第132話 蛇はどっちだ
アイスは白狼。首輪なんか初めから付けちゃいない。
レオがかつての仲間達から脱退疑惑をかけられ始めて数日が経った。アイスの知る限りでは、依然としてレオを処分するとの決定は下されていない。しかし、抱くべきは安心よりも危機感であった。この日でレオが組織に姿を見せなくなってから約1ヶ月となる。限界を迎え、いつ状況が変化してもおかしくなかった。
今日がその日かも知れない――春陽が差し込んだ寝室でアイスはふと目を覚ます。
頭の中で一日の予定を組み立てながら、アイスは朝の支度を進めた。デリーターの動向がますます気になる所だが、どうやら天はそれを妨げたいらしかった。身支度を終えてアイスが外に出ると、家の前の通りに黒いコートの男が立っていた。
謎の男が黒い帽子を取って挨拶をして来たので、咄嗟にアイスは会釈を返す。
(――CSの工作員?)
初めは何事かと思ったアイスだったが、以前にも似たような出来事があったので今回はそれほど驚かなかった。実に、研究所火災の騒ぎを起こして以来である。
こんな時に限って……! アイスは思わず声に出しそうになる。しかし、こうして呼び出される事は珍しく、予定の立て直しを強いられようが応じない訳には行かない。午前中までに終わるのなら、とアイスは渋々使いの者の指示に従った。
アイスはそのまま王国の中央にある都市〈アイザン〉へと電車で向かった。
連絡事項を伝えに来た工作員は「護衛」と言う名目で、一定の距離を保ち他人を装いつつ、終始後ろからついて来た。そんなもの今更いらないのだがと思いながら、アイスは拒まず、そうしたくなる理由が何かあるのだろうと心の中で疑いを強める。
(CSの“過保護”と言うよりは、“見張り”としか思えないんだよね……)
だが、相手側の事情は分からずじまい。電車内で暇を持て余す立派な護衛に呼ばれた理由を尋ねても、「本部でボスから説明がある」の一点張り。話にならなかった。
(こうなったらローヴェンに直接会って、組織の思惑を密かに探るしかないかもね……)
時間に余裕を持ってCSの本部に着くと、大きなデスクの向こう側でローヴェンが不満げな顔をして待っていた。いつにも増してシワの深い猟犬のようだった。何か気分を害する事でもしてしまったのだろうか? そう思わざるを得ない空気が充満しており、アイスの表情も硬くなる。
(何があったんだろう……)
心の中でアイスが呟くと、それを指摘するようなタイミングでローヴェンが口を開いた。
「呑気だな……」
「あ、いや、すみません……」
呼び出された理由で頭がいっぱいで心を読まれてしまった。このままではマズい。アイスは姿勢を正し、すぐに魔法で対抗策を取った。何かの拍子でレオの事が脳裏に浮かべば一大事――ただでさえ想いがちなのだから、ここからは少しも警戒を緩められなかった。
「最近これと言った重要な報告が無いが、どうした?」
「特に何も起きていないので……」
「ふむ……そうか」
デリーターで何も起きていないだなんて嘘だ。よくもこんなに平然と嘘がつけるようになったものだ……とアイスは自分自身を罵ってやりたくなった。だが、何があろうとレオだけは売れない。解錠不能の保管庫としてアイスは立ち塞がり、レオの秘密を守り抜こうとする。
短い会話の後、不吉なモノでもよぎったかのような静けさに包まれた。目付きを鋭く尖らせたローヴェンが最後の言葉を放ったきり、組んだ手を机の上に置いたまま話そうとしない。
「えと、なんですか……?」
痺れを切らして沈黙の訳を問う。ローヴェンの相手の思考を見透かそうとする目も嫌だが、変な間が絶えず続いているのもアイスは堪らなく嫌だった。
「最近は何も起きていないと言ったな」
「は、はい……」
「巷では“デリーターのレオ”とか言う奴がのさばっているが、どう説明する?」
「っ――!?」
信じ難い言葉を聞き、アイスは両目を見開く。驚いてしまってはローヴェンに隠し事を悟られるのだが、レオの名を耳にして驚かずにいられるだろうか。遂に、アイスが一番危惧していた状況が訪れた。
(うそっ……! 誰かがレオの情報を広めたの……!?)
その名を持つ人物とデリーターを結び付けられるのは、かつての仲間しか居ないはず。どれだけのメンバーが情報漏洩に関与しているかは定かではなかったが、レオが裏切り者の烙印を押されたのは明らかだった。
消去法で情報の出所は即座に絞れた。だが、直後に別の衝撃がアイスを揺さぶった。
デリーター内に、レオの逃げ道を狭めようと陰で画策している奴が居る。アイスにとってこれが衝撃的でないはずがなかろう。アイスはデリーターの動向には細心の注意を払って来た。だと言うのに、こうなったのだから。
(今日までその悪意に気付かなかった……!?)
