第2話 望み薄
数学好きと古典好きには申し訳ない……
喜ぶべきか、嘆くべきか、足を無意識的に動かしているうちに、レオは先週のように学校に着いてしまった。
桜吹雪が舞う正門を通り、朝練の無い生徒達がのそのそと昇降口を目指して歩いて行く。歩調の速いレオは今日も結構な人数を抜き去って来たが、そもそも家を出る時間が遅い。先客はいくらでも居た。
周りを見回しても、レオのようにワイシャツ姿で登校して来る物好きは見当たらなかった。もっとも、物好きなら他にも居る。本来ならば女子はブレザー、男子は詰襟なのだが、その多くがカーディガンを着て登校していた。
カーディガン登校は厳密に言えば校則違反である。しかし、レオの学校は生徒の自主性を重んじる“緩い学校”で知られている。そうした些細な違反をした所で、大した注意はされなかった。学生生活を謳歌しようと、頭髪を金や茶に染めた生徒なんて当たり前のように各クラスに居る。
これも一つの「校風」だ――そんな風に言って美化してしまえば素晴らしいが、要は無法地帯の一歩手前。校則で雁字搦めにされている他校の生徒がこの光景を目の当たりにすれば、目をこすって凝らして見るに違いなかった。
レオは昇降口で1年生の頃から使っている上履きに履き替えた。言わずもがな、薄茶色の汚れが、純白だった上履きにすっかり染みついていた。何度洗っても落ちないのでレオは諦めていたが、履く分には全く問題無い。今でも十分白いと自分に言い聞かせ、レオはそのまま使っていた。
どうせ履くのはたったの3年間。二度も三度も買うものでもない。そう思えば必然の判断。基本的にレオは綺麗好きだが、倹約思考と合理性が先行するとこのように無頓着となるのだった。
服装に関してもそれは言える。レオの私服はほとんどが白いシャツと黒のズボンだ。他には、下に着るTシャツと夏用のハーフパンツくらいしか持っていない。好きな色を着て過ごせるのなら、流行やバリエーションなんかいらない。レオはそうした価値観の持ち主だった。
昇降口から向かって右の校舎の三階が2年生のクラスとなっており、レオはそこへ向かった。面倒な階段を一段飛ばしで上がって行く。中庭が見える廊下を進み、軽快さを忘れた引き戸を開けてレオは自分の教室に黙って入った。
教室には既に7割ほどの生徒が集まっていた。学友と駄弁っている者も居れば、先週出された宿題を熱心に進めている者も。スマートフォンをしきりにいじっている生徒も多く見られた。
(もはやスマホが本体だな……)
ああなると、人体はスマートフォンを動かす為の付属品。そんな事を思いながら、レオは黒板の真正面にある席から3番目の席に座って、荷物を机の横にかけた。
ちょうど最近席替えをしたばかり。今座っている席が自分のもので合っているのか、レオは若干の不安を抱いた。だが、机の中に手を入れれば、その小さなもやもやはどこかへ飛んで行った。持ち帰り忘れのプリントに救われた。
レオが着席してからおよそ5分。代わり映えのしない学校のチャイムが教室から廊下へと鳴り渡る。朝のホームルームの時間が始まった合図だ。
チャイムが鳴り終わると同時に、クラス担任が扉から入って来た。レオは担任の教師の到着が普段よりも早いような気がした。いつもなら、生徒全員が揃った頃に遅れてやって来る――案の定、何人かが遅れて教室に飛び込んで来た。女子達は悪びれる様子も無く、さも間に合ったかの如く安堵の息を吹きながら自分の席へと向かって行った。
「居る人は返事をしてくださいねー」
生徒らに促すと、担任は黒板の前で出欠を取り始めた。その声は男性にしては高く、歓談が飛び交う教室内でもよく通った。……が、きちんと返事をする者、居るのにしない者、実に様々だった。早速寝ている生徒も居た。
「返事をしてくれる」「してくれない」は出欠には無関係。何せ、返事があろうが無かろうが、先生は逐一顔を上げ、本人がそこに居るかどうか確認している。生意気な事に、年月を経て生徒はそれを知っている。返事を放棄する者が現れて当然だった。
それでも、先生は仏顔で生徒の名前を順に呼んで行く。
そんな光景にレオは心底うんざりしていた。これではまるで動物園だ。教師の威厳を保つ為にも、無反応はいっその事「欠席」にしてしまえとレオは思ってやまなかった。
「……斉藤智也さん、は、欠席でしたね。佐々木レオさん……」
「はい」
やる気の無い返事が出た。そんな返事をするつもりは毛頭なかったが、レオは今日初めて声帯を震わせて声を出した。音量調整と抑揚を誤ってしまった。
「不良みたーい」
不愛想になってしまったレオの返事を聞いた隣の席の女子――宮城野芽衣が、くすくすと笑いを漏らしながらレオに囁いた。まただ――この前も言われた気がしたのでレオは顔をしかめた。
「うっせ。不良じゃねぇ」
「そう言う所だって」
続けざまにくすくす笑う女子。レオの方は何も楽しくなかった。
(……やっぱコイツ、性格悪いな)
