第23話 ナミアの世界
いよいよ新天地へ
思考力が完全には戻らず宙を漂う。ナミアの蒼天の瞳により星と暗闇の世界へといざなわれたレオは、どこからどこまでが実際の出来事なのか依然として曖昧なままだった。
「終わりました」
「頭がぼーっとする……」
現実だと思い何時間と見ていた夢が突然途切れ、見知らぬ空間に突っ立っていた事を不意に認識した状態。今まさにレオはそんな感覚に見舞われていた。
「酷な社会で生きて来たのですね」
「脳内、覗いたのか……?」
「致し方ありません。情報を直接与えるのですから」
不可抗力と言うが真偽は定かではない。それでも、レオは腹を立てなかった。ナミアに知られて不都合な情報など今のレオには何一つ無かったからだ。
レオが胸に抱いたのは、噛み砕いたカボチャがようやくズズズと食道から下りたかのような、むしろスッキリとした感覚であった。何せ、かつての息苦しさが“正常”だった事が思いがけず証明された。故に、レオの不機嫌そうな口元は、ナミアに無断で記憶を視られた事に対してではなかった。
「神であるアンタから見ても酷なら、オレはどんだけクソみたいな世界で生きてたんだ……」
「単に私の好みではないだけです。一個人の感想だと思って聞き流してください」
そこに“神”は関係無いのだとナミアは強調した。それを聞きレオは少し冷静になった。大いなる存在を正当化の道具とするのは誤ったやり方である事に気付かされた。「神が言うから何々だ」これでは教典に書かれた言葉を疑わずにありがたがる信者と相違無いではないか。
「……好みじゃないなら、ナミアの世界は違うのか?」
「はい。私が居ますから」
ナミアがそのように発した真意を、この時のレオはまだ知るよしも無かった。文字通りの意味だけではない。大勢の心の中に存在している――そうした意味も含まれていた。
「貴方の居た世界を一言で言い表すなら、“仁愛の喪失が進んだ世界”でしょうか。そうした精神が廃れ、周りを顧みず、自己利益を求める事が正義と化した。……穢れが渦巻く世界です。“神の不在”がもたらした負の連鎖と言わざるを得ません」
ナミアのその言葉は、咎めるべきは人間とは限らない――神そのものが諸悪の根源なのだと暗に言っていると捉える事も出来た。レオにはこれまでに無かった発想だ。そしてふと思わされた。あの腐った環境の形成には人間の設計図が関わっているのだろうか? あるいは……。
なんにせよ、「負の連鎖」はまさにその通りだった。自分さえ良ければいい。自身もそうなりかけた。ある種の病が蔓延していた事をレオは振り返り思い知る。
「もっとも、酷かどうかは人それぞれ感じ方が違うと思いますけど。貴方のように思い悩む者も居れば、些事として片付け人生を謳歌する事に力を注ぐ者も居るでしょう」
「想像力が欠如してる」
「それも一つの生き方です。何かを守る為に見出した……」
レオ……その表情は終始固く、眉根を寄せていた。
他者を顧みない一人の身勝手でどれだけの善良な人間が利用され餌食となる。想像しただけで虫唾が走った。たとえそれがあの世界に適応し生き延びる為の正しい方法なのだとしても、レオは“正しい事”とは認められなかった。
「お茶のおかわりはいかがですか?」
「――って、言ってる側から注いでるし! オレはね、ファミレスとかで水を継ぎ足されたら、腹いっぱいでももったいなくて、ちゃんと飲み干さないとその場を後に出来ない性分なんだよ!」
「知りませんよそんな事……。無理せずそのままで結構ですよ?」
「幸いまだ余裕がある」
行儀が悪いと思いながらもレオは立ったまま茶を飲み干した。
茶自体は美味しかったので別に苦ではなかった。むしろ、着席してしまい、この場に居続ける事の方がレオとしては苦だった。新天地を目前にしてお預け状態。内心そわそわ。「早く行かせてくれ!」と言うのがレオの本音だった。決してナミアの話し相手になるのが嫌な訳ではない。
そんなレオの心情を知ってか知らぬか、ナミアは悠々と話し始める。
「私の教典も入れておきました」
「おいおい、入信しろってか?」
「その気があるならどうぞご自由に。私の事を知ってもらう為のちょっとしたおまけに過ぎません」
