第53話 自分の意志で生きる
アスタルを斬れなかった事による恩恵と弊害がある
木目調の床にこぼれる幾粒もの雫。とある家へ訪れたレオは、へたり込んで悲しみに暮れる若い女性をただ見つめる事しか出来なかった。
「どうして……! こんなの、望んでない……!!」
約束と違う。暗殺を叶えてくれなかった事への怒りと失望で女性はつい語気を強めてしまう。
憎っくき夫の仇が生きていた。今朝の報道を知り、女性は生きているのも辛くなるほどの苦しみを味わった。ようやく心が晴れる――依頼が受諾され、安堵感に癒されていた彼女にとっては、夫の死を二度味わったも同然だった。
「あの女、本当に懲りてるらしい。心を入れ替えたかどうか、猶予を与えてみてもいいんじゃないか?」
「夫を死に追いやった女を見逃せと……? 信じろと……!?」
「復讐したい気持ちは分かる。だが、今までのアイツは死んだ。この目で見て来た。もしもあの女が再び闇に堕ちたなら、オレの手で必ず始末してやる。約束だ」
その真剣な眼差しは、絶望の淵から手を差し伸べてくれた時と何一つ変わっていない。夫の命を奪われ、奪った女が生きている現状は悔しかったけれど、親身になってくれた青年の言葉を女性はもう一度信じようと思った。
……しかし、未来が真っ暗で涙が止まらない。夫を失っただけでなく、依頼を出すのに貯蓄まで消えた。命の灯火を守るので精一杯。精神的にも限界……。女性は堪らず助けを乞う。
「……これから、どうやって生きて行けば……。助けてください……」
今にも消えてしまいそうな声をこぼし、肩を震わせる依頼主。助けてやりたいのは山々だった。だが、失われた穴を埋めてやる事は出来ない。その事をレオはよく知っていた。……ただ、生きる希望を見出す方法もレオは知っていた。
いつか前を向いて生きて欲しい、とレオは静かに言葉を紡ぐ。
「最愛の人を忘れずに健やかに生きる。今は難しい事は考えなくていい」
とは言え、生活に不安があってはそれもままならない。そこで、レオは女性が組織に事前に払っていた依頼料分の金を机に出して差し引きゼロにしてやった。
支払った額を遥かに超える量の貨幣に女性は戸惑いを見せる。
「あの……こんなに?」
「討てなかった詫びだ。産まれて来る子の為にでも使ってくれ」
まだ見ぬ我が子を両手で抱え、涙を湛えて女性は頭を下げる。深い感謝を背に受け、レオは何も言わずに立ち去った。
◆
小雨の中、レオは来た道を徒歩で戻った。
だらだらと。時間をかけて。
億劫な感覚から逃げるように……。あてもなく……。
気付いた時には、レオはアイスの家へと続く道を歩いていた。そこでなら安心できるから? いや、彼女の元へ行かねばならない事を無意識に理解していたとしか言いようがなかった。
道沿いに建ち並ぶ三角屋根の家々。見慣れた景色に挟まれ、レオは足を進める。
雨模様の影響か、昼過ぎだと言うのに人通りは少なかった。水溜りを辿る幼い息子と傘を差した買い物帰りの母親。軒下で雨を眺めて話す若い男女。レオが見かけたのはそれくらいだった。誰一人として生き急がず、平和そのものだった。
恵みの霖雨は、迷い獅子の心にも気付きを芽生えさせる――。
(オレは……ようやく正しい道に戻れるのかも知れない)
人間の心に巣食う闇を知らず純粋だった頃は、平和を愛し、人の為を考えていた。その事をレオは思い出した。それがいつしか、住んでいた世界に対する失望と自分勝手な人間に対する憤怒に変容していた事も。それに起因して、良心が徐々に歪になって行った事も。
自分だけがいくら人の為に生きた所で、世界は少しも変わらない。ご褒美はいつだって無力感。善意を踏みにじられた感覚で、なおの事やり切れない。
ただ、なんの成果も得られずとも、レオとしてはそれで構わなかった。見て見ぬフリをする自分が許せないから行動に移していただけに過ぎない。見返りなんて求めていなかった事もあり、変わらない世の中に落胆する事はあっても、報われない事への怒りは湧かなかった。
だが、自分ではない他の誰か――報われるべき人が報われない、あまつさえ虐げられる搾取構造へは烈火が昇った。そこに組み込まれ、都合のいい駒として消費されるのも堪えられなかった。
真面目な人、優しい人が割を食う。
利用され、嗤われ、棄てられる。