レオは内心傷付いた。鏡の前でセットしたかのようなクセのある髪型をとやかく言われるのは慣れっこだったが、不良でもないのに「不良」だとか「不良みたい」だとか言われるのは毎度の事ながら堪えた。
在学中にあと何回その二文字を聞かされる事になるのだろうかと一人思い悩んでいると、いつの間にか朝のホームルームの時間は終わっていた。
1時間目が始まった。
担任と入れ替わるように数学の先生が前の方から入って来た。相変わらず、大剣を背負うかの如く特大の定規を持って来ていた。初見なら、笑いが吹き出そうになる事必至の風変わりな先生だ。悲しい事に、今はもうどよめきすら起こらなくなってしまった。
レオはいつ見ても面白い、この数学の先生を気に入っていた。なお、レオ自身は大の数学嫌いで、数学アレルギーである。身体が拒否するのだ。数式を視界に入れると、何故か身体中がもやもや異常を訴え始め、レオは苦痛を覚えた。これをアレルギーと言わずしてなんと言う。
それはさておき、先生の方も苦労しているのだろうとレオは思わされた。そうやって体を張った所で、授業に興味を持たない生徒はとことん持たない。一言で言えば、大変そう――大変そうだなんて他人事。頭が下がる思いだった。自分なら教師にはならないとレオは密かに思った。
重労働、割に合わない給料、時には生徒から見下され、時にはその保護者から敵視され、おまけに同僚から嫌がらせを受ける事もある。心が休まる暇が無い。いっそ全国でストライキを起こして労働環境と処遇改善を訴えた方がいい。そんな事すらレオは思う。
“改善するべき事”でレオはふと不合理の真っただ中に居る事を思い出してしまった。
因数分解の答えを求めて何になる。将来社会に出たとして、果たして役に立つ日が来るだろうか。否、来ない。成人すれば10回も使わない。折り紙を習う方がよっぽど有意義である。3年生になれば選択授業で確実にその存在を遠ざけられるとは言え、それでは遅い気がしてならなかった。
(どうかしてる……。受験の為の勉強を必死にやらせたって、真に優秀な人材は育たない。その中に素質がある人が居ても、3年寝かせる羽目になる……本末転倒じゃねぇか)
大学入試で必要になるからと言って、学生の貴重な時間を割いて無駄な知識を植え付けるのは非合理的だしイカれている。レオはそう思わざるを得なかった。将来必要となる人だけが数学を学べばいい。どうしてそれが許されない……レオは頭を抱え机に伏す。
数学、古典……それよりも教育すべき事があるとレオは思ってやまなかった。その候補には様々あったが、特に取り組ませるべきは政治だろう――レオは真っ先にそれが浮かんだ。
口癖のように「若者が政治に興味が無い」だなんて大人達は口を揃えて落胆するが、レオから言わせてみれば的外れもいい所だった。興味が無いのではなく、大人達が学び接する機会を奪っている。小中高に居座る既存の“お荷物科目”を一斉に廃し、政治に触れ考えさせる機会を与えればそうはならない。少なくとも、現状よりはマシになるはずだった。
人を伸ばす教育ではなく、人を蹴落とす教育を是とし、受験の為に勉強をさせる――今の教育は根本的に何か間違っている。即刻見直すべき。レオは脳内で続けざまに批判した。
(そうでもしないと、与えられた問題しか解けない、自己利益しか考えない画一的な人間ばかりが出来上がる。じきに、そいつらが偉そうに人々の上に立つようになる。最悪だ。そうなれば国の破滅も近いぞ……いや、もう始まっているのかも知れん……)
要するに、レオは数学をやりたくなかった。
しかし、いくら嘆こうが、いくら正論を言おうが、レオにはどうにも出来なかった。似たような考えを持った少し上の年代が、次世代の為を想って既成概念にヒビを――あわよくば壊してくれる事をレオは願うしかなかった。今のレオに出来る事と言えば、xが何者かを考えて成績を保つ事くらいである。
前列からプリントが人数分配られ、地獄の時間が始まった。
◆
10分の休み時間を挟んで、次の授業が教室の扉からやって来た。
古典の授業はとにかく退屈に感じていた。訳の分からない数式ばかりを書かされる数学よりはマシかも知れない――そんな風に思っていた時期がレオにもあった。残念ながら、同程度であった。
古文なんていつ使う? 過去にでも修学旅行に行くのか? 「古き日本人はこうした言葉を使っていたよ。面白いね」だけで十分なはず。それで興味を持った人は大学で知識を深めればいい。レオがうんざりするのも無理なかった。
それに加えて、古典では先生の野太い声が授業終了まで延々と繰り返される。まるでお経。数学と異なり、眠気を誘って来る。別の意味でもレオは堪らなかった。
開始5分で、睡魔が支配する教室と化した。
レオはいっその事、授業を抜け出したい気分になった。だが、そうも行かない。板書されている和訳をノートに写さなければ、テストに出されて困るのは自分自身。急にトイレにでも行きたくならない限り、この睡眠空間から脱走する事は許されなかった。
(クソが……。牢にぶち込んで学力を競わせやがって……!)
