第8話 もう伝えられない
力の限り走れ。少女の為に――。
レオを置いて突如として走り出した氷華。レオは氷華の背中を時折見失いながらも、必死に彼女を追いかけ続けた。だが、その距離は依然縮まらず。徐々に、レオに焦りが募り始める。
今日に限って運もすこぶる悪い。これまでなんの変哲も無かった住宅街が醜悪な迷路と化し、レオの進行を妨害した。入り組んだ狭路、部活帰りの中高生、木々や電柱さえもが氷華との繋がりを断たんとする邪魔者となった。ただでさえ余裕が無いレオにとっては、腹立たしい事この上なかった
(どうしてこんなにも邪魔が入る……! ふざけんなよッ!!)
夕陽に照らされたアスファルトをローファーで滑りながら、レオは曲がり角の右左折を幾度となく繰り返した。途中、停止線を無視して飛び出して来た軽トラックにぶつかりそうになるが、レオは気合でそれを避け、彼方へと逃げる氷華を猛追するべく目で捉え――。
(ああクソ……! どこ行った!?)
いつの間にか、前方に見えていたはずの氷華の小さな背中がレオの視界から消えていた。順調に進んでいれば彼女との距離を大幅に詰められていたと言うのに、先程の怠慢な軽トラックのせいで見失ってしまった。ほんの僅かなタイムロスだったが、それが致命的だった。
額の汗を拭うレオは二つの意味でショックを隠せない――あんなにも氷華の足が速かったとはレオも知らなかった。
レオも決して足は遅くない。むしろ、足の速さには自信があった。だが、ご覧のあり様だ。あまりの俊足に容易に突き放されてしまった。胸の内で悔しさと情けなさが荒波となり、レオに襲い掛かった。追い打ちをかけるように、傾いた太陽と空を覆う淡い夕焼けがレオの気持ちを焦らせる。
(どうする……!? いや、立ち止まってたって意味ねぇだろ……!)
何か行動を起こさねば現状は変わらない。取りあえず、レオは最後に氷華が通った地点まで走ってみた。右に左にせわしなく視点を変え、脇道の確認もレオは怠らなかった。しかし、いくら探しても氷華の姿はどこにも無かった。
(あり得ない……! 消えるはずないんだ! 絶対に、どこかに居るはずなんだ!)
神隠しでもない限り、氷華は存在する。そんな神が居て堪るかとレオは汗で濡れた拳を握り締め、再び駆け出した。
奥の交差点を曲がったのかも知れない。僅かな希望を胸に灯し、レオは道なりに走ってその場所まで行ってみた。案の定、見当たらず……。
居ても立ってもいられなくなり、レオは民家の塀によじ登って右も左もくまなく見通した。少女の髪は橙みのある赤茶色。もしも視界にそれを収められれば、すぐに発見できるはず……唯一の望みも潰えた。完全に分からなくなってしまった。
――君ッ!! 待ちなさい!!
レオの胸中に諦めがじんわりと滲み始めたその時、どこからともなく男性の怒鳴る声が空を伝って聞こえて来た。尋常ではない大声だった為に、民家を隔てたそう遠くない通りから発せられたものだと割り出せた。
まさかとは思ったが、レオは直感的に氷華の事と結びついた。今や当てが無い。一握りの望みをかけてレオは怒声が上がった方角へと急いだ。
「おい、待て!!」――と、時折天に響く荒げた大声。レオはそれを頼りに、住宅街が織り成す入り組んだ生活道路を縫うように走り抜けて行く。
遂に、レオはその現場に辿り着いた。
人気の無い狭い路地の中程に、身構えて硬直している汗だくの人物が立っていた。服装からして警察官である事は間違い無かった。ただ事ではないと悟り、レオはすぐさまそこへ駆け付ける。氷華が居るとは到底思えなかったが、嫌な胸騒ぎから体が勝手に動いていた。
(――なっ!?)
