第1話 ゆとりの無い心
赤黒い空の下、叫喚飛び交う戦場と化した荒野――。
風吹く崖の上から、その惨禍を眺める女性の後ろ姿――。
彼女は喋らず、振り向かず、金色の髪を猛る炎の如くなびかせる――。
時折、そのような短いイメージが起床前の脳内に流れる。いつから見るようになったかは定かではない。
悪夢……? 違う。そうであるなら、懐かしさなど感じず、ハッと目が覚めているはずだった。……だから分からなかった。……だから、現実の世界に戻った頃には薄っすらとしか覚えていなかった。
(……6時半……前か)
日の出の時刻は過ぎており、カーテンで閉め切った二階の寝室を朝日が温かい色で照らす。早起きなスズメの会話も微かに聞こえる。代わり映えのしない朝の風景だ。
レオはいつも6時半にアラームが鳴るようにしていた。だが、ご覧の通り、自然と時計が鳴る前に起きてしまうのだった。平日でも休日でも関係無い。一度はこの時間帯に目が覚めてしまうのだ。忌むべき悪習が身に付いてしまった事をレオは不幸に思った。
(酷い話だよな……)
早起きが出来て偉いと口にする者も居るが、果たしてそうだろうか。現代社会での早起きとはすなわち、訓練の一環である。社会に出て遅刻しない為――させない為の。そうして純粋無垢な若いうちから起床意識を植え付けておく。するとどうだ。早朝出社に耐えられ、時間も守れる、都合のいい人間の完成だ。誰が喜ぶかは言うまでも無い。
病的なまでに働かせたがる世の中に蝕まれて行く過程の最終段階に辿り着きつつある。いい加減、この病から抜け出して、何にも束縛されずに好きなだけ寝たいとレオは思ってやまなかった。
布団のぬくもりがまだ恋しく、レオは姿勢を変えて丸くなる。
土日であれば、このまま二度寝タイム突入である。あいにく、それらは過ぎ去り今日は平日。睡魔に身を委ね、眠りの快楽を得たい願望が湧こうと、起きなければならなかった。登校時間までの猶予は刻一刻と迫っている。億劫でも、気力の無い身体にエンジンをかけて動かさねばならなかった。
もう少し布団の中に居たい。まだ時計は鳴っていない。そんな風に考えているうちに時計の針が6時半を指し、静かな寝室にイライラさせるほど元気なアラーム音が鳴り響いた。レオはすぐさまナイトテーブルに手を伸ばし、大声で鳴き続ける耳障りな時計を黙らせた。
月曜日ってのはなんでやる気が出ないんだ……。心の中でぼやきつつ、寝ぼけた身体を起こして渋々レオはベッドから出た。
まずは用を足しに行く。レオがベッドから出て最初にするモーニングルーティンだ。なお、レオはなんとなく二階のトイレに居心地の悪さを感じるので、わざわざ下りて一階のトイレを使うのが恒例となっている。
例の如くトイレを済ませると、レオは次に洗面所へと向かった。そこで手を洗い、鏡に映る自分のふさふさの髪の毛を整える。手櫛で整えているだけなので大して寝癖は直らないのだが、どれも目立たない寝癖。程よいくせ毛のおかげで一体化するので、ムキになって水で濡らす必要は無かった。レオが自身の髪を「優秀」と自画自賛するゆえんである。
レオの黒茶色の髪は生まれつき、セットでもしたかのように自然と整う髪質をしている。さすがに水を被れば、跡形も無くぺしゃんこになってしまうのだが、就寝程度では自慢の髪型は崩れなかった。
蛇口からぬるい水を出すと、レオはそれを両手で溜める。そして、一気に寝ぼけた顔に当てて眠気を飛ばした。モーニングルーティンも残りあと僅か。濡れた顔を使い古したごわごわのタオルで拭くと、レオは無駄の無い動線でリビングへと入って行った。
なんとなくテレビをつけ、チャンネルをいつも観ている朝の情報番組に切り替え、レオはそのまま台所に直行。カウンターに置いてある食パンを一枚手に取って、それをオーブントースターでこんがり焼き始めた。
普段なら、パンが焼けるまでの間にスクランブルエッグを作ったりもするのだが、誰かさんが卵を買い忘れてあいにく冷蔵庫に無かった。そんな事もあるさ、とレオは脚立に座って芳ばしい香りを嗅ぎながらその時を待った。
数分後、焼き上がった事を知らせる鈴を弾いたような可愛らしい音が鳴る。いい感じの褐色に生まれ変わったトーストを取り出して白皿に乗せ、レオは片方の手にバターとナイフを持ってリビングへ戻った。