2時間目だと言うのに、周りを見渡せば4割くらいは机に突っ伏して寝ていた。“眠りの魔術師”の名は伊達ではなかった。一方、3割は手元に夢中。しかも、何人か行方不明。
(スマホいじっている奴は何を考えているんだ……。後で泣く事になっても知らねぇぞ!?)
怒りを滾らせ、レオは意識を保とうと試みる。しかし、数十秒もすれば睡魔の囁きが戻って来た。10時半には就寝するレオでも、この空間に潜む睡魔の誘惑に抗い続けるのは辛かった。なんとか眠気を覚まそうと、レオはノートの端に円を描き、なぞり続ける。
(あぁ……なんか宗教みたいだな)
宗教と言えば、昨日の出来事をレオは思い出してしまった。去ったかと思えば、忘却間際で舞い戻って来るだなんてますます腹が立った。
昨日、宗教に心を奪われた二人組の中年女性がレオの家を訪れた。
その日、丸眼鏡ともじゃもじゃのパーマの女性がレオの近所の家々を回っていた。レオが郵便かと思って出迎えたのが運の尽きだった。玄関から顔を出すや否や、レオは無理矢理パンフレットを握らされ、家の前で長々と所属する宗教団体の素晴らしさを聞かされた。
詳しい事は聞き流していたので、レオは内容をほとんど覚えていなかった。……はずなのだが、脳が勝手に反復するせいで徐々に記憶が蘇って来てしまった。会費の一部は慈善活動に使っているだとか……平和の実現の為に説明会に足を運ばないかだとか……綺麗事を並べるだけの心底イライラする内容だった。
あの時レオは思った。そんなに素晴らしい宗教なら、どうして布教をする必要があるのか――と。
真に心を掴む宗教であるのなら、わざわざ広めずとも自然と人が寄って来るのでは? 広めたがるのは、その教えが素晴らしいからではなく、己が信じる宗教とその信仰心を承認される事で、自身の欲求を満たしたいからではないのか? そう思うとますます怪しく思えて、何を聞かされてもレオには綺麗事にしか聞こえなかった。
神や女神を信じないレオだが、居てもいいとは思う。心の中であれ教典の中であれ、居てもいい。それで人々が争わず善人となれるのなら、なんら問題は無いからだ。……だが、それらを使って商売をする者は断じて許せなかった。我欲にまみれた宗教は人を狂わせ、悪意と対立をばら撒く。レオが無宗教たるゆえんだ。
渦を巻く記憶の中、最後の一幕がレオの脳裏に映し出された――。
「神の言葉を聞いた人が居るんです?」レオがそう尋ねると、彼女らは肯定した。虫唾が走り、レオは我慢ならなかった。「神が何を言ったかは、神のみが証明できる。代弁者の言葉などゴミ同然だ」――いかに頑迷固陋であるかを彼女らに言い放ち、レオはパンフレットを突き返して黙って玄関の扉を閉めた。
そんな感じだった――ノートの端に浮かぶ黒い輪郭線の白月を見つめ、レオは一部始終を振り返る。あと2、3日もすれば忘れられたと言うのに、なんて不運なのだとレオは頭を掻きむしった。
先生のお経が教室に響き続ける……。いつの間にか、教室内の雑音などレオには聞こえなくなっていた。
(……この世界はどうもおかしい。「平和が一番」「平和を実現」みんな口を揃えてそう言う一方で、自分の正しさを貫き通そうとし、ある者は争いに加担、ある者は争う事を正当化する。何が平和だ……心にも思ってない事をべらべらと語りやがって)
願うだけで、「人類平和」を実現させる気などハナから無いのでは。レオはそう思えて仕方無かった。本当に人類が皆そう願って行動しているのなら、とっくに世界は平和になっているはずだった。
悲しいかな、現実はそうではなく真反対。
見えぬ形で、支配者と被支配者による戦争が続いている。その上、後者は自身が火薬や燃料そのものである事を知らされない。火炎地獄から這い上がろうともがくほど、忌まわしき戦争を盛り上げ、鎮火を長引かせる。おかげで今や、地球上にその戦火が届いていない地域は存在しなかった。
