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銀行家の娘とエリートの徒然日記  作者: 夕立
Le Rosey編 才器の残照
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10話 逃走劇

 痛みはやってこなかった。

 代わりにヴェルナーを呼ぶ声と同時に鈍い音がして、前方に引く力が私にかかる。とても強い力だったせいで踏ん張りきれなくて、私は前に倒れこんだ。


 何が起こっているのかわからない。

 状況を確認しようと身を起こす。


 ――身体の下にヴェルナーを敷いていた。

 彼が倒れたから、手を掴まれたままだった私も引っ張られたのだろうか。

 慌てて飛びのこうとしたら、そんな私の右手を別の手が上方向に引く。


「今のうちに逃げようアウローラ」


 ベリザリオだった。なんだか切羽詰まった表情をしている。強い力で私の腕を引き上げてくれるのだけれど、途中で別方向の力が加わったせいか彼の眉が動いていた。

 原因は、ベリザリオが掴んでいる腕に繋がっているもう1本の手だ。

 私の右手を掴んだヴェルナーの手が離れないでいた。彼のもう片方の手にはナイフも握られたまま。そんな彼がうめき声をあげて、暗い目で凝視してくる。


「いい加減にしろ、くそったれが!」


 怒鳴ったベリザリオが、ヴェルナーのナイフを持つ方の手を踏みつけた。同時に、私の腕を掴んでいるヴェルナーの指を強引に剥がしていく。腕の抜けた私には「逃げろ!」と言ってきた。

 逃げないといけないのはわかっているけれど、足がすくんでいて動けない。ぶるぶると首を横に振ったら、ベリザリオの表情がさらに厳しくなった。


 汚い言葉をわめき続けているヴェルナーの顔をベリザリオは1発殴って、その上蹴り飛ばして地面を転がす。ヴェルナーが動けないでいる間に私の腕を引いて走り出した。


 ベリザリオの手の平が熱い。それに痛い。とても怒っているのだと思う。

 あんな汚い言葉で怒鳴るベリザリオなんて初めて見た。


「ベリザリオ。ねぇ、ベリザリオ」


 引っ張られながらの私の呼びかけにベリザリオは答えてくれない。こちらを振り向いてもくれない。ひたすらに女子寮の方へ走っている。

 すぐに後ろからヴェルナーの声が聞こえてきた。足音もどんどん近付いてきている。

 普通に走っていてベリザリオがヴェルナーより遅いだなんて思えない。私がうまく走れないせいで、ベリザリオが引っ張るだけでは速度が出ないのだとすぐにわかった。


 突然ベリザリオが私を強く引いた。彼の前に私を行かせて、背中まで押す。


「ベリザ――?」

「寮まで全力で走れ。それで、助けを呼んできてくれ」


 そう言ったベリザリオは私の方は見ないまま来た道を走って行った。

 彼について行きたかったけれど、私は足手まといだ。言われた事に従わなければきっと嫌われる。気楽に独り歩きしていた私をもう嫌っているかもしれないけど。

 これ以上嫌われるのは嫌。

 だから、ぎゅっと拳を握って寮に向かって走った。


 寮に駆け込んだら寮主さんが驚いてやってくる。


「アウローラ、そんなに慌ててどうしたの?」

「ベリザリオが、ベリザリオがっ」


 外を指しながら訴えるけれど、寮主さんはわかってくれない。なんとか気持ちを落ち着けて、ベリザリオがヴェルナーを抑えている事を伝えたら、寮主さんは慌てて電話をしに行った。


 1人で残されていると涙が滲んでくる。

 ヴェルナーにナイフを向けられた時は怖かった。でも、私の代わりにベリザリオが傷付くかもしれないと思うともっと怖い。

 ヴェルナーはベリザリオ相手に手加減なんてしない。助けが行くまでに刺されてしまう可能性だって十分ある。軽い怪我程度で済めばいいけれど、障害が残ったり死んでしまったりしたらと思うと胸が苦しい。


 我慢できなくなって私は泣いた。それはもうみっともなくわんわんと。

 私の問題のはずなのに自分で解決できない不甲斐なさに。ベリザリオに対する申し訳なさに。

 声を聞きつけた子達が寄ってきて抱きしめたり慰めてくれるのだけど、それがまた辛い。


 そうしていたら、ふいに頬に衝撃がはしった。

 痛いし、頭がくらっとするから平手打ちされたのだと思う。呆然と前を見たら、仏頂面のディアーナがいた。叩いたのは彼女だったみたいで、胸の前に叩いたままなのであろう手がある。

