第4話 歩み寄り
【授業中にトイレに行きたいと申し出た時】
教師A:我慢しろ。
教師B:早く行って来い。
Aの老害感が半端ない……
レオは氷華を保健室に放り込んだ後、途中トイレに立ち寄って、静かに教室へと戻った。
レオが授業中に出歩いていたそもそもの目的は、トイレに行く事だった。厄介な現場に遭遇した挙句、首を突っ込んでしまったので、戻るまでに随分と時間を食ってしまった。おかげで用を済ませて教室に戻った頃には、2時間目の古典の授業は既に終盤を迎えていた。ちょっと授業を抜けて帰って来るつもりだったのに、結果としてサボった形となってしまった。
「やっぱ不良なんでしょっ」
レオが席に着くと、ニヤニヤこっそり隣の女子が囁く。今回ばかりはレオも強く言い返せなかった。サボったばかりか、女子生徒に暴力まがいの事もした。偽悪だったとは言え、彼女が恐怖していたのは事実。一時たりとも不良ではなかったと言えば嘘だった。
この日は体育や美術など気晴らし可能な授業も無く、特につまらない一日だった。終始、受け身の授業。一体これになんの意義があるのだろうか。自分も含めて、きっとロクな大人にならない。そんな風に頭の中で愚痴を垂れ流しつつ、レオはダラダラと授業を受け、最後の5時間目もなんとか終わらせた。
授業終了を告げる最後のチャイムが鳴り響く。ある者はぐったり、ある者は喜びの声を上げ、多くの生徒が月曜日を乗り切った事に安堵した。
疲労感を若干滲ませたレオは大きく息を吐き、短期懲役とも言える学業を終えた余韻に浸った。ようやく牢獄の中の牢獄から解放される……そう思うとイマイチ喜べないが、やっと安息の地に帰れる……そう思えば大いに喜べた。物は言いようである。
帰りのホームルームが終わると、生徒は皆一斉にばらけて行った。部活がある者は部活へ、アルバイトがある者はアルバイト先へ、帰宅組は家路へと言った感じだ。レオもその中に混じって昇降口へと向かった。長居する用事も無いので、放課後のレオは基本的に学校から出る事しか考えていない。
うざったいほど混み合う昇降口から抜け出し、休眠明けのイチョウ並木に挟まれながら、レオは正門を目指して一人歩いて行った。秋には左右が真っ黄色に燃え上がり、歩道に転がる銀杏の香りで辺りは包まれるのだが、まだまだ先の話だ。
(あー、ダルい……)
面倒な事に、レオは見つけてしまった。桜舞う正門の付近で、例の3人組が賑やかに駄弁っていた。残りの悪友は別クラスで姿は見えず、どちらの到着を待ち構えていたかは定かではなかった。
どちらかと言えば、レオの方かも知れなかった。レオを見つけるや否や、彼らはあの時と同じように揃いも揃って気味の悪い笑みを浮かべ始めた。こうなると、無視して通るのは極めて不自然。レオは仕方無く足を止め、向こうから近づいて来るのを待った。
「おい、レオ。あの後どうだった? 楽しかったか?」
「あぁ、上手く調教してやったよ」
予想通りの問いかけに心底うんざりしながらも、レオは平然とした様子で答えた。それを聞いた女子2人は午前中と同様の汚らしい笑い声を漏らし始めた。
「なぁなぁ、写真とか撮ってねぇのかよ? 分けてくれよ」
「はぁ? それをダシにするんだぞ。渡す訳ねぇだろボケ」
言葉から若干の怒りを滲ませるレオ。発言内容は嘘だらけだったが、胸の内で煮える激情だけは偽っていなかった。
「あっはああはは! そろそろあの子、自殺しちゃうんじゃね?」
「死んだら佐々木君、責任取ってくれるんでしょ? あっははあ!」
耳障りな女子達の声がレオの憤怒を増長させる。何がそんなにおかしいのか、レオには微塵も分からなかった。分かって堪るか――このまま笑い続けて死んでくれる事をレオは切に願った。
悪びれる様子も無く、氷華の事も滑稽な笑い話程度にしか捉えていない。これが本当に自分と同じ人間なのか? あまりにも醜く、人間として扱う事すら躊躇われた。自身がそれらと同じ空気を吸っていると思うと、レオは気分を甚だしく害された。