(いや、本当はみんな気付いてるんだろ……? どうして変えようとしない? おかしいだろ……)
人間社会は何者かが撒いた理不尽の炎に包まれている。教養のある人ならば、とうに違和感に気付いているはずだった。
だと言うのに、人々は社会の潮流に身を任せるばかり。狂った社会構造を本気で見直し、全人類の為に世界を良いものへと変えようと試みる変革リーダーが何故か現れない。何億と増殖を繰り返していながら。妙な話だった。
(そうか……。どいつもこいつも、結局は自分の事しか考えていないんだ……)
確かに、変革の素質を備えた者も居る。だが、根本にあるのは大抵、金だとか地位だとか名誉だとかの自己利益と自己保身。だからこそ搾取の無限ループが、さも当然であるかのように続き、さも極致であるかのように扱われる現状が蔓延しているのでは……。こうして確信に似た感覚を抱けば、レオが名ばかりの変革者に失望するのも無理なかった。
世の中の異様さに気付いてはいるが、どうにも出来ず、無力感に打ちひしがれている。だから立ち上がれない。そうした人が多かれ少なかれ居る事は想像に難くなかった。レオも気持ちは分からなくはなかった。……だが、それでは平和を語る偽善者とそれほど変わらない。せめて、ここに居るのだと声を上げて欲しかった。違和感を抱いた同胞達が圧殺されてしまう前に。
レオは右手で額を冷やすように覆い、思考を一時止めた。レオもまた、抵抗の術を見失った一人。レオは悔しさを覚え、自身にも怒りを募らせる。
人類は揃いも揃って利己に取り憑かれている。あるいは、利己を強いられている者ばかり。程度は違えど、偽善者でない者など一人も居ない。レオはそう結論付けた。そして、人類が平和を願うだけで精一杯な理由がレオには分かった気がした。
(……多くの人間が自己利益を第一に考えて動いてる。……この世は利己主義者で溢れてる。平和を目指すのも、自分の安らかな生活を確保したいだけなのかも知れない。そりゃ平和なんて来る訳がないよな)
人間は結局、原初から受け継がれて来た利己的な判断を元に生きている。いくら平和の重要性を理解していようが、人間の理性は目先の自己利益には敵わない。現代社会のあり様を見れば一目瞭然だ。平和の実現など、根本的に出来ないよう設計されていた。
ある者は人間を神格化し、「人間には理性がある」などと豪語する。だが人間も所詮、普段見下している動物と同じだった。――いや、自然と調和して自由に生きられなくなった時点で、何者でもなくなってしまったのかも知れなかった。
(嫌な世界だよ……まったく)
レオは知っている。中には利他的で心の優しい者も少なからず存在する事も。しかし、彼らは圧倒的に少数派。そして少数であるが故に、力ある大多数に喰われ、花を咲かせる前に散る。レオが最も嫌う事がまかり通る世界――それが〈地球〉であった。
利己的な人間が、もっと強大な利己的な人間に貢ぐ構図。これが崩れない限り、人類は変われそうになかった。果たして、自分が生きている間にこれが覆るだろうか……レオは瞳を閉じて諦める。
(代替え部品になって堪るもんか……。オレは、オレだけの為に生きてやる……)
優しいと割を食うだけ――ならば、社会の規律に盲目的に従うと見せかけ、世にはびこる狂気を常に観察し、真に自分の為に生きてやろうとレオは思った。自我を持つ機械的な人間としてではなく、一人の“自由な人間”として生きる為に。
気休め……そうした言葉も脳裏をよぎった。だが、そうやって反発を繰り返し、真に自分の為に生きれば、レオは張り巡らされた強制力から逃れて自由になれる気がした。野を駆ける獅子の如く、自由に――。
ちなみに私は、大人になってから因数分解を一度も使ってませんw