笑顔の無い警官の目線の先に、見慣れた赤茶髪の少女――氷華が立っていた。血流を乱す胸騒ぎの正体を知り、レオは心の底から凍えた。
氷華の背後はちょうど行き止まりとなっており、どうやら袋小路に追い詰められた直後のようだった。 しかし、警官に追われるとはどう言う事か……? レオの疑問はすぐに解消された。
氷華の左手には、巡回中の警察官から奪った物と思われる拳銃が握られていた。その銃口は震えながらも相手を見据えている。牽制には十分。どうりで、場数を踏んでいるはずの警官が、可憐な少女を前に一歩も動けず対峙している訳である。
延々と続くかに思われた膠着状態だったが、レオの姿を視界の端で捉えるや否や、氷華はそちらの方に銃を構えた。突然照準を合わせられ、レオの肩に力が入る。――しかし、その威圧的で攻撃的な動作とは対照的に、氷華は悲痛な面持ちですすり泣いている。敵意など抱けるはずがなかった。
「ぐすっ……うっ。来ちゃダメって……言ったのに……!」
涙を頬に伝わせる苦しげな表情の氷華。もはや、レオがよく知る無邪気な笑顔がトレードマークの少女ではなくなっていた。
「氷華……」思わずレオはその名を小さく呼ぶ。どうして逃げたのか? どうして暴挙に出たのか? どうして銃を向けて来るのか? 聞きたい事は山ほどあった。だが、あまりの豹変ぶりに、彼女の名を呼ぶ事しかレオは出来なかった。
「危ないから下がってて!」
非常時の訓練を受けている大人に警告されようが、レオは引き下がれなかった。何せ、目の前で銃を構えて泣いているのが、あの氷華なのだから――。
「……オレの、友人なんです」
一瞬言葉を失った警官だが、それを聞いて機転を利かせる。厳しく強張った表情こそ崩さなかったが、優しく静かな口調で、居合わせた青年に協力を要請した。なんとか彼女を説得できないか――と。
もちろん、頼まれずともレオはそうするつもりだった。どうせ他の誰にも説得は出来ないだろうし、自分がやるしかない、と先程からその機会をうかがっていた。
荒れた息遣いに負けてしまいそうな小さなうなずきを返して承諾すると、レオは自身の両手を氷華に見せながら、夕陽を鋭く反射させる拳銃へと歩を進める。いつもと変わらない感じで喋る事を心がけ、2歩、3歩とまずは歩み寄ってみた。
「氷華……まったく、銃を奪うだなんていけない子だ。悩み事があるなら、オレに言ってくれよ……」
「来ちゃダメ!!」
氷華が叫ぶと同時に、それをかき消すほどの銃声が閑静な住宅街をこだました。威嚇射撃を受けたレオは自身に起きた事が信じられず、思わずゆっくりと後ろを振り向く。あの心の優しい氷華が本気で撃って来るとは当然思わない――だが、夢でも幻でもなかった。コンクリート壁にはくっきりと弾痕が残っており、ひび割れて一部砕けていた。
耳に残っていた銃声が止み、張り詰めた沈黙がその場の3人を包み込む。心理的には、武器も説得の手段も無いレオ達の方が追い詰められていた。
(――どうする!?)
これ以上氷華に近づけない「どうする」もあったが、もっと大きな懸念がレオの思考を妨げ焦らせる。
氷華が放った一発を聞きつけて、恐らく近辺の住人が様子を見に来る。あるいは、偶然通りかかった人が何事かと駆けつけて来る。そんな未来となるのはそう遠くはないはず。これがレオの最大の懸念だった。そうなったら最悪だ。人々が集まれば、余計に氷華を刺激してしまう。状況の悪化は避けられない。悠長な事は言っていられなかった。
(氷華……待ってろ)
出来る限り速やかに、この難局を終わらせねば。レオは両手を上げたまま、気取られて撃たれてしまう事を覚悟の上で、地面すれすれを維持しながら足を僅かに動かす。
(だめだめっ……! レオ君、来ちゃダメなんだよ!!)
