第7話 楽しい世界が続けば、どれほど良かっただろうか
日本の夏は地獄。
そこにセミの大合唱が加わると……うわあああ!!
あっという間に時は過ぎ、気が付けば期末テストも終わっていた。いよいよ夏休みも目前。じりじりと焼けるような猛暑がこのところ続いていたが、そう思えば誰しもが頑張れた。
随分と前にテストも返却され、今日は大掃除だけの楽な時間割だった。
相変わらず、レオと氷華は行動を共にしていた。ある時はレオから、ある時は氷華の方から、相手の元へと足を運んだ。灼熱の夏が到来しようが、それだけは変わらなかった。
――ただ、春風が吹いていたあの頃と一つ変わった事がある。二人の距離間だ。
その距離間と来たら、今や友人同士とは思えぬほど。傍から見れば、レオと氷華は人目もはばからずにいちゃつくラブラブな関係に見えなくもなかった。そんな光景を毎日のように教室で見せつけられるのだから、他生徒は堪ったもんじゃない。早く夏休みになれ――何名かはそうしたひねくれた理由から早期の休暇を望んでいた。
学校は午前中で終わり、レオと氷華は昼食と涼を求めて近くのショッピングセンターへと向かった。
二人が訪れたショッピングセンターにはフードコートがある。出店店舗が豊富で色々な味を楽しめるので、昼食で迷った時には二人はよくそこへ足を運んでいた。それだけでなく、集客率を上げる為にどこの店も学割を行っており、学生に助かる仕様となっているのも魅力の一つだ。
フードコートに着くと、今日も大勢の客で賑わっていた。考える事は皆同じである。
横一列に整然と並ぶ店々の前には大きな食事スペースが設けられており、購入した物をそこで食べる形式となっていた。吹き抜けの真下にもそうした席があり、天窓から陽光が差し込んで心地良い。言わずもがな、そこが人気席だ。しかし、昼時と言う事もあって、残念ながらそう言った席はどこも先客が陣取っている。レオ達は断念を余儀なくされた。
取りあえず、二人は柱の側の空いている席を確保し、順番に食べ物を買いに行った。レオは牛丼大盛を、氷華はロースカツ定食を購入。いつものように揃った所で仲良く食べ始めた。
「ねぇー、レオ君。家でもちゃんと野菜食べてる?」
「甘党の氷華には言われたくないなぁ……」
「あたし、そんなに甘い物ばかり食べてるかな?」
一汁三菜が完璧な定食を見せつけられ、レオはぐうの音も出なくなった。
「レオ君がたまたま、あたしがスイーツを食べてる所をよく目撃するから、そう言う不摂生なイメージが付いてるだけなんだよ」
レオの指摘の通り、氷華が甘い物に目が無いのは確かだ。だが、大抵の場合、氷華は肉も野菜もバランスよく食べている。偏った食生活はレオが心配しているほどしていなかった。
一方のレオは、肉米肉米と交互に食べる事こそ至高だと思っている節がある。「野菜嫌い」と言うほどではないが、自ら進んで野菜を食べると言う事をレオはあまりしない。氷華からしてみれば、レオの方こそ不摂生。氷華がこうしてレオの食事を気にかけるのは必然だった。
「昨日はトマト丸ごと一個食べたぞ」
「それじゃあ足りないよ……。野菜は健康にいいんだから、毎日食べる事を心がけなきゃ」
「肉だって健康にいいだろ……! オレは騙されねぇ……!」
「も~……」
箸の動きを止め、氷華はじとっとした目を向けて口を尖らせる。今に始まった話ではないが、聞く耳を持たないレオが心配でならなかった。
「あたし、レオ君が健康じゃないと嫌だよ?」
柔らかそうな頬をほんのり赤らめ、氷華が上目遣いで訴えて来た。心配、不満、優しさ……それらが入り混じった眼差しをその茶色い瞳から送られれば、さすがのレオも思考が止まる。こうなると、レオは目を逸らすしかなかった。