(法が無けりゃ、こんなゴミ共とっくに殺してるよな……)
自分がされて嫌な事を平気で他人にするような人間……レオが忌み嫌う者の一つだ。
全ての善人が、出会う人に分け隔てなく思いやりを持って接しているとは限らない。だが、そうする努力もせず、想像力も働かせず、次は誰かに優しくしようと償いの気持ちを心の片隅にも置こうとしない人間は好きになれなかった。
やり取りを続けるだけ時間の無駄。早く家に帰って休みたかったレオは、適当な事を言ってその場から去った。このまま相手をしていたら、怒りが爆発して殴りかねなかった。
◆
早朝から続いた春の陽気のおかげで、水が張っていた道路はすっかり乾いていた。昼間も日陰だったらしき場所に限り、依然として湿り気が残っていた。とは言え、じきに消えてしまいそうな色をしていた。
西に傾いた太陽が照らす帰り道。レオは橙みのある赤茶色の髪をしたサイドテールの少女を見かけた。レオはその女子生徒を知っている。間違い無く彼女――氷華だった。脚に貼られた絆創膏を見ずとも、後ろ姿ですぐに分かった。
氷華を見つけると、そう言えば途中までは帰る道が同じだった事をレオはふと思い出した。何せ、目立つ頭をしているし、一度目撃すれば忘れない。ただ、今日ほど意識した日はこれまでに無かった。失礼な話だが、彼女の事は、登下校中によく見かける名も知らぬ人物や模様が判別しやすい野良ネコ程度にしかレオは思っていなかった。
レオは僅かに歩調を早めて少女との距離を詰め、ちょうど真横に来た所で声をかけたてみた。少々馴れ馴れしい気もしたが、別に初めて話す訳でもないので大丈夫だろう、とレオは軽い気持ちで接した。
「ど、どうも……」
氷華は小さく呟くと、さっきまで前を向いて歩いていたと言うのに、途端にうつむいてしまった。警戒心丸出し。氷華はレオと目を合わせようとすらしなかった。それどころか、小声で返事をして以降、一言も喋る事は無かった。
まるで初対面。レオの思惑は外れ、とっても気まずい空気が漂い始めた……。
そもそも、二人は出会い方がマズかった。氷華からしてみれば、レオの第一印象は「最悪」「最低」。レオを捉えた瞬間、助けられた事実を上書きするかの如く、強引に扱われた衝撃的な記憶が脳裏をかすめる。それを綺麗さっぱり忘れて、いきなり心を開けと言うのは無理な相談。やむを得ない反応であった。
しかし、話しかけた手前、レオも引き下がれない。このまま追い越したりフェードアウトしたりするのは気持ち悪すぎてレオは出来そうになかった。
(こうなりゃ、無理にでも会話するしかねぇな……)
氷華が歩く速度を落とすので、すかさずレオも歩幅を合わせた。普段大股で歩いているレオにとっては、少しかったるい歩き方だ。それでも、レオは相手との距離を維持し続けた。
(なんでついて来るのぉ……)
氷華は歩調を極限まで緩めてレオから逃れようと試みた。……が、失敗。思惑を悟られてしまったのではと思い、ますます視線を下げる。氷華にとっては万事休すである。
自分の身長――170cmを目安に他人の背を測るレオからすると、158cmの氷華は小柄な方だが、特別小柄と言うほどでもなかった。しかしながら、今の彼女はうなだれながらとぼとぼ歩いている。見た目以上に、レオには小さく見えていた。
正直、レオは氷華がこんなにも大人しい女子だとは思っていなかった。どちらかと言うと、髪色のせいで「やんちゃなギャル」と言う印象を持っていた。後ろにある窓際の席にいつもちょこんと座っているイメージも朧げにあったが、まさかそのままの性格だったとはレオも想定外だった。
(なんにせよ、喋るのが苦手とは思えないな。あれだけ大声を出せるんだからな)
会話の糸口は未だ掴めていない。しかし、黙っていてはどうにもならない。胸に溜まったモヤモヤを晴らそうと、思い付きに任せてレオが口を開く。
「オレをアイツらの仲間だとか思ってんのか?」
「そうかも知れないから……つい」
「あっそ。そいつは嬉しいね」