不覚――無意識のうちにアイスは握り拳を固くしていた。
(ローヴェンの元に既に情報が入ってる事を考えると、レオの存在が広められたのは昨日今日の出来事じゃなさそう……! 一体いつから……!?)
闇よりも深い闇。見えない所で、レオの敵は駒を一手進めていた。焦燥感に悩まされるアイス。そこへ追い撃ちをかけるかの如く、ローヴェンが言葉を強める。
「レオなんて奴は、今までの報告書に記載されていない……一切な。一体どう言うつもりだ?」
そんな人知らない。誰かがデリーターの名をかたってるだけだろ。――とは言えそうになかった。レオの情報が元居た組織から漏らされている以上、徹底的に調べられると安易な嘘では早々にバレる。
(そうなったら、デリーターに肩入れしてると見なされて、CSから命を狙われるのがオチ……! それじゃダメだ! 私にはまだ、やらなきゃいけない事が多く残ってる……!)
その為にも、一時しのぎ的な言葉は使えない。潰えそうな信用を最大限に保ちつつ、この苦境を上手く切り抜けられる、説得力のある上質な嘘が不可欠であった。
「確かに一時期、同名の人物がデリーターに出入りしてました。ただ、接触のチャンスを得られないまま数週間ほどで脱退、消息不明となってしまったので、報告できるような事は何も……。すみません。てっきりデリーターに始末されたものだと……」
アイスは咄嗟に思い付いた最善の嘘で守りを固める。始末されたものだと思い込んでいたと主張すれば、白とも黒とも言えないだろう。そうした判断の末の発言だった。
脱退した人間の生死なんて普通に過ごしていたら知り得ない。整合性は取れている。第一、アイスが探れと命じられていたのは、あくまで“デリーター”の人間。組織を抜け出た奴まで追えとは一言も言われていない。いくらでも誤魔化しの言葉は浮かんだ。
だが、苦しい言い訳なのは変えられない。当然ながら、ローヴェンを納得させるまでには至らなかった。
「確かめもせず勝手な憶測で事を済ませるな……! 情報によれば、奴は今もどこかで生きている……! どうして死んだ事をその目で確認しなかった!? まったく、甘いのは相変わらずか……」
「す、すみません……」
アイスはしょんぼり足元に視線を向ける。演技などではない。アイスは強い口調で叱られるのにあまり慣れていない。性格の事もあってか、畏縮してしまうのだった。
(これだから民間出身は……)
ローヴェンは眼前の気弱な小娘を蔑むように見据える。もっと高く積まれるはずだった信用はあっという間にバラバラと崩れ落ちた。
ローヴェンが民間出身者を嫌うのはそう言う所であった。忠誠心が足りない。扱いにくい。能力を見出して買ってやっても、恩を捨て平気で隠し事をする。そう言う意味では、アイスへの信用など、初めから軟弱地盤の上に立っていた。たった一度の強震で“信用の塔”が半壊するのは必然だったと言えよう。
しかも、ローヴェンにとって嫌な事はそれだけではない。ごく普通の民間出身者であれば、ローヴェンは話し合いにおいて確実に優位に立てる。相手が重要な秘密を腹の中にしまい込もうと、見透かして容易に首を切る事が出来る。それがローヴェンの強さであり、生まれ持った才能。そうやって彼は組織を運営し、存続させて来た。
だが、アイスは数少ない天敵――読心を遮断できる。ローヴェンはある種の癖のように幾度もアイスの懐を探ろうとしたが、結果は散々。今日までの成功体験が通用しない。傷付いたプライドと不満の裏側で、相手の本心が見えぬ不慣れなもどかしさと焦りにローヴェンは苦しめられた。
(一体何を考えている……)
かつての勘から、少女が何かやましい事を隠しているのは確かだった。しかし、普段あるはずの覗き穴は塞がれ、深層にも真相にも辿り着けない。屈辱的だがローヴェンは認めざるを得なかった。上には上が居るのだと――。
(魔法による防衛をやめろと言った所で“プライバシー”を盾に躱されるのがオチ……。最悪、反感を買って今よりも関係を悪化させる可能性もある。短絡的になるのは悪手……か)
ローヴェンは椅子にもたれかかって姿勢を変え、一旦苛立ちを静めた。情報源を畏縮させてしまっては、引き出せる話も引き出せなくなってしまう。それでは呼び寄せた意味が無い。少しでも状況を知ろうと、ローヴェンは普段の口調を心がけて問う。
「脱退した奴の情報は微塵も無いのか?」
「はい……。特に何も掴めませんでした……。顔を隠してましたし、背丈くらいしか。何より、所属していた期間が短かったので」
と、アイスはさもそうであったかのように語った。
レオの容姿を適当な言葉ででっち上げて、存在をカモフラージュする事も選択肢に挙がった。しかし、現状ではあまりにもリスクが高く、アイスは無難な対応をする事にした。
何せ、ローヴェン率いる組織が、どの程度レオの全体像を捉えているかは現段階では明らかにされていない。もしも彼らがレオのありのままの姿を既に把握していた場合、でっち上げは通じず、レオのサポートどころではなくなってしまう。
それよりも、先に述べた虚偽報告――所属期間の短さを利用して「何も収穫は無かった」とした方が、追及されても言い逃れしやすかった。CSがレオの所属期間の長さを知っているだろうか? 否、知っているはずない。確実に、デリーター内部の人間にしか分からない。
(当然、ローヴェンには真偽の確かめようがない……!)
