3DAY・3
カサっという草を踏む音がした気がして、音のした方向に目を向ける。
神官が呼びにきたんだろうか、それともウィズがきたのだろうか。
なんにしても、こんな情けない顔はしてられない。
「次代様、お呼びですか」
木の間の細い小道からウィズが現れる。
誰が来るんだろうと身構えた体から力が抜ける。
豪華な、恐らく巫女になるための儀式に出席するための服に身を包んで、祭宮の作り物みたいな笑顔を浮かべる。
心の中には色んなことが渦巻いているのかもしれないけれど、この人は絶対にそういうところを見せない。
今も、ここが水竜の神殿だからなのか、きっちりと祭宮を演じている。
そうやって壁を作っているのに、それでもウィズの顔を見るとほっとする。
会いたかった。
ほんの数時間前にも顔を見たし、一言二言会話もしたのに、そんなに長いこと会っていなかったわけでもないのに、何故かとても会いたかったと思う。
視界が次第にぼやけてきて、ウィズの顔が歪んでいく。
歪んだ視界の中のウィズが、苦笑いを浮かべたように見える。
「何で俺の顔見て泣くんだよ」
祭宮じゃないウィズが、困ったような顔をする。
「泣いてる?」
指で目を押さえると涙が零れてきて、初めて泣いていることに気がつく。
自分でもわからない。けれど、涙がぽろぽろと溢れ出す。
人に泣いているところを見られるのは、自分の弱さを見せるような気がして、誰の前でも泣かないようにって子供の頃から思っていたのに。
だから、ルアの前でもカラの前でも、絶対に泣かないようにしてきたのに。
それなのに、ウィズの前で泣くのはこれで三度目。
たった二日間で三回も泣いているところを見られるなんて、涙腺が壊れているのかな。
ぐしゃぐしゃっと袖口で涙を拭いて、ウィズの顔をもう一度見る。
今度はウィズの顔がはっきりと見える。
「どうしたんだよ。何かあったのか」
ウィズの瞳には心配の色が浮かんでいる。
神殿まで来て突然中に入ろうとしないで、こんなところで泣いてるんだから、祭宮のウィズが心配しないわけないのに、心配してくれてるんだっていう事が、なんとなく嬉しい。
「……何もないよ」
何があったかって聞かれても、何か事件があったわけじゃないからそう告げたのに、ウィズは不満たっぷりな顔をする。
「何も無いのに泣くわけないだろ」
ぐっと言葉に詰まる。
ウィズから見たら、何か辛いことあったようにしか見えないのかもしれない。
涙は止まってはくれなくて、何度も何度も袖で拭う。
拭ってもなかなか止まってくれない涙の理由はわからない。
けれども、どうして神官長様に会わずにここにいるのか、ウィズに説明しないといけない。
でも、何もなくって、本当に自分の中に何も無いから、どう説明すればうまく伝わるのかわからない。
「うまくまとめられないんだけれど」
鼻をすする音が言葉の間に紛れ込む。
「いいよ。聞くよ」
別になんてことないといったような、飄々とした顔をして、ウィズが即答する。
「もう一度だけ、同じ高さで話、聞いてくれる?」
それが甘えだという事は十分にわかっている。
「いいよ」
あっさりとしたその言葉に、ほっとする。
深呼吸して、涙を拭いて、出来るだけ鼻声にならないように気をつける。
さっきまで止め処なく流れていた涙は、もう落ち着いてきて殆ど出なくなっている。
「あのね、ちゃんと考えて結論出さないといけないって、ウィズ言ってたじゃない」
「ああ、言ったね」
豪華な服が汚れるのも気にせず、ウィズが草の上に座り込む。
ポンポンと右手で草の上を叩くので、ここに座れって事なのかなと思って、横に座る。
生い茂る木々に小さく切り取られた空の下、葉が風に揺られる音と、小鳥のさえずりだけが耳に届く。
まるで外の喧騒や、どろどろとした醜い気持ちから切り離された、別世界のような錯覚にさえ捕らわれる。
ここでなら、誰にも言えなかった事さえ言えるような気がしてくる。
それはこの場所が醸し出す雰囲気のせいなのか、それともウィズの揺るぎない穏やかさのせいなのかは、判断がつかない。