確かに、ナミアの世界では“ナミア教”なるものが存在しており、彼女の言う通り信仰は自由らしかった。……ナミアから与えられた知識が“未知の既知”と言う通常であれば起こり得ない感覚をレオにもたらした。
頭の中でレオは『ナミアの教典』を探してみた。辞書のページをぱらぱらと目にも留まらぬ速さでめくり検索すると言った感じではなく、探している単語をピタリと書いてある所で開いて当てる感じに近い。知識を引っ張り出す普段の思考と感覚はそれほど変わらなかった。そして見つけた。
『ナミアの教典』
この世界は、私、ナミアが創りました。皆で助け合い、仲良く暮らしてください。
私の言葉を信じるか否かは各々が決め、お互いを尊重しましょう。
貴方達の思いやりの心は平和を作る力です。皆が忘れない事を願っています。
私はいつも貴方達を温かく見守ります。無期限の愛です。
悩みがあれば天に語り掛けてください。一方通行ではありますが、聞く事は出来ます。
死は怖いものではありません。その先にあるのは新たな旅路です。
しかし、貴方が私の世界で過ごす人生は一度きり。悔いの無いように日々を送ってください。
説教じみた訓示は見られず、人生のヒントを与えるどころか、後方から人々の行く末をただ眺めるかのような、かなりざっくりとした内容であった。
「随分と簡素な教典だこと……」
「どのように生きるか、試行錯誤してこそ人間です。主体性を失わせては本末転倒。教典が思考の枷になってはなりません。真理を説いて従わせる必要など無いのです」
確かに一理ある。そう思った一方で、心のより所が神や宗教でなくてはならない理由があるのだろうかとレオは疑問を滲ませた。どうして“神の言葉”が必要なほどに人間の心は脆弱なのだ? 何かカラクリがあるとしか思えなかった。
「こっちでも宗教か。変わらんな」
「思う所があるようですね」
「ああ。前から気になってたんだが、神は人間の信仰を集めて何がしたいんだ? 主神が教典を創り、住人に信仰心を芽生えさせる最大の理由は?」
突拍子も無い質問だったがナミアは驚かなかった。人間にそう聞かれる事など想定済み。マニュアルにも書いてある。そんな様子で穏やかな微笑みを湛えて微動だにしなかった。
「信仰を集める、ですか。集めているのなら、何故集めていると?」
「養分か、単なる暇潰しか。誰が信仰を多く集められるか神同士と競ってるのか……。対立する宗教観をどうするか見てるのか。それを解決すれば助けてやろうとか、世界がどうなるか賭けをしてんのか……。もしくはさらに上の存在からの指示か……」
人間の想像力が真相にどこまで迫れるかは分からなかったが、レオは考え得るあらゆる可能性を全て言い切った。臆さずに。真剣な眼差しで。
レオの複数の回答に「なるほど」と呟いたきりナミアはしばし考える素振りを見せた。
「信仰させる意図があるのは確かです。ですが、“集めている”は正しくありません。物事を円滑に進めるには軌道となるモノが不可欠だと思いませんか? 神が人々に教典を与えるのはその為です」
「敷かれた軌道はどこに続いてる?」
「その神によります」
はぐらかされた感じが否めない。例の神天法に引っかかるのだと思われた。しかしながら、ナミアが人々の信仰心を対立の火種に利用したり、それを黙認したり是とする神ではない事だけは確かだった。でなければあのような教典は作るまい。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「あれ? “キーツ”って通貨は?」
「お金は自分で稼いでください」
ナミアのにこにこ笑顔とは実に対照的。レオは表情を引きつらせて「マジ……かよ」と思わず言葉を漏らした。必要な物は何もかも事前に支給してくれるはずと言う甘い考えが見事に打ち砕かれた。
「では、こちらへ」
浮遊し滑るように進むナミアの後をレオがついて行く。ほどなくして、レオはナミアの住居の端に連れて来られた。
一帯はまるで雲の上。しかし最も驚くべきは、その遥か遠方を彩る星雲のような空だろう。漆黒の穴を浮かべた光景はこの世のモノとは思えず総毛立つ。どこからどこまでが現実世界なのかレオは分からなくなってしまいそうだった。