席に着くと、今が好機と言わんばかりに、レオはバターをたっぷり塗りたくる。そして、蕩けたバターが乗った焼きたてのトーストを空きっ腹に押し込んだ。殺伐とした社会にある数少ない至福の時だった。
(ふん……またやってやがる)
朝のニュースでは、先日発生した銀行強盗団の事件ばかりが取り沙汰されていた。犯人を取り抑えようとした警備員と建物の外に逃げ出そうとした一般人が銃撃されて死傷した、と言うのが大まかな事件内容だ。未だに犯人達は逃走中なのだとか。
あまりに衝撃的な事件だった為、事件発生以降、各局は朝昼晩と毎日のようにその手の専門家らを呼んで活発に議論を交わしていた。中継を交えて事件の詳細を繰り返し伝える様は、まさにジャーナリズム。
もっとも、それは見かけの話。残念ながら、議論が人々に有益を与えているとは言えそうになかった。何せ、犯人の行方は今もなお特定できていない。インタビューで一部の大衆意見を集めようが、洗練されていないコメンテーターらが見解を述べようが、進展が見込めないのは明白。「無駄な井戸端会議」「全国に不安をばら撒いているだけ」そう非難されても無理なかった。
何より、各局横並びなのが視聴者をうんざりさせる。レオもいい加減、お堅くてマシな報道番組にチャンネルを変える事にした。時計代わりに朝の情報番組を観るのが習慣とは言え、相応しくない内容を延々と報じるようであれば変える。レオとて番組内容を脳死で受け入れている訳ではなかった。
世の中、凄惨で衝撃的な事件は今もどこかで起きているはず……。もっと他に取り上げるべき社会問題もあるだろうに……。どこかでそれが“報道するに値しない”と主観的に判断され切り捨てられているのなら、客観的事実を報じ続けるメディアは日本には存在しないのではないか? などとレオが頭の中で論じていると、時刻はあっという間に進み、家を出る10分前となっていた。
(お、ヤバいな)
レオは使用済みの食器を流しに置いて水に浸け、ついでに冷蔵庫の麦茶も飲み干した。そして、身支度をするべく、一度二階の寝室へと戻った。
部屋着を脱いで制服に着替えたレオ。その見た目は“優等生”とは言い難かった。
ワイシャツの裾を制服の黒ズボンから出したがるレオは、どちらかと言えば“不良”と捉えられがちだ。高校の方でも、どうもそのイメージが定着してしまっていた。本人は授業をちゃんと受けるし不良ではないのだが、第一印象に囚われ誤解したままの者が少なくなかった。
ちなみに、レオはワイシャツの袖を必ずまくる。これだけは誰にも譲れないこだわりだった。
では、冬の登校はどうするのか? 驚くなかれ、冬は高校で指定された詰襟を着る事になっていたが、「学ランを着ては腕まくりがしにくい」とレオは代わりに黒のカーディガンを着用して寒さを凌いでいた。……そう。冬真っ盛りだろうが、レオはワイシャツと一緒にカーディガンの袖口をまくり上げて前腕を露わにする変わり者だった。
まさしく変態。当然、街行く人々や同校の生徒からは冷たい目で見られた。「アラスカ帰り」と言う妙なあだ名まで付けられた。
しかし、それも去年の冬の出来事。
寒空は過ぎ去り、今やすっかり麗らかな春の陽気。ワイシャツで出歩くにはちょうどいい時期だった。レオにとっては腕まくり天国。思う存分シャツの袖をまくれた。もちろん、裸の上に薄っぺらなワイシャツ一枚では、透けるだけでなく肌寒いので、インナーにはTシャツを着て行くのだが。
(しゃあない。そろそろ行くか……)
教科書は全て学校に置いてある。筆記用具など必要な物だけを黒のリュックに詰め込み、レオはすみやかに身支度を終わらせた。
家の電気を全て消した後、玄関でローファーを履き、レオは扉を押して外に出た。微かに花の香りを含んだ爽やかな風が挨拶代わりにレオの頬を撫でる。戸締りをきちんと確認すると、レオは歩いて学び舎へと向かった。
雨上がりの路面は黒く濡れ、点在する水溜りが晴れた空を映し出す。湿気はあったが、やはり春の女神の息吹があるので大して気にはならなかった。
レオが通っているのは、市内で上から4か3番目くらいに名が上がる県立高校だった。不思議なもので、そう言った評判や言葉だけでは優秀に聞こえる。所詮は“市内”での話。県内に数ある優良な生徒を掻き集めた進学校と比べられてしまうとレオも沈黙を余儀なくされる。
