窓
『胡桃の中の蜃気楼』第五章 「変化」~「記憶」の頃のお話です。当のご本人は名前しか出てきませんが……。
学舎の一階の、図書室の一番奥にある出窓には、鈍い赤革の張られたベンチがある。天井近くまである本棚に両側を挟まれ、真っ白な漆喰壁と、上部がアーチ状になった色褪せたモスグリーンの窓枠に縁どられた細長い窓の下に、それは周囲から隠れるようにひっそりと設置されている。
毎水曜日の午後、僕はかっきり一時間だけこのベンチに座る。上級生に上がってから、他の生徒と時間をずらせて選択教科の個人授業を受けることができるようになったので、昼食後の最初の一時間を、自習時間に振り替えることができるようになったのだ。
窓外は、やがてゆっくりと芝生を浸食するように三階建ての学舎の影が広がり始める。まだその影の届かない今の時間帯は、真向かいの美術室に設えた総ガラスの壁面が柔らかく広がる緑を照り返し眩い。
その窓が開け放たれ、照り返しで見えなかった室内を見渡せるようになったのは、去年の春頃からだったろうか。
課外授業が始まる五分前、窓が大きく開かれ、彼がベランダに顔を出す。テールコートを脱ぎ、肘まで捲り上げられたシャツの袖から伸びる、抜けるように白く輝く細い腕が目に眩しい。絵具の散った生成りのエプロンを身に着けた彼は、光の具合を測るようにぐるりと辺りを見まわし、必ずこの窓で視線を留める。
あの位置から、僕が見えるのだろうか?
彼がこちらを向いている間中、素知らぬ顔で膝の本を目元まで持ち上げていた。視線だけそっと彼に向けて。
彼がこの窓を見つめていたのは、ほんの一瞬。
だが僕には、永遠よりも長い時間に感じられた。そのわずかで長い時の狭間に、胸の鼓動は高鳴り、頬は上気する。
この距離ならこちらの表情までは見えないはず――。そうだ。見えるはずがない。僕が誰かなんて判るはずがない。見えたとしてもせいぜい、誰かが座っている、くらいのものだ。
その事実に気づいたとたん、風船のように膨らんでいた期待と高慢な自尊心が、一気にしぼんでいった。
僕の場所から彼の表情は判別できないのだ。ただ、輝く金髪としなやかな姿態で彼だと判るだけ。
僕はなんて恥知らずなんだろう……。
以前は姿なんて見れなくても、ガラスの向こうに彼がいる、とあの窓を眺めるだけで満足していたのに。
窓が開かれるようになってから、ここから彼の姿を眺めるだけの喜びに浸れていたのに。
いつの間に、僕に気づいて欲しいなどと、傲慢な望みを持つようになっていたのだろう?
そう、彼がこの学校に戻ってくれただけで満足だと、心に誓っていたのに――。
去年のクリスマス休暇を終えて春学期が始まっても、彼の姿は寮内になかった。病欠届けが出されていたのだ。僕は彼と同じ寮の副寮長として、お見舞いの手紙を書いた。でも返事はなかった。手紙はちゃんと彼の元に届いたのだろうか。それすら確かめようがなかった。
彼がこの学校に戻って来なかった原因は、また以前のような嫌がらせがあったからだとか、脅されていたのだとか、まことしやかな噂が囁かれていた。彼は米国でも有数の資産家の子息だから、取り入ろうとする賎しい輩に不愉快な思いをさせられたのだ、とも。
誰もが彼のたぐいまれな美貌の前で面を伏せ、眼を逸らしてしまう。親しく声をかけ、友人のように振る舞うなどとは考えられないほど、彼は尊く美しい。そんな彼に近づくことを躊躇したせいで、彼を傷つける不埒者の存在を見過ごし、またもや辛い思いをさせていたなんて!