事態を収束させようとしているレオの顔は真剣そのもの。撃たれる事をまるで恐れていない。揺らがぬ信頼が彼にそうさせているのなら、刹那の喜びとそれを蝕む申し訳なさが同時に込み上げて来た。
突然置き去りにされたにもかかわらず、一人苦しむ哀れな少女を今も救い出そうとしてくれている。そこにある親愛は美しく、何ものにも代えがたい。出来る事なら、そんな心の持ち主を氷華は傷付けたくなかった。どうか去ってくれ……氷華の想いは変わらずただ1つのみ。
やがて氷華の胸はいっぱいになり、大粒の涙が堰を切るように瞼から溢れてこぼれ落ちた。もはや視界がはっきりと見えないほどに目は潤いを含んでいた。
願わくば、この悪夢を終わらせたい――氷華は目を見開いて絶望を露わにする。
あまりの光景にレオは絶句した。氷華がようやく動きを見せたかと思えば、小刻みに震える左手で自分の頭に銃口を当て始めたではないか。今に至るまで、おかしな行動を取り続けていたので、彼女が一体何をしようとしているのかレオもずっと分からないままだった。だが、否が応でも今度のはハッキリと分かった。死ぬ気だ――。
「何をする気ですか!? 落ち着いて……! その銃を今すぐ下ろしなさい……!!」
今にも引き金を引いてしまいそうな少女を目の当たりにし、これまで静観していた警官が焦りと共に1歩前に出る。ホルスターから拳銃を抜かれてさえいなければ、このような事態は避けられた。黙っている間も罪悪感と後悔は募り続けており、こうして身体が反応してしまうのも致し方なかった。
ただ、1歩目を出したはいいが、警官は再び身構えたままの硬直を余儀なくされた。迂闊に動けば、少女が自ら命を絶ちかねない。どうする事も出来ない自身への怒りが、額にかいた無数の汗の如く沸々と湧き上がる。本当はこの場の誰よりも、彼は冷静さを欠いていた。
「おい……。本気で自分を撃ったりしないよな……? 頼むよ……」
「レオ君……。あたしだってホントは、死にたく、ないんだよ……?」
むせび泣く少女が見せるは、かつて無いほどに悲痛に満ちた面持ち。その痛ましい姿が、レオの鼓動を激しく早める――。
とめどなく流れる涙で視界がぼやけているだろう。そう思わずにはいられない、大量の涙が氷華の目には溜まっていた。抱き締めて、拭ってやりたい。今すぐに。――二人の日常を取り戻すべく、レオは意を決してもう一度歩み始めた。
「死ぬ必要なんて無い……。オレが居るだろ?」
「分かってても、ダメなの……! もう耐えきれない……!」
「氷華……早く帰ろう? もう日が落ち始めてる。帰んないとほら、明日の終業式、行けなくなっちゃうぞ? なぁ……帰ろう」
レオが絶えず優しく呼びかけるも、氷華はゆっくりと首を横に振るだけだった。忌まわしい凶器の先端は相変わらず、氷華のこめかみにくっついて離れる気配を見せない。
「もう……無理ッ! 見ない、で……。こんな姿、見られたくない……」
八方塞がり。打つ手無し。どうすれば氷華の元へ辿り着ける? 自問の末、辛苦に押し潰される間際でレオは閃いた――。そうだ。目をこすれ。その時に僅かだが隙が生まれるではないか。
思えば、視界を遮らんばかりに氾濫した涙を、氷華は一度も拭っていない。耐えられなくなり、いずれ両目に湛えた涙を取り除こうとするはずだった。その時がチャンス。起こり得るであろう唯一のチャンス。逃すまいとレオは相対する氷華の動向に全神経を注いだ。
しゃくり上げた拍子に溢れる涙。レオの想いが通じたか、氷華が震える右手で涙を拭う。
彼女の台詞からして、もはや猶予は無い――今しかない。そう判断したレオは無駄な思考の一切を排し、一気に氷華との距離を詰め、出し得る最高速度で右の腕を伸ばした。大きく広げたレオの手が、氷華から死の誘惑を遠ざけ救おうとする。
希望はあった。夕陽を反射して不気味な輝きを放つ拳銃を掴み、氷華が引き金を引くよりも先にその銃口を逸らす事が出来れば、無事に助けられる。もしも思惑通りに逸らす事が叶わなずとも、銃の撃鉄――もしくは、弾倉を力一杯握り締めれば、きっとなんとかなる。間に合えさえすれば、阻止できるはず。氷華の笑顔を取り戻すまでレオは諦めなかった。
涙で手を濡らした氷華。すぐ目の前にレオが迫っていても驚いたりはしなかった。涙を拭えばこうなる事は予期していた。予期していたからこそ、今まで拭うまいと耐えていた。
(……そうだよね。助けたく、なっちゃうよね。出会った時から、なんにも変わってない……)
ああ。最期に想い人の美徳を見られるだなんて、なんて幸せなのだろうか。溢れる涙と悔しさをこらえ、氷華は刹那の笑みを浮かべる――。
拳銃を掴み損ねた手で、崩れ行く氷華をレオは思わず抱いて受け止める。ワイシャツの襟を真っ赤に染めた少女がレオを抱き返す事は二度と無かった。
レオの瞳から光が消えた。
心のより所を失う辛さ……。