第190話 心に負った深い傷
心の傷は簡単には癒えない
敵は全滅。辺りは本来の静けさを取り戻した。しかし、戦いの残り火は衰える事を知らず、あちらこちらで油を燃料にまだ燃えていた。立ち昇る黒煙が灰色の空と混ざり合う――。
投げ捨てられたナイフが金属音を立てる度に危うさが舞い戻る。静寂の中は実に不安定だった。
血と汗で濡れた手で体に刺さったナイフをレオは抜き終えると、〈修復魔法〉で傷の応急処置を済ませた。……だが、心が負った傷までは治せなかった。その険しい表情は、敵と殺し合っていた時のままだった。
ほどなくして、催眠が解けてシャルが正気に戻った。石畳に座り込んだ少女の目が朧げにレオの後ろ姿を捉える。
血の付いた剣を固く握り締め、燃え盛る炎を見つめて何も語らぬ煤けた大きな背中。感じ取れるのは、悲しみや怒りのみ。すっかり変わってしまった愛しき人の姿を、澄んだ水色の瞳に映してシャルは目に涙を浮かべる。
「レオ……」
「……」
「……」
返事を貰えず、シャルは弱々しい息を吐いてうつむいた。レオが内心怒っている事は嫌と言うほど分かる。自身の起こした事の後ろめたさから、シャルはその背中を見ていられなくなった。
怒りを露わにされないのも寂しいものだ。冷たい孤独感がシャルを襲った。
大切な人が過ちを犯したのであれば、もっと怒ってもいい。本気になって怒る事が本人の為を想っての事なのか否か、本人の為になるのか否かはさておき、怒る事はすなわち、関心がある事の表れである。無関心なら怒らない。
……今のレオにはそれが見られない。シャルはただならぬ恐怖に迫まられた。
「なんで相談しなかった……」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「はぁ……」
疲労感のある溜め息を漏らして剣を収め、レオは静かにその場から立ち去った。うつむいたシャルは遠ざかる気配を追う事無く、残火が散在する生々しい戦いの跡地で座り込んだまま動かなかった。……そうする事しか出来なかった。
大変な事態を引き起こしてしまった。それなのに、レオから発せられたのは冷え切った一言だけ。その事がシャルは何よりも辛かった。心が孤独に押し潰されそうだった。
姉なら側に居て慰めてくれただろうか……? 叱咤してくれただろうか……? いや。こんな目に遭わされたら、姉だって今の自分には何も施してくれないに違いなかった。……握り拳に目をやるシャルの表情が一層暗くなる。
まるで走馬灯のように、レオとの楽しい想い出がぽつりと浮かんでは消えてゆく。
(あたし……捨てられちゃった……。当たり前だよね……。レオを、裏切ったんだもん……)
裏切られて気持ちのいい人間など居ない。裏切ったのが大切な人だったのなら、なおさら気分が悪い。それを一番大切な人に味わわせてしまった。失望させてしまった。愛も信頼も全部焼けてしまったのだとシャルは思い知った。
炎の中で独りぼっち。まるであの日の再来だった。シャルは思い出す。母を失った悪夢の日を……。
失ったものを取り戻すのにどれほどの時間が必要なのか、シャルは無意識のうちに考えていた。取り戻せるはずもないのに……。分かり切った事なのに……。
己のそうした甘さや依存心が招いた最低最悪な結末だと言うのに、まだ抜け切っていない事を認識させられ、シャルは自分が本当に嫌になった。
(虫がいいにもほどがあるよ……。これまで通り、レオの隣に居ようだなんて……)
レオの信頼と期待を裏切っておいて、元通りになろうだなんて厚かましい。考える資格すら無い。愛想を尽かされ、捨てられたのだから……。いい加減、それを認め受け入れるべきだとシャルは歯を食い縛る。
空っぽの心。涙を湛えた虚ろな目。無機質な地面を見つめても満たされるはずもなく、自責の雫のみがひたすら手の甲にこぼれ落ちる。
(お姉ちゃんは、許してくれるのかな……。悪い組織に利用されて、レオを危険な目に遭わせて……。お姉ちゃんもこんな妹、いらないよね……)
背後には朱色の刃。例え側に居たくても、側に居てはならなかった。自ら消えるべきだった。姉を愛しているのなら。
思えばレオの側に居たい一心だった。
だからシャルは捨てた。己自身と、生きる術として“シャルウィン”が身に付けた暗殺術以外の全てを。
……しかし、〈朱の刃〉がそれを許さなかった。
あくどい組織は息を殺し、裏切り者の影を握って掴んでいた。まるで暗がりに潜んだ魔物のように。虎視眈々と、その時を待っていた……。
連絡手段を断ち、自慢の脚で駆け抜ければ突き放せる……そんなのは幻想だった。実際には、全てを捨てたつもりになっていただけだった。平穏な日常を得て安心してしまっていた事が悔やまれた。
二つの温かさを同時に失い、シャルは急に寒気を覚えた。耐えられない。少女は縋るように、震えそうな体を自分の腕で抱き締める。
(あたしの幸せは……また一瞬で消えちゃった……)
世の中には、追いかけても戻らない幸せがある事をシャルは知っている。またしても何もかも奪われてしまった。目に湛えた涙が堰を切ったように頬を伝う――。
「――おい」
「っ……!」
不意の呼び掛けにビクッとシャルは体を縮こまらせる。顔を上げるとそこには、眉間に力を入れた真剣な顔付きのレオの姿が。
「……何してんだ。もう帰るぞ」
「ふぇ……?」
思いもよらない言葉をかけられた。レオを見つめるシャルの瞳からは、涙が溢れて止まらなかった。
「帰る……? いいの……?」
「何が?」
「怒って、ないの……?」