会話は一瞬で終わってしまい、再び静寂に包まれた。
そもそもこの二人は、今年の春から同じクラスになったばかりで、今日初めて言葉を交わした。これと言った接点が無く、会話をし続けるのは困難であった。……だが、今のはレオが悪い。
心にも無い事を言ったと氷華は一人反省する。レオが彼らの仲間? 違う。同じ不良だからと言って、仲間とは限らないではないか。氷華は今更ながらそう思った。第一、彼は嫌がらせを甘受するしかない状況から救い出してくれた。気付いたら隣を歩いていて驚かされたとは言え、同類だと決めつけるのは最低だった。
(この人は、あたしを助けてくれただけなの……? でも、どうして……)
優しく温かな言葉こそかけてくれなかったが、彼の行いの裏にある温情を確かに氷華は感じていた。それを向けた相手が、どうして見ず知らずの“あたし”だったのか、氷華は気になってやまなかった。こうして自分の歩調に合わせて歩いてくれている事も同様に。
「レオ君……は、どうして助けてくれたの?」
今日、ずっと抱いていた疑問を氷華はぶつけてみた。残念ながら、彼女が期待していた答えは返って来なかった。
「自分の為にやっただけだ。助けときゃ、なんか見返りあるかなって」
「……それ、嘘だよね? だって、あたしを助けたって、見返りなんて貰えるとは限らないのに……。助ける事で、後々自分が標的になるかも知れないのに……」
「っ……」
痛い所でも突かれたかのように、レオはバツが悪そうな顔をする。
見返りを貰えるかも知れないだなんてレオは期待していなかったし、見返りを求めていた訳でもない。あの場に居合わせて黙って見ている事が出来なかっただけだ。だが、「放って置けなかった」とは、とてもではないが小恥ずかしくて口に出せなかった。
しかし、よく考えてみれば、面倒な事に首を突っ込んでしまったとレオは若干後悔した。彼女の言う通り、見て見ぬフリを貫いた方がよっぽど理に適っている。変に正義ぶった事にレオは嫌悪感を抱き始めた。
「レオ君、優しいんだね……。思ってたのと全然違う」
「どこも優しくねぇだろ」
「隠さなくていいよ。あたしには分かるもん」
連れ去られそうになった時は恐怖しかなかったが、今思えばレオの行動は全て偽悪。そうと分かれば当然、氷華の心はレオの方へと傾いた。
「レオ君はもっと自分らしくして、いいんじゃないかなぁ。その方がきっと……」
せっかく氷華が心の扉を開け始めたと言うのに、今度はレオが口を閉ざしてしまった。硬い靴裏がアスファルトの砂利を擦る音が際立つ。おかげてまたこのあり様だ。
このまま終わりまで無言の時間が続くのでは……。気まずさからそんな風に思わされた氷華だったが、隣から不意に声をかけられ少し安堵した。
「なぁ。どうしてさっきから下の名前で……」
何故か氷華は「レオ」呼びだった。保健室で言われた時から、レオは気になりつつあった。学校では以前から名前で呼ばれる事が多々あったが、氷華とは最近知り合ったばかり。その上、乱暴に扱った。違和感と言うほどでもないが、レオはそう呼ぶ理由を唐突に聞きたくなった。
「え、あっ……。確か、学年変わって初日の自己紹介で“名字でも名前でいい”って言ってたからつい」
「ふーん……」
少々照れた様子の氷華をレオは横目で見つめる。かく言うレオも、頭の中では彼女の呼び方は “氷華”だった。珍しい読み方なので、自然とそちらの方で覚えてしまった。お互い様である。
珍しいと言えばその名字もだが、“仄野さん”は頭の中ですら発音しづらく、レオは早々に名前呼びにシフトを余儀なくされた。
「じゃあ、オレも名前で呼んでいいか?」
「う、うん……。お願い、します……」
緊張気味の氷華の気持ちをほぐすなら、ここで一つや二つ微笑んでやるのが筋だろう。レオもそうしたいのは山々だったが、あいにく彼女に言いたい事はそれとは正反対。そうも行かなかった。
「なら、氷華。どうしてあんな奴らに好き勝手させる。嫌なら嫌ってちゃんと言った方がいい。誰かに相談するとかさ」