「そう言うのズルいぞ……」
自身の可愛さを自覚して、それを武器に訴えて来るのは卑怯と言う他ない。なんとか持ち直したものの、もう少し氷華の言う通りにしようかな、とレオは一瞬傾きそうになった。
「じゃあさ、レオ君の家まで行って夕飯作ってあげようか?」
「――え」
「あっ、冗談だよ? でも、レオ君がいいって言うなら行くけどっ」
レオの驚き具合を見て、無垢な笑顔と共に氷華は直前の台詞を「冗談」へと変えた。しかしながら、その想いは抑えきれずに溢れ出る。
「ねぇねぇ、嫌なの……? どうして? きっと楽しいよ?」
「楽しいだろうけどさぁ……。そんなに簡単じゃないんだ……」
せがむ氷華に押され気味になるも、レオは一貫して拒み続けた。
今やお互いの家に行き来する仲だが、「夕飯作ってあげる」だなんて言っておきながら泊まる気満々なのはレオ的に承諾しかねた。氷華を自分の寝室で寝かせる事への恥じらいはそれほど無いが、その事を親に知られるとなると話は別。「女子が泊まりに来る。ちなみにオレの横で寝る」とか言い出せるはずがなかろう。
友人の家に行って一晩泊まると説明し、レオの方から氷華の家にお邪魔した事は何度かある。だが、そうした理由から、その逆は未だに無かった。
氷華が通い妻化する事の懸念もレオにはあった。彼女の事だから、一度許すと毎日夕飯を作りに来そう……レオはそんな気がしてならなかった。迷惑ではないが、氷華の負担になるし、家政婦のような事はさせたくない。そう言った想いから、レオはやんわりと断った。
「つまんないなぁ……」
またもやお預け。今日こそは誘いに乗ってくれると思っていたので、氷華は思わずぼやいてしまった。
「レオ君、意外とシャイだよねー。前に泊まりに来た時とかそう思った」
「ごふッ――!?」
聞いたタイミングが悪く、麦茶が逆流しそうになってレオはむせた。
◆
ショッピングセンターの近くにはレオ達がよく行くゲームセンターもあり、食後はそこで夕方になるまで時間を潰した。部活も習い事も無いレオと氷華にはちょどいい遊び場だった。楽しいだけでなく、同時に涼む事も出来る。まさに一石二鳥だ。
しかし、帰りは地獄。
灼天がもたらした高熱は夕方に差し掛かっても冷める気配を見せず、市内は依然として纏わり付くような熱気に包まれていた。「外に出るのも危険な暑さ」とはまさにこの事。死人が出るのも納得だった。
アブラゼミが絶えずジリジリと鳴く中、レオと氷華は額から流れる汗を手で拭いながら、残熱甚だしいアスファルトの帰り道を苦悶に満ちた顔で歩き続けた。
快適さを求め、レオは制服のズボンの裾を膝小僧の辺りまでまくり上げていた。夏用とは言え長ズボン。汗でへばりついて気持ち悪いのはもちろんの事、そうでもしなければ、もれなく焼け死ぬ。みっともないと言われようが、やらずにはいられなかった。
虚しい事に、その程度では悪足掻きに過ぎなかった。熱帯地域にでも居るかのような蒸し暑さの前では、何をやっても無意味。レオは隣の女子のスカートが羨ましくなった。
氷華も暑さを和らげようと工夫を凝らす。胸元が見えてしまうので普段は絶対に開けないワイシャツの第二ボタンを外し、スカートをぱたぱたと動かして熱が籠りがちな内側に風を送ってみたりした。
レオにとってはかなり気になる行為だった……特に胸の辺りが気になる。なかなか見せる事の無い色っぽさに、どうしても目が氷華の胸元に行ってしまった。天真爛漫で子供っぽい一面もある氷華だが、その体は十分大人。見るなと言う方が無理である。
(――っ?)