とは言え、誰からも愛されていない訳ではない。歴史は古く、行事は盛んで、地元住民からは贔屓にされている学校である。先人達の培って来た功績は確かで疑う余地は無かった。
途中、近所の猫を見かけてちょっかいを出したくなったレオだが、今日は視線を交わすだけに留めた。
高校へは歩いて25分ほどで着く距離だ。自転車通学も許可されているが、手続きが面倒臭そうだったと言う理由で、かれこれ一年レオは歩いて通っている。高校入試の面接では、「文武両道で頑張ります」などとそれっぽい事を語ったが、実際は家から近いと言う理由で志望した。しかも「文武両道」と掲げながら、結局レオは部活動に入らなかった。
(今思えば、とんでもねぇ奴だな……)
電線で羽を休めているカラスの真下に行かないよう、レオは頭上に注意を払いながら歩き続けた。ワイシャツに糞でも落とされたら堪らない。レオがそんな妙な事を思うのも、カラスからの落下物に直撃した中年男性をかつて通学中に見た事があるせいだ。
レオには、目の前で起きたその悲劇が忘れられなかった。あの時すれ違いざまに見えた、悲愴感漂う男性の横顔と来たら……。明日は我が身。あれ以来、必然的にレオは電線の位置に気を付けるようになった。
レオは頭の痒い箇所を指で掻きながら、何年経っても変わらぬ忙しい朝の光景をその瞳に映す。
住宅街故に、各々の一日を始めている者があちらこちらで見られた。適当にゴミ出しを済ませて自転車を漕ぎ出す若者、それを追うように慌てた様子で道路を走って行くサラリーマン、スマートフォンを片手に音楽を聴きながらだらだらフラフラと歩く女子高生……皆、機械のように休まず動いていた。どこからか指令を受け、目的地へと突き進む“自我のある機械”の如く。
似た者同士である事は自覚していた。何せレオ自身も、無意識に学校へと足を進めている。しかしそうだとしても、レオは異様な眼で彼らを見ずにはいられなかった。
(ああもうダメだ……。どいつもこいつも、自分の事しか考えない人間に見える……)
例えば、先程の自転車の若者。ゴミ捨て場付近にゴミ袋を置いておけば、親切な人がきっとカラスよけネットに入れてくれるだろうと言う身勝手極まりない発想の人間だった。
目的地へと急ぐサラリーマンは、何も会社の為に息を切らして走っている訳ではない。遅刻しそうだとか電車に間に合いそうにないだとかの理由で己が為に走っている。目の前に困っている人が現れても、他者に任せて素通りしてしまいそうな勢いだ。
追い越したのろのろ歩行の女子高生は、外部からの情報を全てシャットアウトし、自分の世界に浸っている。レオもその気持ちは分からなくなかった。だが、危険かつ迷惑な行為だと理解していながらスマートフォンの使用をやめないのは“悪”。自己本位の塊としか言いようがなかった。
一見すると多種多様。機械人間には程遠く見える。しかし、誰も彼もがゆとりを手放し、社会が作り出した“歪んだ規律”に従っている。与えられた道を盲目的に進む様が、レオにはどうしても機械的に見えてならなかった。
かく言うレオもその一人。現状に悩まないはずがなかった。
(オレは一体なんなんだ……? なんの為に生まれた……? 金型で乱造される社会の歯車の一部に過ぎないってのか……?)
レオはまるで自身が無価値に思えた。だってそうだろう。「お前の代わりなどいくらでも居る」と言わんばかりに、現代社会は個人の生気を吸い尽くすと、また別の活きのいい傀儡を補填する。世の中、その繰り返しではないか。価値があるようで無価値――レオの目がおのずと鋭くなった。
(いつからこんな事、思うようになった……?)
疑問に思ってはならない禁忌だったのかも知れない。だが、一度考えると当分は頭から離れなかった。
無知ならどれほどよかった事か。猫に生まれたならどれほど幸せだった事か。レオは全てを引き起こした元凶を恨んだ――恨む事でしか己の存在意義を見出せなかった。
こんな感じで書いて行こうと思うので、よろしくお願いします。
文量は1話3,500字~5,000字くらいになりそうです。
2016.11.29 誤字訂正
2017.02.27 誤字訂正&補い
2021.5.30 冒頭表現追加
2022.1.10 文章改良