そんな世界に、誰が希望を見出せる。
やがて、人の為に何かをする事を諦めて、真に自分の為に生きてやろうとした。時には良心が疼いて人助けをした事もあった。だが、望まぬ社会に適合しては“自己”を失う――。己を偽り、必死に抗った。自我を持つ機械的な人間としてではなく、一人の“自由な人間”として生きる為に。
(その延長線でオレは数多くの悪人を屠って来た。そうやって斬って回る事で、意志を持った自由な人間で居られる、自分の価値を見出せる……と)
この世界にも悪がはびこっている。義憤に駆られ、晴らそうと剣を振るった。何かを成そうとする事も無く、「自分の為」「金を稼ぐ為」と言いながら。心の片隅で、苦しんでいる人が救われるのなら……と。誰かの為になるかも知れない……と。
(“人の為”を諦めたくせに、人を気にかけてた。本心ではそうしたかったから。……そんな生き方のどこが“自由”なんだ)
他人を平気で踏み台にする、私利私欲にまみれた輩を嫌っていた人間が、捻じ曲がって自分の為だけに生きようとした。この矛盾をレオは恥じた。
(自ら進んでこの道を選んだ訳じゃない。この先に、“オレ”は居ない)
景色は違えど同じ道。学生時代に味わった息苦しい環境と現状をレオは重ね合わせる。
人類は皆、自発的に服従するよう教育・矯正されている。社会は人々に圧をかけるまでもない。そうした隷属関係にあると見破り、物言わぬ強制力に屈服しない事で初めて自由を掴める。――この世界に来るまでレオはそう信じていた。
生きる道を自ら選択し、忌々しい社会の支配に抗えていた。そう思っていた。
だが、それは誤りだった。
社会の歪な規律に盲目的に従うと見せかけ、自分の為だけに生きる事は、確かに“自由”を感じられるかも知れない。しかし、そこに居るのは“本当の自分”ではない。真の自由ではない。
ただの自己満足。呪縛から解放された今、レオはその事にようやく気付けた。
そして気付いた。つい最近まで、その時と同様の“何者でもない”生き方をしていた事を……。
(存在意義に囚われて、自ら枷をはめて縛られてた。もう、偽る必要なんか無いんだ。良心に従って自由にしていいんだ)
風に無抵抗に靡く民草になっては、奴隷に甘んじるのと同義。“生”を侵されるのと同じ。自ら死ぬのと同じ。そう思って抗って来た。
人間の本質は「利己」。自分だけが利他を貫いても無駄。……今現在も本当にそうなのか?
社会に適合できなければ肉体を殺され、逆に、社会に適合すれば精神を殺される。どちらを選ぶのも自由だとしつつ、失敗すれば自己責任。誰も手を差し伸べない。誰も振り返らない。そんな理不尽で不条理な世界はもうここには無いではないか。
(ここは、人が人らしく生きられない場所じゃない。この世界に吹く風に逆らう必要なんて無かった)
どうしてかつて居た苦界の歪んだ構造をこの世界にも当てはめようとする。どうして自ら息苦しい生き方をしようとする。闇の中に居たせいで、不条理な環境が続いていると錯覚を起こしていた。人々の根本的な心、常識、価値観……何もかも初めから見誤っていた。自身の視野狭窄っぷりをレオは再認識する。
この世界の人々を信じ、風を背に受け、自分らしく生きればよかったのだ。
かつて暮らした「利己的な強者が利己的な機械人間を作り出す機械仕掛けの監獄」ではない。今は違う。取り巻く社会環境が変わった。世界が変わった。生きる道を自ら選択して行ける。自由なのだ。デリーターから抜けさえすれば。
(結局オレは、あの忌まわしい社会に完全に染まっていたんだ……。これじゃあ、向こうに居るのと同じだろうが。……いい加減、解き放たれて自分らしく行動しろ。……そうだ。素直に生きろ)
閉ざされた現状から抜け出して、帆を張って自分の舵を自分で取る。それでこそ自由だ。
(レールの上で悦びを見出す、主無き奴隷で居るのはもうやめだ。これからは、自分らしく生きる。自由意志を胸に……!)
レオは変わると自身に誓った。自分らしく生きると誓った。
己の力を活かせる場所で。闇の中ではないどこか違う場所で。
人々の平穏を守る為に。大切な人の笑顔を守る為に。
青雷の道しるべがある。もう迷わなかった。
出口へ――。
2025.4.5 文章改良&53話として追加