だが、ローヴェンは胸奥に溜め込んだ疑いを強める。
デリーターの状況報告や調査報告のタイミングはアイスにある程度委ねていたが、敵組織内で見過ごせない動きや怪しい変化があれば逐一報告しろと、任務を与えた際に念押ししていた。命令を今も忠実に守っているのなら、どうしてそのような新事実がこの場で出て来る? 何か言えない事情があるのだろうと邪推せずにはいられなかった。
(アンジェラ・アイスレットめ……何故報告を疎かにする。言い付けを忘れるような馬鹿じゃあるまい……)
8人目のデリーターが居るとの知らせを受けた記憶は無く、これまでの書類にも記載は無い。その名が明るみに出てからも、彼女の報告書にはいつだって「変化無し」……怒顔を引っ込めたローヴェンだったが、依然として腹の内は煮えていた。
目新しい情報が羅列されていた当初に比べれば、諜報は鈍化の一途。思わず目を見張りたくなるような知らせを受けなくなって久しい。ローヴェンはそれら全てを大目に見て来たが、我慢にも限界と言うものがある。
レオと呼ばれる人物の所属期間が短かったかどうかの真偽はローヴェンには確かめようがなかった。だが、半人前の部下が以前からその存在を認知していたのは確実。知っていて言わなかった理由が不可解で、不審感しか募らなかった。
(どうして今まで隠していた……? 隠す意味がどこにある……?)
何かまだ知っていて隠しているのでは? 隠しているから読心を恐れているのでは? 一度思うとそうとしか思えず、ローヴェンは一層鋭くした目を気弱な女子に向ける。
この時、態度に反してローヴェンは妙な違和感から胸騒ぎが止まらなかった。
現状、ローヴェンが考えられる「最悪」はこうだ。デリーター陣営に引き込まれた少女がその矛先を変えた。彼女が持ち帰った相手の虚を衝ける内部情報はどれもこれも嘘。全てCSを撹乱する為の出鱈目。もしもそうなら卒倒モノだった。
しかし、それはないとローヴェンは断言できた。送った蛇の毒牙にやられる――そうした事を防ぐ為に、誰の息もかかっていないであろう才能溢れる従順そうな若者を抜擢したのだから。
第一、敵か否か、妙な思想に囚われていないか否かは、大学で接触した日に既にローヴェンは“読心”済み。悪に感化されるような人柄でもなく、悪事に手を染めるような邪心も無しとなれば、鞍替えはあり得なかった。
ローヴェンの胸騒ぎの原因はもっと別にある。
彼女の性格とこれまでの諜報活動からして、少女がデリーターの味方をしているとは考えにくい。だと言うのに、件の人物の事に関しては、そこだけくり抜いたかのように穴が空いている。それが不気味で、ローヴェンは悪寒がしそうだった。
(弱みを握られているのなら、何かしらのサインがあってもいい。それも無し……。となると可能性としては、その人物と接していて情が移ったか、はたまた、そいつとの間に何か特殊な事情があるかだが……果たして)
いずれにせよ、明るみに出たデリーターの詳細を今も隠しているとなると、捉えようによっては、庇っているかのようであった。
(もしや……)
ローヴェンはその可能性を疑ったが、出来る事なら考えたくはなかった。彼女は稀に見る優秀な人材。現に、長年手を焼いていたデリーターの内部に潜入し、溶け込んでいる。その代替を見つけるのは容易ではない。そもそも他に優秀な人間が居たとして、それをCSに引き込めるかどうかは分からない。
しかし、ローヴェンは組織のトップである事も忘れなかった。
切り捨てるには惜しい手駒だったが、その躊躇いが災いして組織崩壊に繋がるような事となれば、失地を取り戻そうとここぞとばかりに闇が勢力を増しかねない。最悪の事態を視野に入れずに何が主導者だ。組織存続の為なら、ローヴェンは逸材の処分も厭わなかった。
無論、早計は禁物。ローヴェンは熟考を終え、再び机の上で手を組む。
「これからは、レオとか言う奴の情報も集めろ」
「でも、組織を抜けてますし、デリーターの対処を最優先にした方が……」