レオの視線に気付いた氷華が不思議そうに見つめ返そうとする……が、レオと目が合う事は無かった。
(レオ君……気になるのかなぁ)
先程からレオが膨らんだ胸を気にしていたのは、氷華もなんとなく知っていた。男の人だから仕方が無いとは思っていたが、意識するとなんだか恥ずかしくなった。夕方の蒸し暑さと相まって、頬が熱くなるのを氷華は感じた。
妙な空気を追っ払おうと、レオと氷華は他愛の無い会話を繰り広げた。一向に去らない暑さを嘆いたり、どんなセミの鳴き声が好きか嫌いかなどを話したりして、互いに気を紛らわせた。
談笑を交わしているうちに二人のほとぼりは冷め、いつの間にか夏休みの話題に移っていた。
「明日の終業式が済んだら、もう夏休みだね~」
「そうだね」
「海行こっか! あたしの水着姿見たいでしょー?」
「まぁ……」
レオは生返事をした。確かに、現役女子高生である氷華の水着姿を想像すれば、元気が出ない事もなかった。汗で素肌がぼんやりと透けて見えるワイシャツの下には、物凄いプロポーションがあるのは確実。そんな彼女と共に過ごせるのなら、特別な時間になる事は間違い無かった。
しかしながら、水着云々よりも、レオは例の事が気がかりでならなかった……。
あまり嬉しそうにしないレオを目の当たりにし、氷華に心配が募る。氷華はなんとかレオを元気付けようと笑顔を振り撒いた。だが、レオに浮かない顔で返され、ますます心配になった。
「……どうしたの? 会えなくなっちゃう訳じゃないんだよ? 夏休みの間もいっぱい高校生の思い出作ろうねっ」
「そうするさ。けど、その後は……?」
「後……?」
何を言わんとしているのか思い当たる節が無く、氷華は困った様子で夕陽に染まり始めた虚空を見つめる。その姿があまりにも善良純朴で、レオは溜め息をつきたくなった。
「……結局、奴らは秋になってもやって来る。オレに対してのちょっかいは殴って止まった。でも、それで終わりじゃない。当分は会わなくて済むが、まだ何も終わっちゃいない……」
あと半年……最悪プラス1年、氷華は虐待に悩まされる。楽しい夏休みを終えた後の事を考えると、レオはどうしても気が滅入った。
(なんだぁ……その事か。レオ君は優しいからね……)
温度差の原因を知り、少々ほっとする氷華だった。
「もういいんだよ、その事は。あの人達だって、いつかは人の気持ちが分かる日が来るって。絶対に」
「どうだか……」
「レオ君の想いは嬉しい。でも、あんまり無理すると、レオ君まで傷付いちゃうよ?」
相変わらずの調子だった。無理してんのはどっちだ……レオはそう言ってやりたかった。
氷華は隠そうとするが、今もあの4人組に苦しめられている事をレオは知っていた。治りかけていたアザに新しい跡が出来ていた事も知っていた……普段は髪で隠しているが、爪で裂かれたような切り傷が首元についていた事も知っていた……左足の痛みに耐えながら歩いている事だって。
氷華はレオの目が届かない所で傷付けられていた。金品こそ奪われたりしていないものの、物理的な攻撃は夏になっても続いていたのだ。バカげた話だが、それが現実だった。
レオに喧嘩を売る事になるのに、どうして氷華に暴力を振るい続けるのか? 逆だ。単純な喧嘩ではレオに勝てないから、氷華を傷付ける事で間接的に攻撃しているのである。嫌いな相手の弱点を見つけた時、人間は悪魔と化す。レオへの鬱憤を晴らすかの如く、彼らは氷華を激烈に痛めつけた。
しかし、氷華は屈しなかった。
レオの姿を想像すると、弱い自分を励ましてくれる。そんなレオがいつでも待っていると思うと、氷華はどんなに辛い痛みも耐えられた。
そして、理不尽な暴力を耐え抜くと、最後はレオの元へと帰って笑みを浮かべた。
レオの為には、自分の笑顔と元気を見せる事が一番だと氷華は知っていた。氷華がレオの前では笑顔を絶やさないのはその為だ。
弱さをさらけ出すくらいなら、楽しい事をレオと一緒にして彼を喜ばせたい。その一心で氷華はレオの隣に居た。時々、想いが空回りする事もあった。それでも、氷華はレオを喜ばせる事に努めた。レオの笑顔が大好きだったから――。
レオの優しさに甘えて弱音を吐きたい時もあった。だが、それでは余計な心配をさせてしまう、と氷華はその都度胸の内で弱い自分を押し殺した。レオを悲しませまいと、氷華は一人で闘い続けた。人知れず……。ひっそりと……。
それを知っていたレオは心が痛かった……棘が刺さったかのようにズキズキした。そうした刺撃はふとした時に訪れる。今のように、氷華が無理に笑顔と元気を振り絞っている時なんかは特に感じた。生傷を見つけて問うまで明かさない時はそれ以上に辛く苦しかった。何度心に棘が刺さっただろうか。
氷華の方をチラリと横目で見ると、それに気付いた氷華がにっこり笑う。複雑な心境でレオも笑みを返した。けれども、やっぱり心の底からは笑顔になれなかった。氷華の前では笑っていたいのに、ちゃんと笑えない……不本意で、レオは重たい息を漏らす。
氷華を苛む連中をどうにかせねば、いつかまた笑顔を奪われる。いつかまた心を鋭い棘で貫かれる羽目になる。そんなのはもう御免だった。では、どうするか? レオはとっくに決めていた。
「氷華がなんと言おうと、やっぱり許せない。明日こそ全員痛めつけて二度と――」
「やめよ……?」
不意に氷華に手を握られ、レオは思わず足を止める。
「もう十分我慢した……! 十分傷付けられた……! お前も、オレも!」
初めて聞くレオの本音。傷付いているのが自分だけではないと知り、氷華は目の前が真っ暗になった。
自分さえ笑顔で居続ければ、レオも笑顔に出来ると思っていた。そう信じていた。……だけど違った。痛みを隠し、笑顔であり続ける事で、逆にレオを苦しめていた。傷付けていた。何もかも間違っていたのだと、氷華は非情な現実に身を斬り刻まれた。
(あた、しだけ……あたしだけ、幸せな思いをしてた……?)