僕はそんな愚かな自分が許せなかった。
二つ下の新入生の中に初めて彼を目にした日のことを、僕は一生忘れないだろう。この殺伐とした地上に天使が舞い降りてきたのだと、本気でそう思ったのだ。
そんな彼の翼をもぎ取り、汚そうとする先輩たちがいることに、胸が搔きむしられるように苦しかった。尊敬していた彼らの胸に生まれたどす黒い想いを、僕は決して理解することも許すこともできないだろう。そして、そんな彼らを押しとどめて彼を守ることのできなかった自分自身の不甲斐なさもまた――。
だが彼は傷つき怪我を負わされても、決して穢れることはなかった。いつも頭を高くかかげ、どこまでも神聖で気高かった。
彼は決して汚れることのない天使。
彼こそが僕の聖域。
二度とあの時のようなことを繰り返してはならない。今度こそ、僕は彼を守らなければ。
フェローガーデンの薔薇がほころび始める頃、彼は戻ってきてくれたのだから。もう一度僕の眼前に――。
そして今日もまた、美術室の窓を開ける。くるりと辺りを見まわして、この窓で視線を留める。
僕はかっきり一時間、このベンチに座り、窓越しに美術室の彼を眺める。
創立祭を間近に控えたある日、変則的な会議に出るために、僕はいつもより早い時間にこのベンチから腰をあげた。彼はまだベランダに立ち、こちらを向いていたけれど。
入れ違いで下級生があのベンチに座った。斜めに腰かけてすぐさま外を眺めている。なにげなく振り向くと、彼はふっと微笑んでいた。ポケットから何か取りだして手に握りしめ、窓に張りつくようにして小刻みに動かし始める。何をしているんだ? と思わずじっと見つめていると、彼は振り返り、生意気な顔つきで僕を睨めつけた。膝に下ろした右手に握られているのは小さな鏡のようだ。僕は彼を威圧的に一瞥してから顔を背け、その場を後にした。
自室に戻った後、窓際の椅子に座って彼が持っていたような小さな手鏡を持ち、同じように動かしてみた。やはりわけが判らなかった。
「眩しいよ、パット」
僕のベッドで寝そべっていた一つ下の弟が、こちらを向いて目を眇めている。
え? と顔をあげた。
「お前、これが何を意味しているか判るかい?」
あのとき見たままに、鏡を小刻みに動かしてみた。
「モールス信号だろ? 僕は読めないけどね。下級生の間で流行ってるんだよ。離れているところから合図を送り合うんだよ。こんなのもあるよ」
弟は目を瞬かせながらベッドの上に立ちあがり、手をばたつかせた。
「これは手旗信号」
黙り込んでしまった僕に、弟は怪訝そうな瞳を向けた。その瞳はじきに心配そうな色に染まり、「パット?」とベッドから下りて、間近に僕の顔を覗き込む。
「その信号、読めるようになりたいんだ」
「同室のやつが本を持ってる。借りてくるよ」
弟は、任せとけ、とばかりに胸を張って屈託なく笑った。
伝統ある英国一の名門校であるこの学校で最大の行事、6月の創立祭が行われる前日、前夜祭の開会式を終えると、僕は真っ先にホールの壁を飾る美術コースの展示を見にいった。この学校の栄誉ある二十名の監督生の一人に選ばれた僕には、今日、自由になる時間はわずかしかない。執行委員として忙しく働かねばならなかったから。
今年の彼の作品は、黄金の葉を茂らせる楡の樹間に立つ、紅く燃え立つような一本の欅の大木だった。樹々の狭間に深緑の澄んだ湖面が見え隠れしている、美しい風景画――。
「ヨシノの木だね」
「彼、また怒るんじゃないの? 俺の居場所を奪うな! って」
そんな会話が背後で聞こえ、クスクス笑いとともに遠ざかっていった。
あれから時折、図書室であの下級生とすれ違うようになった。
僕が席を立つと、奴はベンチに座りにくる。美術室から彼がベランダに出てくると、鏡を取りだす。彼は腕を上に挙げたり下げたりしながら、合図に応える。それは時間の指定だ。
午後五時、いつもの場所で。
あの絵の欅の樹を探した。
幸い彼の描いた場所が、敷地内にあるフェローズ池の傍だということはすぐに判った。問題は樹だ。どれもこれも新緑の葉で覆われている。どれが楡だか欅だか、僕には区別がつかない。園芸部の生徒を訪ねてわざわざ一緒に池まで来てもらい、どの樹がそれだか教えてもらった。この林には、欅の樹は一本しかないのだそうだ。一番太いこれがそうだよ、と言われても、これが他に比べて特別太いようにも思えない。言われてみれば――、程度の差だ。
水曜日の午後五時、僕は、個人授業を休んで池の傍に急いだ。彼がまた不埒な輩に傷つけられるのではないか、と気が気でなかった。彼は純粋だからきっと奴に騙されているのだ、と不安で胸が押しつぶされそうだった。
あの欅の木の根元に、彼は座っていた。
奴の傍らで、彼は、十四歳の少年の顔で、笑っていた。
僕がこれまで一度も見たことのない顔で――。
僕は立ち止まり、踵を返し、足音を忍ばせてもと来た道を戻っていった。
学舎の一階の、図書室の一番奥にある出窓には、鈍い赤皮の張られたベンチがある。
毎水曜日の午後、僕はかっきり一時間、このベンチに座り、窓越しに美術室の彼を眺める。
僕には決して向けられることのない、あの時の彼自身の、鮮やかな笑顔を胸に抱きながら。