残念ながら、目の前の幻想的で恐ろしい光景を間近で確かめる事は叶いそうになかった。垂直方向に白い靄が絶えず流れている事から、一歩先には何も無い。それだけはレオにもハッキリと分かった。
レオはなんとなく下の方を覗いてみた。吸い込まれてゆく白い靄で先は見えなかった。落ちたらひとたまりもない……本能に従いレオは体を引き戻した。
「行かないのですか?」
「え……まさか」
「ここから飛び降りてください」
可愛らしい笑顔で残酷な言葉が告げられた。マゾヒストならよだれを垂らして喜ぶセリフだが、レオはマゾでもなければ、今は苦笑いすら返せる余裕も無かった。
ナミアが「飛び降りろ」と言うのだから死ぬはずないのだが……飛び降りる身としてはやはり心配だった。
「くっ……本当にこっから落ちても大丈夫なのか? 餃子の皮みてぇにぺちゃんこになるのは勘弁だからな……?」
「はい。ぺちゃんこになる前に私が止めますから」
「地表付近で急に止めんなよ? 絶対反動で骨折するからゆっくりだぞ?」
「分かっています。ここから見ているので危険を感じたら言ってください」
ナミアの言葉を信じ、意を決して飛び降りたい所だった……。人間、本能的に高所を避けるものである。レオにとっては「雲に乗れるから飛び乗ってみなよ」と言われているようなもの。躊躇わずに居られるだろうか。
再び下を覗くレオだったがやはり恐怖心が勝った。手に汗が滲んだ。今からやろうとしている事は“紐無しバンジー”。どうしても一歩が出ない。……もたもたしていたのでレオはナミアに突き落とされた。
雲を抜け、レオは物凄いスピードで落下した。
風を切って落ち続ける体は想像以上に言う事を聞かず、回転を止められない。どっちが天でどっちが地なのかもはや判断不能。絶景を楽しむ暇など少しも無かった。
さすがにこのままではマズい――。レオは堪らず思い切り叫んだ。
「――ナミアぁああ!! 吐いちまうぅぅうう!!」
レオの助けを求める声が天に届いた。
ナミアは一つ溜め息をつくとレオの落下速度を緩めた。自力で対処しようとするまで手を貸さないつもりだったが、今回に限り目をつぶる事にした。
落下速度が徐々に弱まり、レオもようやく一安心。せっかくの茶を空中にぶちまけずに済んだ。
しかし、安心したのも束の間。地面まであと少しと言う所で浮遊が解かれ、レオは2mほどの高さから落とされた。受け身を取ろうと思えば取れる高さだったが、油断しきっていた上に、突然重力が加わったものだからレオは対応が遅れた。
「適当すぎんだろ……!」
地面に打ちつけられたレオが天に向かって愚痴をこぼす。すると、ナミアの声がどこからか聞こえて来るではないか。直接耳元で囁かれているようでレオは背筋がぞくっとした。
『ここから先は自身の力で未来を切り開いてください』
「分かってるよ、あんがと」
立ち上がって見渡すと、自然豊かな景色がどこまでも広がっていた。木々はちょうど冬支度の真っ最中。あちらこちらで華やかに燃えていた。春夏は草原一面を花が覆い尽くすのだろうか? 想像もつかなかった。
ひんやりとした風が吹く丘からは他にも様々なものが見えた。右手には青々と広がる海。遠くの街には立派な建物。大空を漂う飛行船に似た未来的な乗り物。近くに目を向ければ、ホタルのように発光する虫、見慣れない野鳥……。見ず知らずの世界に来た事をレオは実感させられた。
「すげぇ……」
土を踏む感触や匂いに感動を覚える日が来るとはレオも思いもしなかった。気分はさながら古い友人との再会だ。見ず知らずの世界ではあるが、あらゆる自然環境がなんだか懐かしい。澄んだ空気をレオは肺いっぱいに取り込んだ。
大地からは豊富な魔力を感じた。息づく世界……天界に居た頃には味わえなかった感覚だった。
身体を巡る生命の源が地を駆ける魔力に呼応しているのか、やけに力が漲った。心臓の鼓動と同様に、己の魔力は意識を向ければ立っているだけでその循環を感じられる。いかに活発になっているかはレオには手に取るように分かった。
今ならどんな困難も打ち破れる気がした。決意を胸にレオは拳を握り締める。
「よーし! アビスゲートだろうがなんだろうが、解決してやろうじゃないか!」
レオの新たな人生の始まりです。しかし、平坦な人生などあるはずもなく……。