何を話そうとか考えるより先に、言葉が湧き上がってくる。
「神殿の前に立った時に決めようと思ってたの」
相槌を打つだけで、ウィズは口を挟もうとしない。
「ここにくれば、水竜の巫女になりたいかわかると思ってたから。なのにね、なりたいのか、なりたくないのか、わからないの」
顔色一つ変えず、ウィズは頷くだけ。
「なるのが当たり前だと思ってたから、考えたこともなかったの。自分で選ぶなんて。だからどうしたらいいのか、全然わからない」
「幼馴染に求婚されたからじゃなくて、か」
ぽつりとウィズが呟く。
ルアのことを切り出され、はっとしてウィズの顔を伺うけれど、相変わらず表情の読めない顔をしている。
「それも、あるかもしれないけれど、でもそうじゃないの。私がどうしたいかが、わからないの。巫女になりたいのか、なりたくないのか。ルアと結婚したいのか、したくないのか」
話始めたら、勢いが止まらなくなってくる。
ルアのことが一つの引き金になったかもしれない。でも、そうじゃない。ルアがどうこうじゃなくって、もっと根本的なところで、ずっとずっと悩んでいた。
「私、巫女に相応しいとはどうしても思えない。だって、私には何にも無くって、巫女らしく振舞うことも出来なくって、なりたいっていう強い気持ちもないんだもの。こんな私が巫女になってもいいの?」
「ササ……」
「何にもないの。空っぽなの。自分で選びたいのに、選べないの。いっそ全部ゼロに出来たらいいのにって思うのに、それも怖くて選べないの。ねえ、ウィズどうしたらいいの。私、どうしたらいいの?」
問い掛けると、ウィズの眉根が歪む。
「ササ、俺は傍観者でしかないんだよ」
淡々と、でも昨日聞いたときと同じような苦しげな顔をする。
ウィズを困らせているのが、その顔からはっきりとわかる。
「……うん。わかってる。ごめんなさい」
「いや、いい」
口元を押さえて、大きな溜息をついてウィズが言葉を選ぶように考え込む。
その大きな溜息が、心に痛い。
本当はちゃんと自分だけで答えを出して、ウィズが納得するような答えを見つけたって胸を張って言いたかったのに。
結論を自分だけで出せなかったことが情けなくなってくる。
でも誰かが背を押してくれないと、前に進むことが出来ない。
本当は、そんな自分が一番嫌い。
「ササはさ、すごく美味しいお菓子を貰ったのに、食べたら勿体無いかもしれないとか、本当は苦いんじゃないかとか考えてみたり、どうぞ食べて下さいって言われているのに、自分が食べちゃいけないんじゃないかとか思って入る間に、結局お菓子を腐らせて食べられなくしてるんだよ」
言いたいことがわからなくて、ウィズの顔を見てみるけれど、その顔は真剣そのものだ。
「お菓子?」
「そう。お菓子。ササはね、一生に一度しか貰えない、とびっきり美味しいお菓子を貰ったんだ。でもそれがあんまりにも立派なお菓子で、手を伸ばすのを怖がってる」
もしかして巫女のことを言っているのかな。
そうなのかな。
ウィズの顔を見ると小さく頷くので、それが巫女に選ばれたことを言っているのだということがわかる。
「腐ってからじゃ、もう二度と食べられないよ」
さらりと言った一言が、ぐさりと胸に刺さる。
二度と食べられない。
後悔したときには、もう二度と巫女にはなれない。
それでもいいのかって聞かれている。
今、この時を逃したら、もう二度と巫女になれない。
私が巫女になる、一生に一度のチャンス。
本当に、手放してもいいの?
巫女にならなくてもいいの?
もしも巫女にならなかったら、後悔しないって言い切れない。ううん、絶対後悔する。
あの時巫女になればよかったのにって絶対思う気がする。
後悔だけはしないようにって、昨日決めたじゃない。
巫女にならなかったら、じゃあ何をするの。何になるの。
なりたいものも、したい事も、何一つ見つけられないのに。
なりたい、もの……。
とくん、と胸の奥が鳴る。