だとすれば万死に値する。「双方の幸せ」を目指しておきながら「片方の幸せ」を享受していたのだから、氷華が抱いた罪悪感は心の光を潰えさせるほどであった。
氷華はこれまでの独りよがりな態度に嫌気が差した。なんて愚かな事をしていたのだと、自身の浅はかさを悔いる。もはや触れる資格無し。名残惜しく思いながらも、氷華は握っていたレオの手を放した。
「ご、ごめん……」
「どうして氷華が謝る……! 額に擦り傷付けて謝んなきゃならねぇのは、アイツらだろ……!?」
氷華に非があると思わせまいと、言葉は全て路面に吐き出し、憎しみを拳に込めてレオは歯を食い縛る。だが、レオが悲しみと怒りを滲ませる原因には、大なり小なり自身も関わっている事を氷華は自覚していた。故に、励ます言葉が出なかった。出ないから、自分の至らなさを責めるしかなかった。
「あたしってダメだなぁ……。笑顔を絶やさなければ、レオ君も笑っていられるって思い込んでた」
「笑える訳、ねぇだろ……」
「そうだよね……。ホント、おかしいよね……。あたし、どうかしてる」
無理して作った笑顔は長続きしない。徐々に笑みを薄め、いつになく氷華は暗い顔を浮かべる。出会った日を彷彿とさせる少女の沈痛な面持ちに、レオはさらに怒りを滾らせた。
「氷華が傷付く必要なんてねぇんだ……。アイツらこそ傷付くべきなんだ……」
「レオ、君……?」
「早く死なねぇかな、アイツら……」
溢れ出るレオの闇。あまりにもどす黒く、氷華は言葉を失い、直視できなくなった。
激しい義憤が引き金となり、この世の全てが気に食わなかった事をレオは思い出してしまった。せっかく氷華が忘れさせてくれていたと言うのに、彼女が受けた暴虐がこの世の現実を突き付けて来た。
「ああ、そうだった。この世界は、ああ言う奴らが巣食ってた。だからいつまで経っても人は傷つけ合い、争うんだった……。代を重ねても、生まれるのは我欲にまみれた獣ばかり。なんの進歩も無い。みんなイカれてるよ……」
包みも隠しもしない黒い言葉の数々。どこまで本気なのか、もはや氷華でも判断しかねた。故に、恐る恐る尋ねる。
「……レオ君は、この世界嫌いなの?」
「このまま何も変わらないんならな」
「……そっか」
氷華は悲しげな眼差しを送るも、それが偽らざるレオの姿だと言うのなら、拒む気は無かった。むしろ、感謝したかった。おかげで、氷華は己が成すべき事を理解した。
絶望に打ちひしがれるレオの気持ちを受け取ると、氷華は淡い夕焼け空を名残惜しそうに仰ぎ見た。
「あたしは、この世界好きだけどなぁ。面白い事いっぱいあるし、楽しい事もあるし、まだまだ捨てたもんじゃない……そう思ってた」
一呼吸置くと、氷華は視線を落とし、普段より少し低いくらいだった声色を途端に冷たくする。
「でも……もういい。大好きだけど、レオ君が苦しむなら、こんな世界滅んで欲しい。それでレオ君が解き放たれて笑顔になれるなら……」
思いもよらない光景に、レオの汗が引いた――あの氷華が怒りに震えていた。彼女が纏う闇はレオのものよりも遥かに濃く、畏怖すら覚えるほど。レオが気付いた時には、溢れんばかりの激情などとうに彼方へ去っていた。
「なっ……どうしたんだ? ……オレのおかしいのがうつったか?」
「レオ君おかしくないよ。おかしいのはここの世界の方なんだよ――」
「ここ、の……?」
「え? ただの言い間違えだよ。えへへ……」
憑き物が落ちたかのように、氷華は普段の調子を取り戻した。そうやってにこやかに言われると、これまでの彼女の言動に奇妙な感覚を抱きながらも、レオは聞き過ごすしかなかった。
