第50話 最後の一穿
悪女の末路
女社長アスタルが不思議そうな眼差しをレオに送り、様子を気にかける。さっきから鋭い表情を一切崩さず、不自然なくらいに長々と窓の外を見据えているではないか。気にならない方がおかしかろう。
「どうかしました? せっかくのステーキに手を付けないだなんて……」
「っ、少し考え事を……」
食事を促すアスタルの一言でレオは我に返った。アスタルと食事中だった事などすっかり忘れて、物思いにふけっていた。このままではいけない、とレオは意識を皿の方へと向け直す。それでも、やはりあの時のアイスとのやり取りは頭の片隅で絶えず渦巻いていた。
目の前には手を付けていないご馳走が湯気を立てて輝いていた。きっといい部位を焼いたに違いない。そんな感想を抱かせる、上品に脂の乗ったステーキ。バスケットの中には、香草がトッピングされた馨しいパン。文句の付け所が無い完璧な布陣だった。
今はあまり気が進まないとは言え、これを食べずに下げさせるのはさすがにもったいない。廃棄されると考えるとなおさら。レオは渋々フォークとナイフを手に取り、分厚いステーキ肉を端から切り始めた。
(毒とか入ってないよな……? コイツ、この前オレを逆玉かなんかじゃないかって陰で疑ってたからなぁ……)
食前酒や前菜はなんともなかったが、今回もそうとは限らない。しかし、妙なモノが混じっていたとしても、それに気付くのは容易ではなさそうだった。ステーキを彩るソースの匂いが思いのほか強く、おまけに香草で香りづけされたパンまで用意されている。嗅覚は汚染されているも同然。頼りにならない。
レオは再度気を引き締める。ここはアスタルがセッティングした場所。主導権は彼女にあり、何をするのも彼女の思いのまま。食べ物を粗末にしたくはなかったが、最後まで警戒すべきだった。
レオの勘は冴えていた。実際、アスタルはレオを誘惑しながらも、裏では疑いの目で見ていた。
ある夜、偶然パーティー会場で出会って意気投合した訳だが、偶然を装ってレオが近づいて来た可能性をアスタルは排除しなかった。
これまでに言い寄って来た連中と違って媚びないとは言え、良からぬ企みを背後に抱えている可能性は無きにしも非ず。そう考え、この食事の席でレオの胸奥に眠る本心をアスタルは聞き出したかった。とある薬を盛って――。
(お願いですから、この私を失望させないで……)
純粋に好いてくれて、親交を深める為に関係を続けてくれていたのならそれでいい。その際は心を許し、ディナーの雰囲気を伴い、レオを秘密の別荘へと連れ、酒興の余韻で互いの身体が火照り始める夜更けにでもアスタルは寝床を共にするつもりだった。
しかし、悪心をひた隠し、信頼を勝ち取る為に接触して来たと言うのなら……容赦をする気は微塵も無かった。指を弾いた時が彼の最期だ。
期待半分。警戒半分。アスタルは表にそれらが出ないように振る舞い続けた。
「食事は気持ちを楽にしてするものですよ。リラックスして、ゆっくり味わって食べてください」
「その通りだな……」
魂まで真っ黒な悪女の割にいい事を言う。強張ったままの身体で柔らかな肉にかぶりついて美味しく思えるだろうか? そんな状態で食べ物を口にするのは、はっきり言って食材や生産者への冒涜だ。ミディアムレアのステーキ肉を切り終え、レオは初めから食う資格など無かったのだと悟った。
(とにかく、コイツには顔を見られてる。して来た事もあくどい。生かしちゃおけねぇ……)
見逃すにはあまりにも凶悪。第二第三の被害者が出る前に斬ってしまうべき女である。その上、既に依頼を受けてしまっている。彼女の死を待ち望んでいる弱き者が居る。不本意だろうと始末せざるを得なかった。
(焼き色も肉汁も普通のステーキと変わらない、か……。まぁ、そこまで間抜けじゃないよな。お前は)
さすがに“隠し味”を施してあるかは素人目では判断しかねた。もっとも、その程度で見破れるとはレオもハナから思っていない。彼女が用心深いのはこれまでの交流で分かっている。いついかなる時もボディーガードを側に置いているのが何よりの証拠。アスタルに多少気に入られて、二人きりになる事を許された今が異例なだけだ。
さて、この好機をどうしたものか。
食うのは剣呑。食わねば詰み。アスタルに毒味をさせる為に一芝居打つのもいい。いや、怪しい料理を食べずに済む方法は他にもあった。――この歪な関係を終わらせさえすれば。
(かくなる上は……)
「はい、あーん」
「あの……、なんのつもりですか……?」
あまりにも唐突。レオからフォークの先に付けた肉を差し出され、アスタルは意図が読めず困惑を隠せない。毒を盛った事が勘付かれたとは考えにくく、余計に反応に困らされた。
(見た目や匂いで分かるはずがない……。ある種の“コミュニケーション”と解釈するのが妥当……?)