「一度裏社会に足を踏み入れた悪党だ。そして、一度はデリーターと関係を持った人間だ。見逃せない。まだ組織内に痕跡が残っているはずだ。探せ」
アイスは腑に落ちない様子で口をつぐむ。レオの情報収集を行うのなら、元居た組織を探るのが鉄則だろう。ローヴェンは間違った命令は出していない。首輪など初めから付けていないが、今はただ従うしかなかった。
◆
活気に満ちた〈アイザン〉の街。雑然とした賑わいを避けるように、アイスは脇道を一人歩き続ける。その目は心なしか、CS本部の建物を出た時よりも険しくなっていた。
ローヴェンから新たな任務を言い渡されたアイスだが、あれには従えなかった。組織の意図、危機感、それらは理解するが、間違った事をやろうとしている。レオを危険人物として見なすだなんて、レオの人柄をよく知るアイスからしたら納得しかねた。
(レオはもうデリーターじゃないのに……! どうして巻き込むような事するの……!?)
その人の人柄や経緯を勘定に入れず、社会的に危険な組織に所属していたと言うだけで悪人呼ばわり。終いには病的な正義感を働かせ、排除しなければと躍起になっている。CSの懸念はアイスから見れば杞憂でしかない。真実を突きつけてやりたい気持ちで握り拳が震えそうになった。
とは言え、ローヴェンのあの様子だ。レオが心優しい青年だと知った所で、前言撤回はせず抹殺を試みるだろう。頑迷固陋。話すだけ時間の無駄だ。だからアイスはさっさと話し合いを済ませて来た。
先程知った事実を思い返し、アイスは焦りの色を滲ませる。
不幸中の幸いと言うべきか、追加された任務内容から察するに、CSもレオの行方までは分かっていないらしい。今すぐに何かをしなければならないと言う訳ではなさそうだった。それよりも、もっと心配でもっと深刻な懸念材料がある。早急に手を打つべきはそっち――。
(どこまでレオの事が広まってるのかが問題だよね……)
今まで闇に紛れていたはずの“デリーターのレオ”が浮かび上がってしまっている。レオが穏やかな生活を続けられるか否かは、情報拡散の状況次第だと言えよう。
正直、かなり厳しいとアイスは思った。CSがレオの情報を掴んでいるのだから、王国側が知るのも時間の問題。もしかすると、王国軍の方が先にレオの存在を把握しており、CSはそこから情報を手に入れたのかも知れなかった。いずれにせよ、このままではレオは指名手配され、一般市民にも名が知れ渡る。最悪、既に手配書が出回っている可能性も――。
(あぁ……、せっかくレオが穏やかに暮らそうとしてる時に……!)
レオの平穏が奪われようとしている。楽観的に考える余裕は失われたも同然であった。……それでも、アイスは希望を捨てなかった。
レオへの誤解が広まってしまっても、情報を受け取った全ての人間がレオの敵になる訳ではない。世の中、CSのような思想を持った者ばかりではない。“敵意ある者”を少しずつ減らして行けば、どうにか事態を抑えられる希望は僅かに残っていた。
ただし、アイスに協力者は居ない。自分一人で全てをこなそうと思うと、果てしない道のりになる事が予想された。
(でも、やるしかない……! バッドエンドになんか、させない……!)
レオから魔の手を遠ざけ守れるのは、各地を這う“蛇”の気配に気付いている自分しか居ない。そうなるとアイスは居ても立っても居られなかった。そう言う性分なのもあるが、レオへの想いが相まって、無謀だろうがやらずにはいられなかった。
立ち止まり、ふとアイスは青い空を見上げる。レオもどこかで同じ色の空を見ているのだろうか……そう思うと、アイスは胸が締め付けられた。
(レオ……私頑張るから、お願い……。死なないで……)
レオが手にした平穏は誰にも壊させやしない――この日から、アイスの新たな戦いが始まった。
心が読める上司とか、お互いにストレスがマッハでしょうね。
支部に左遷される人が羨ましく見えるレベル。




