかもな」
「そうなんだ」
「まぁでも、店までちょっと距離があるからそろそろ動こうか。のんびり歩けばいい時間つぶしになるだろうし。店、アウローラのホテルの向こうだから、この本も置いてくればいい」
ベリザリオが本を私の方に返してきた。そうして、伝票を2つとも持って会計に行く。
「ありがとう」
会計を終え、喫茶店を出たら彼に言った。空いているベリザリオの手の指先に触れると手をつないでくれる。
「飴、まだ残ってる?」
歩きながらベリザリオが聞いてきた。
「うん」
「1つくれないか? 小腹が空いた」
「今までお仕事だったもんね。ちょっと待って」
私は鞄を漁る。
「口移しでくれると最高なんですけど」
ぼそっとベリザリオが言った。
飴を渡しかけた私の手が止まる。握った飴を手放さず、そのまま自分のポケットにしまった。
「スケベさんにはあげません」
「ヒドイな。しばらく離れている間にアウローラが厳しくなった」
くすくすとベリザリオは笑う。あまり残念そうには見えない。
そんな彼の手を今度は私が引いた。建物の隙間の細い路地に入る。街灯の明かりが届かないところまで来たら歩みを止めた。
ベリザリオの手も放す。
さっきポケットに入れたばかりの飴を唇で挟んだ。
「期待してしまうんだが?」
「馬鹿」
きちんと発音できたかわからないけれど、ひとこと言って口付ける。ベリザリオは私の身体に腕を回して深く口付けてきた。
飴が口移しで欲しいなんて口実だ。キスしたかっただけ。わかりやすい人だ。
「ふしだらな子に育ったものだ。実に私好みだけど」
一瞬唇を離した彼はそんな事を言って、指で私の唇をなぞる。そうして、また口付けてきた。
私としてはベリザリオ好みになっていてくれないと困る。あなたに好かれたくて、あなたばかり見て育ってきたのだから。
久しぶりのキスは飴よりもずっと甘かった。
引用:『イエズスの聖テレジア自叙伝』