仮にそうなら、戯れとして受け取り、恥じらいを含んだ笑顔でそれに応じるべきだった。……しかし、ついてない。甘い誘いに乗りたいのは山々だったが、それでは自ら仕込んだ毒を浴びる事になる。
不自然になってはならない。アスタルは気まずそうに振る舞い、レオの要求をやんわりと拒んだ。
「やっぱり恥ずかしいか。退屈させまいと思ってやったんだがな――」
「――ッ!?」
アスタルがやむを得ず顔を背けた、まさにその時だった。光を纏って現れた銀色の刃がアスタルの腹を貫いた。純白のドレスが血のグラデーションで彩られてゆく――。
踏ん張ってどうにか剣を抜こうとアスタルは試みる。だが、その体は椅子ごと剣で貫かれており、抜こうにも抜けない。さらにそこへ激痛が加わり、動こうにも動けない。現状、出来る事はそれほど多くなかった。
そんな反撃の術を持たないアスタルだったが、闘志は未だ潰えず。耐え難い痛みをこらえると、アスタルは裏切り者を鋭く睨み付ける。
「やはり……貴方はッ!」
「悪ぃな。お前がして来た事は見過ごせねぇ」
依頼主の女性は目の前の悪女に夫を殺された。恨まれるべくして恨まれている。依頼を受諾すると告げた時の女性の涙と感謝がレオには忘れられなかった。この女を斬る事で彼女が気持ちに区切りをつけ、再び前を向いて生きてくれるのなら、レオは剣を振る事に躊躇う気は無かった。
「うぐっ……!」
「痛いか? だがな、お前に大切な人を奪われた人達は、今も苦しみ喘いでる……! その痛みはこんな生ぬるいもんじゃねぇぞ……!」
依頼主からは、夫の仇を出来るだけ惨たらしく殺してくれとレオは頼まれていた。だが、あいにく悠長に苦痛を与えている暇は無さそうだった。これから部屋の外の掃除もしなければならない。悲鳴を上げられて事態が厄介になっても困る。
こうして殺害の舞台が整っただけでも上出来。レオは刺した剣をじわじわと捻ってアスタルを呻かせるだけに留め、煌びやかなアクセサリーで飾られた白い首を刎ねるべく瞳を据える。
(せめて、せめていい人間に生まれ変われよ……!)
これで殺人代行も最後だと思い、懺悔の意味を込めてレオは心からそう願った。その直後だった――。
「――っ!?」
剣の鍔にはめ込まれた、蒼穹を閉じ込めたかのような色彩の玉が突如として眩い光を放ち、何もかも青白く照らした。閃光は優雅なムードを醸し出していた部屋の照明を飲み込み、それに飽き足らず、窓を飛び出して闇の帳を切り裂いた。
予想外にも程がある。今日に至るまでこのような事態が起こった例が無い。光を浴びたレオは驚きのあまりアスタルから剣を引き抜き、空いていた左手で鍔を掴んで眩惑を弱めようと試みる。
(どうなってやがる……!?)
そうこうしているうちに、刹那を照らした眩い光は剣の中へと収束し、普段と変わらぬ状態に瞬く間に戻った。混乱が解けず、レオはその場で立ち尽くすしかなかった。
白いドレスが見る見る赤く染まってゆく。アスタルはぐったりと椅子にもたれかかったまま動かない。――しかし、存外しぶとく生きていた。朦朧とした意識の中、アスタルは残された力で縋るようにテーブルクロスの端を握り締める。
成す術なく落下する憐れな食器。床に叩き付けられて砕け散ったワイングラスのガラス片と共に、飲みかけの紅い酒がしぶきを上げる。
握った剣を怪訝な顔で見つめていたレオだったが、ヒヤリとする音でハッと我に返る。不運な事に、目が覚めるような感覚を抱いたのはレオだけではなかった。危険を感じさせる異音を聞きつけ、部屋の外で待機していたアスタルのボディーガード2人が猛烈な勢いで扉を開けて現れた。
「貴様ッ、何をした!?」
白いドレスを赤く濡らし、身動き一つしない主人。高級感とは程遠い食事が散らかった床。武装したボディーガードはその光景を見るや否や、アスタルを守るように土壁を展開。それとほぼ同時に、レオの元に無数の土槍が津波の如く容赦無く押し寄せた。
部屋を埋め尽くすほどの土の量だ。さすがに剣では突破不能。氷撃で対抗しようにも、最大威力になる前に衝突する――確実に押し負ける。敵の出現に飛び退いて身構えたものの、レオの脳裏にすぐさま「撤退」の二文字がよぎった。
(クソッ! 退くしかないのか……!?)
アスタルの生死は確認できていない。彼女のボディーガードも始末できていない。剣が放った謎の光で何もかも中途半端のまま。だが、もはやこれまで。撤退以外の選択肢は無さそうだった。
迫り来る土槍に氷撃をぶつけ、部屋の出口とは反対方向へと駆け出すレオ。その視線の先には唯一の逃げ道――剣で窓を割り、間一髪でレオはビルから飛び出した。
飛び散るガラスの中、レオは体を捻ってビルの外壁に向かって剣を突き刺した。しかし――。
(くっ……! 思いのほか止まらねぇッ……!)
闇夜に激しい火花を散らし、鋭利なナイフで裁断される布の如く建物の分厚い壁が裂かれてゆく。斬れ味が良すぎても困り物。落下の勢いも相まって、ちっともスピードが落ちなかった。
それならば、とレオは外壁に押し当てた足先から氷を生成し、ブレーキ効率を高める。
砕けた氷が煌めき宙を舞う。
氷を生成し続けてやっと止まった頃には、レオの足は悲鳴を上げていた。恐らく、骨折確実の落下速度のまま地上に到達するよりはずっとマシなはず。そう思ってレオは痛みを我慢した。
(氷魔法があって命拾いしたな……)
最悪の事態は避けられ、レオはホッと一息つく。ただ、あまりのんびりしていられなかった。追手の心配は無いが、あれだけの騒ぎを起こした後だ。地上に敵が湧かないとは限らない。
レオは剣を収納すると、建物の周囲に沿って氷の足場を作り始める。その繰り返しで建物から建物へと次々と飛び移って行き、闇の中に溶け込んで姿をくらました。
想定外の事態に見舞われたレオにさらなる想定外が重なる――。
2025.4.5 文章改良