なんにせよ、ネガティブな感情が氷華に伝染した感じは今も否めなかった。鬱積した闇は氷華のせいではない。それで氷華を苦しめてはならない。そう思ってレオは深く息を吸って気を静める。
伏し目がちにレオが詫びの言葉を考えていると、ふと何かを思い出したかの如く、氷華がスカートのポケットを漁り始めた。いつもの飴でもくれるのかと思って見ていたレオだが、その予想は外れる事となった。飴なんかではない。もっと立派な物だった。
「レオ君、前に見返り欲しかったとか言ってたよね?」
「なんで今更……」
「この懐中時計、あげるよ」
氷華はレオの右手を取ると、ポケットから取り出した金色の懐中時計を手渡した。予想外の代物を持たされ、レオは困惑で言葉が出ず、硬直を余儀なくされた。
時計の蓋には矢じりに似た模様が描かれており、思わずレオは親指の腹でその凹凸をなぞる。
「この蓋の模様……、お前のペンダントと同じ柄だな」
「あ、うん……」
中を開けてみると、しっかりと秒針が時を刻んでいた。文字盤の右下には方位磁針らしきものも。細部にまで金属の装飾が施されており、素人目から見ても値打ちがありそうだと直感するほどであった。
金色の蓋の裏には、写真を挟み込めるような装飾がUの字に付いており、その真ん中に以前撮ったプリクラの一枚が貼られてあった。サイズが合わなくてどうやら直接貼ったようだった。いかにも氷華らしく、レオの口元が僅かに緩む。
「貰っていい物なのか?」レオはそう氷華に尋ねるも、彼女の答えは変わらなかった。……それでも、レオは素直に受け取れなかった。あの時のお返しなんて、今まで彼女が与えてくれた掛け替えの無い思い出だけで十分だった。
「なーんてね。ちょっと早めの誕生日プレゼント……だよ?」
「早すぎだろ」
見返り云々が唐突だったので、レオの胸奥では妙な感じが渦巻いていた。だが、ようやく謎が解けた。困惑させてからのサプライズ。そう言う事ならレオも納得だった。だいぶ気が早い点を除けば。
しかし、何故だろうか。なんとなくしんみりとした雰囲気が蒸し暑さの中を漂っている。不思議に思ったレオが目線を前に向けると、そこには震える体をこらえ、涙ぐむ氷華の姿があった。
「どうしたんだよ……」
「な、なんでも……」
「……なぁ、本当は大事な物なんだろ? 氷華が持ってなよ」
「ううん、貰ってほしいの……」
そう言われても、この貴品に見合う持ち主になり得そうもなく、レオは漫然と金色の輝きを見つめる。
「そう……。辛い時は、それを見て……」
「それってどう言う――っ!?」
異様な事態にレオの思考が一瞬止まる。
レオが氷華から目を離した瞬間だった。その場から逃げるように氷華が急に駆け出した。呆気に取られてまばたきなんかをしている場合ではない――問いかけるよりも先にレオの体は動いた。
来た道を戻り疾走する氷華をレオは懸命に追った。しかし、その距離は一向に縮まらない。氷華は一切振り返らず、一切何も言わず、全速力で走り続けている。そう簡単に追い付けるはずがなかった。堪らず、レオは声を飛ばす。
「おい! どうしたんだよ!?」
「来ちゃダメッ!!」
(来ちゃダメって、あまりにもおかしいだろ!!)
言動が奇っ怪すぎる――さっきから氷華らしくなかった。誰がどう考えてもおかしかった。別れの挨拶も言わずに去ろうとするだなんてあり得ない。氷華の性格からしてあり得ない。にもかかわらず、現に目の前で起こっている。これを異常と言わずしてなんと言うのか。
虫の知らせか、正体不明の切迫感が電流の如くレオの身体を駆け抜けた。
日常崩壊