 周囲の子達はおろおろしっ放しだ。


「落ち着きなさい。あなたが泣いても何も変わらないわ」


 冷たくディアーナが言った。でも、次の瞬間には私を抱きしめて背中をさすってくれる。


「あなたは頑張ったわ。怖かったでしょうによく走ったわね。もう大丈夫。先生達が全部解決してくれるから」


 さする手が温かくて、声が優しくて、一瞬引っ込んだ私の涙がまた出てきた。ほっとした気がしたら、恐怖がまた戻ってきて。

 ディアーナの胸に顔をうずめてわんわん泣いた。


「え? あ、ちょっと。なんでまた泣き始めるわけ?」


 ディアーナが慌てたのがなんだかおかしい。思ったら、泣き笑いみたいな変な泣き方になった。そんな私に寮主さんが声をかけてくる。


「私の部屋にいらっしゃい、アウローラ。ホットミルクを飲めば落ち着くわ」


 優しい優しいお誘いだ。行ってきなさいよといった感じでディアーナが私から離れる。そんな彼女の腕を私は胸に抱き込んだ。


「ディアーナも一緒に」

「私も?」


 ディアーナが目をぱちぱちさせる。ふっと苦笑したら、


「私も一緒していいですか?」


 寮主さんに聞いてくれた。お許しが出たから一緒に寮主室に向かう。

 ディアーナがいてくれて良かった。誰よりも大好きな友達だからというのもあるけれど、駄目な私を叱ったり慰めたりしてくれるお姉ちゃんといる気持ちになれるから。

 彼女がいなかったら、私はいつまで泣いていたのだろう。





 翌朝、食堂にベリザリオは来なかった。ヴェルナーもいない。理由はエルメーテが教えてくれた。


「ベリザリオが怪我? してないしてない。あいつ超無傷。でもまぁ、ヴェルナーにちょっと暴力振るっちまったから? それで謹慎言い渡されたんだよ。まぁ、理由が理由だし? 周囲が話を聞きたがってうぜーだろうからって、ほとぼりが冷めるまでの時間稼ぎみたいな? 反省文も書かなくていいらしいしな〜」

「そうなんだ」


 大怪我して動けないとかじゃなくて良かった。本当に良かった。


「そんでさ、あいつらがやり合ってる所に出くわした奴の話がまた面白えの」


 なんでも、ナイフを持っている間は強気だったヴェルナーが、武器を蹴り飛ばされた途端、ノブレス・オブリージュがどうたら言い始めたそうだ。

 選帝侯ともあろうものが、ただの商家の人間に暴力を振るうのかと。高貴な人間なら下々の問題など笑って見過ごすのが在るべき姿だろうと。


「そしたらベリザリオどう返したと思う?」


 突然エルメーテが尋ねてきた。

 ちょっと想像がつかない。なので私は首を傾げた。


「この学校に入っている時点で同じ土俵に立つ者とみなす。潔く死ね。だとよ。ちょー笑ったわ。あいつマジ切れしてやんの。俺達以外の前では猫被りまくってるベリザリオの本性引っ張り出したんだからな。ある意味逸材だったわヴェルナー」


 本当に愉快そうにエルメーテは笑う。ディアーナは呆れ顔だ。


「逸材だったって、過去形ね」

「ああ、ヴェルナーは除籍。ベリザリオ的2度目に引っかかったみたいだな。以降、他のボーディングスクールも受け入れ不可だってよ。そんな烙印を押された奴を上流企業は採らないから、人生終わりだな。で、あいつに金握らされて飯に薬混ぜ込んだりした奴も一緒にクビ」

「やっぱりあれも彼の仕業だったの。自業自得ね。まぁ、静かになりそうで良かったわ」


 別段大したことなさそうなディアーナの感想。

 ヴェルナーの事も聞けたのは良かった。けれど、私が知りたいのはベリザリオの情報だ。だから、そちらに話を戻す。


「それで、ベリザリオの謹慎っていつまでなの?」

「さぁ? 長くても1週間もすれば解けるんじゃね?」


 なんとも曖昧にエルメーテが答えてくれた。こればかりは彼にもわからないのだろう。


 それにしてもだ。もし1週間もベリザリオが謹慎になって、その間会えないのだとしたら――長すぎる。ベリザリオ分が不足して私が枯れてしまいそうだ。

 想像しただけで辛くなってしょぼんとした。

 そんな私にエルメーテがチラリと視線を向けてくる。


「何? 会いたいの? あいつに。なら、夕飯前にでも行くか? っても、窓の外から呼んで、あいつが出てこなかったら終わりだけど」

「行くっ!」


 私は椅子から立ち上がって、彼の方に前のめりがちに返事した。私の勢いが良すぎたせいかエルメーテは後ろに仰け反る。脚の角度が悪かったようで、椅子ごと倒れた。

 ごそごそと起き上がった彼は私を見て、目をこすってまた見てくる。


「なんか、アウローラの頭の上に花が咲いて見えんだけど」

「私も」


 ディアーナまでうなずいていた。

 なんでそんなものが見えるんだろうね? 理由を考えてみたのだけど、答えは出てこない。

 そうしているうちに別の事に思考が移った。

 ヴェルナーの件が解決しちゃったから、私、もうベリザリオの彼女のフリできないんだ。そう思うと凄く悲しくなる。


「あ、枯れた」


 だから、頭の上の花って何。

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