「そりゃ怒ってるに決まってんだろ。相談も無し。目配せも無し。やってらんねぇよ……」
「っ……」
しゅんとした様子でシャルはスカートを握り締める。それだけの事をした自覚がある。拳に力が入るばかりで言葉は何も出なかった。
「でもさ……。オレはそう言う不器用な所も含めてシャルが好きなんだよ。だから……お互いの苛立ちや後悔は数分でいいだろ。もう終わりにしよう」
いつまでも腹を立ててはいられない。いつまでも後悔されては堪らない。何があっても切れない間柄なのだから。同じ家に帰る者同士なのだから。
起きた事実は変わらない。無かった事にも出来ない。だが、区切りをつけ次に進む事は出来る。そして次に進む時、シャルにも隣に居て欲しい。シャルと共に前進したい。そうレオは思うのだった。
その胸の内をレオから告げられたシャルは、スカートを握り締めた両手を震わせる。
「なんで……。なんでレオは、許してくれるの……? ……あたし、レオに酷い事したのに」
「オレだってシャルに酷い仕打ちをした事がある」
「あたしの方が酷いよ……裏切りだもん」
「シャルは話せなかっただけで、オレを裏切った訳じゃない」
相談されず、気付いた時には悪化した事態のど真ん中。その時の気分は最悪に等しかった。だが、別に裏切られただなんてレオは思っていなかった。
シャルを追いかけたのは自分自身の判断だった。何より、シャルに敵対心は皆無だった。全ては愛する人を想っての行動。それが結果として悪い方向に行ってしまっただけ。その事をレオは分かっていた。それに関して責める理由は無かった。
「少しだけやり方がマズかっただけだ。そんなの、人として生きているならよくある事だろ」
なんにせよ、シャルが無事でよかったとレオは心底思う。それに尽きた。
そうした言葉をかけてくれるレオにシャルはありがたみを感じつつも、やはり自責の念は消えそうになかった。シャルは再び視線を落とし、小さく呟く。
「……でも、あたしが悪い。失いたくない大切な人を二人も人質に取られて、何も出来なかった……」
「お姉ちゃんがそんなに簡単にやられるとでも?」
「相手はアサシンだよ!? 何人でお姉ちゃんを襲うか分からない! どんな手を使うか分からない! そんな危険があるのに、お姉ちゃんを戦わせる訳にはいかなかったの……!」
アサシンのやり口をシャルは知っている。シーナに対アサシンの経験が無さそうな事も相まって、シャルは不安で仕方が無かった。経験があるのと無いのとでは全然違う。姉なら返り討ちに出来る、なんて楽観的思考は絶対に出来なかった。
「対アサシンの基本はそいつを殺す事……! お姉ちゃんに人殺しなんて出来ないでしょ! 出来たとしても、させたくない……! 人を殺すのは、あたしだけで十分だよ……。だから! あたしが、どうにかしなきゃって……!」
レオがどう捉えようと、自身の弱さと甘さが招いた事なのだとシャルは悔しさを目元に露にする。
憐憫の眼差しをシャルへと向けるレオ。慰めの言葉は何一つ見つからなかったが、息苦しそうな重たい後悔に混じった“姉への想い”をレオが見逃すはずなかった。
「ホント、お姉ちゃんの事好きだな」
呆れたような笑みをレオは見せると、シャルの側で膝をつき、その小さな体を優しく抱き寄せた。
「シーナに言えないなら、オレに相談してくれてもよかったじゃないか」
「分かってる……分かってた。けど、もしバレたらって思うと……。どっちも失いたくなかった……。失うのが怖かった……。ごめんなさい」
一人で抱えていた不安をぶつけるようにシャルはレオの胸に顔をうずめる。少女の震える体をしっかりとレオは抱き締めてやった。
「オレもごめん。組織から簡単に抜けられない事、知らなかった。見落としがあった。もっと早く気付いていれば」
「ううん、知らなくていい……。レオはアサシンじゃないから、知らなくていいんだよ……」
シャルの愛のある心遣い。それが今回の事を引き起こしてしまったようで、嬉しいのやら水くさいのやら……レオは撹拌された気分だった。
どちらにせよ、シャルのぬくもりにレオは少し安心させられた。あの日の二の舞にならずに済んだのだ。互いの生を身体で感じられれば、それだけで十分だった。
(生きてさえ居れば、また笑い合える。何度だってやり直せる。……本当に良かった)
守りたいものをレオは再確認した。そして理解した。現状を変えねば、彼女を守れない事も。
レオに躊躇いは無かった。覚悟を決めたレオはシャルの乱れた前髪を整えてやると、潤んだ瞳を真っ直ぐ見つめて語りかける。
「思わず“帰ろう”なんて言ったけど、そうじゃないよな。何も終わっちゃいない……。このまま終わらせちゃならない……」
闇の奥深く。背後にはまだ、シャルを悲しませた元凶が居る。シャルを泣かせた奴が居る。黙っていられなかった。黙って帰るだなんて生ぬるかった。
己の成すべき事はただ一つ――。レオの目付きに鋭さが戻る。
「シャル……断ち切りたい過去があるなら、オレも力を貸す。一緒に背負う」
真剣な眼差しがいかに本気かを物語っていた。この人の悲しむ姿はもう二度と見たくないとシャルは思わされた。それと同時に、レオが何を考えているのか、何を言わんとしているのかをシャルは瞬時に悟った。
「オレ達が討つべき敵は、どこに居る……?」
戦いの炎は未だ鎮まらず。闇の帳のその先へと燃え広がる気配を漂わせていた――。
そろそろ用語辞典的なものを作りたいと思いながら何年も経ってる……
気長に待っていてください。いつか絶対作ります(自分でも細かい設定忘れそうなので