「そんな人、居ないもん……」
少し前を向き始めた氷華だったが、再びうつむいてしまった。意図せず地雷を踏んだレオ。それでも、めげずに前進を続けた。
「お前、1年の時もこんなだったのか?」
「ううん、違うよ。美樹ちゃんって子と仲良かったんだけど、転校しちゃって。それで、クラスも変わって、友達居なくて……」
「悲しくなるからやめろォ!!」
「聞いて来たのはそっちだよ……?」
そう言い返されるとレオは何も言えなかった。
心なしか寂しそうに見えるのはその為か……とレオは氷華の心境を察した。しかし、だからと言って誰にも助けを求めない理由にはならない。じれったく、レオは頭皮がムズムズした。
「分からん。全くもって分からん。それなら、どうして先生に相談しない?」
「……先生は多忙だし、他の心配事で頭がいっぱいだよ」
だから先生方には迷惑はかけられない。それでは申し訳ない。そんな風に諦めを含んだ言い方をするので、思わずレオは一喝したくなった。氷華がいじめの標的になっている原因が今、レオにははっきりと分かった。
すると、氷華は小さな溜め息をついて、重そうに口を開いた。
「あたしが悪いんだよ、きっと。もっと愛想よくしないとダメだよね……?」
氷華の言葉を聞いてレオは耳を疑った。痛い目に遭った本人がそんな事を言うのはおかしい。どうして被害者である氷華が憂う必要がある。自身の振る舞いを責める氷華に、レオは違和感しか湧かなかった。
「おい……。悪いのは明らかにあの連中だろうが……」
「ううん。あの人達は、ちょっぴり道に迷ってるだけだよ。あたしにもっと愛想があれば、きっとこうはなってない」
「病的なまでにお人好しだな」
皮肉を言われても氷華はニコニコ笑うだけだった。レオには空元気にしか見えず、どこか痛々しく、思わず目を逸らした。
「……アイツらは楽しんでるだけだ。お前が苦しむ姿を見て、楽しんでるんだぞ……。愛想よく振る舞ったって、奴らの邪悪で歪な心が変わる訳じゃない。この問題は続く」
「そうだとしても、いつかは、あたしの気持ちも届くはずだよ。ちょっとしたきっかけで、人の心は変わるから……。そう信じてるから……」
レオは大きく吸った息を全部吐き戻した。
(あり得ねぇよ……どうかしてる)
言う必要も無いのでレオは言わなかったが、そんな甘い考えはこの世界では通用しない――頭の中ではそう氷華に忠告していた。ただ、彼女が人間の可能性を信じてやまないと言うのなら、ことさら辛辣になるつもりはなかった。
西日に照らされた十字路に差し掛かり、肩を並べて静かに歩いていたレオと氷華は互いの様子をうかがった。二人ともここで帰り道が別々になる事を知っている。長かったような短かったような二人っきりの時間が終わる時が訪れた。話題が尽きていたので、ちょうどいいと言えばそうなのかも知れなかった。
レオが足を止めると、それに応えるように氷華も速度を落とした。
氷華の心を気遣うのなら、「また明日ね」などと明日への希望を持たせるような挨拶も好ましい。しかし、互いに無言になってからと言うもの、氷華は一貫して曇った顔をしていた。そして、今もしている。湿っぽい時は湿っぽく別れればいい。レオはそう結論付けた。
「……じゃ、オレこっちだから」
「うん、じゃあね……」
なんとも儚い声だった。あまりにも儚く、路側帯の内側を並んで帰る女子中学生の笑い声にかき消されてしまいそうだった。
春のそよ風が妙に促して来る。ただ、別れ際に手を振るほどの関係でもない。それとなく感じる気まずさから逃れるように、二人は各々の帰るべき道を辿って行った。
代わり映えのしない普段通りの帰路。それなのに、どこか落ち着かず、二人はふと同じ空を見上げる。
氷華と別れて家に着くまでの間、レオは人知れず考えた。どうして他人の為にそこまで身を削る必要があるのか……と。当然、今のレオには考えても分からなかった。
出会ってしまった二人。
ここから物語が大きく動き出す――。