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Overlap  作者: 二つ葉
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-8-


 葬儀がどうやら終わったみたいだ。部屋の外が騒がしくなっている。これから出棺して、火葬場に向かう。あいつは真っ白な骨になるまで焼かれることになる。俺らはその残った骨を箸で壺に入れる作業しなければならない。

 日本人は大概、火葬される。皮も肉も灰になる。人間は雑食でいわば食物連鎖の頂点ともいえるだろう。そんな存在が最後は土の肥料になると考えると、世界の循環を感じる。たとえそれが、土葬でも鳥葬でも循環は行われている。俺らの今の身体は昔誰かの身体だった。着ている服も、住んでいる家も誰かの身体の循環の果てだろう。

 そう考えると、命の大切さが分からなくなる。一人が死んでも他の生物は続く。個々の命は意味がなく感じてしまう。

 俺はセレモニーホールを出て、外の空気を吸った。暖かい太陽の日差しが気持ちよかった。車が縦列して並んでいる。俺はどの車に乗るべきか知らない。母親に訊こうと思って、その姿を探していると少し向こうに翔がいた。翔は妹の由利を支えていた。由利は一人で歩けないぐらい、泣いていた。翔に寄りかかってここからでも、目と鼻が赤くなっているのが見えた。口をハンカチで押さえ、おぼろげな足取りで車に向かっていた。

 夏凪もそこにいて、翔の逆側から優しく由利を撫でている。俺はあの三人に話しかけることができなかった。どっからどう見ても、360度どの方向から見ても彼らは悲しみに満ちていた。

 遠い。ここからあまりにも遠すぎる。俺は近づけない。あいつらは真っ暗な夜に浮かぶ月のようだ。しっかりと見えているのに、触ることも近づくことすら叶わない。すこしジャンプしてみても、すぐに跳ね返されて地べたにもどされる。手を差し伸べても、無意味に空を切るだけ。

 二木が俺の横を通った。この距離を何とも思わないような普通の足取りだ。夏凪たちの前まで行って、由利の頭にそっと触れていた。由利は顔をあげられず、そのまま三人に囲まれるように泣き続けた。

 俺はあいつらから顔を背け、車の縦列に近づいた。大きなワゴン車に乗り込んでいる人が居たので、「俺も乗っていいですか?」とお願いした。

 俺の顔を見ると少し怪訝な顔をしたが、同じ参列者のよしみで乗させてもらえることになった。一回も振り返ることもしないで、車の奥に乗り込んだ。すでに乗っていた人に会釈をして、窓際に座る。車の中は空調が上手くいっていないのか少し肌寒かった。

 俺は呆然と外を眺めていた。しばらくして車は満員になってドアが閉められた。乗っている人は誰も見覚えがない人だ。あいつの親戚だろう。ゆっくりと車が進む。車内は俺という異物がいるせいかすごい静かだった。俺はあまりの静けさに呼吸の音をさせることすらためらってしまっていた。


 火葬場に着いて、車から降りるとすぐに夏凪と二木に見つかってしまった。翔と由利の姿は見えない。

「ちゃんときたんだね」と夏凪は俺の足元を見ながら言った。

「当たり前だよ。来ないと思ったの?」

 夏凪は二木の方を見た。その視線を受けた二木は、どこか挑発的な態度を俺に向ける。

「俺が『あいつは来ないかもな』とさっき言ったんだ。別にお前は来なくてもいいしな」

「でも、きたから安心した。こなかったらもう、直己のことわかんなくなっちゃうから」

 夏凪は「じゃあ行こ」と火葬場の中に入ろうとする。俺の顔も見ようともしないで、もう歩き始めている。二木はしっかりとにらみを利かせてから夏凪に付いていった。俺も歩き出しはする。

「ここまで来てもよかったんだよね」とつい口からこぼれてしまった。前を行く二人は足を止めたり振り返ることはなかったから、おそらく聞こえなかったのだろう。それならそれでいいけれど、もう少し会話を続けていたかった。



 骨というのは陶器みたいだ。白くて固い、そして軽石みたいな重さがある。形がきれいに残っているものは、滑らかな湾曲が残っていてこれが普通の石ではないことを証明していた。

 骨は一つ一つ箸でつままれて、違う人の箸に渡る。夏凪の横に俺がいる。俺の向こうに翔が。あいつの骨のかけらを夏凪から受け取って翔に渡す。残骸という言葉が頭にちらついた。目の前にあるのはまさに残骸だ。あいつの身体の残骸で、その人生の、夢の残骸。人の最後だ。誰であろうと死ねばこうなってしまう。

 夏凪から受け取ろうとした骨を取りそこねて台に落ちてしまった。パスっと音がしてわずかに灰が舞う。空をたゆたう灰は、静かに俺の服についた。ベルトあたりに白い点々が見える。夏凪が落ちた骨を拾う間に俺は親指で撫でるように掃った。だけど白い汚れは滲むように広がってだけで、取り除くことはできなかった。

 夏凪から骨片を受け取り、翔に渡す。翔が手を震わせているので、俺は落とさないようにしっかりと渡してあげた。

 その永遠とも思うような作業を繰り返し、すべての骨片と灰を骨壺に入れた。小さな壺にすべて入ってしまう。

「終わりだな」と翔が言った。

「まだ、あるよ。これからセレモニーホールで食事がある」

「だけど、もうあいつとは終わりだ」

 翔は台の上に置いてふたもされた骨壺を見つめていた。少し遠くに置かれている。それを眺める翔は、いや夏凪も悟りを開いたかのような顔をしている。泣き疲れたらこんな顔になるとは知らなかった。

「おわりなんだよ」

「わかっているよ。夏凪」

 棺桶に入ったあいつのが、骨になって、それを箸で収納する。生き物がただの物になっていく過程だ。こうして体験してみると、納得感がある。普段食べているものの工場に行って作られた過程を見たような感じだ。すとんと「ああそうなんだ。こうなっていたんだ」と思う。

 納骨が終わって、泣き出した人もいた。そういう人たちは、この納得感があいつの死の実感を与えたのだろう。ここで翔たちのように泣き終えたような顔をしている人たちは、もうあいつがいないことに囚われずこれから前に進めるだろう。そうであってほしい。

「もう、いないんだね」

 まだそこの骨壺の中にいるよと言おうと思ったがやめた。さすがに不快感を与えそうだ。

 俺らはぞろぞろと火葬場から出て行く。左右に翔と夏凪が居るので、セレモニーホールに戻る車は一緒になりそうだ。

 外に出ると、眩しい光が目を焼いた。いつのまにか太陽が頂点に達していている。今日も昨日と同じ晴れだ。秋晴れというよりは少し暑い感じはする。手を目の上に持って行って日差しよけにした。

 トンボが居た。ちらちらと優雅に飛んで、楽しそうに去っていった。ふと俺はズボンに目をやって、灰でできた白い汚れを見た。滲むように広がっていたそれは、トンボの羽ばたきできたような柔い風で飛ばされて薄くなっていた。灰が飛んでいく。空を見上げてみても、灰の煙の姿はどこにもない。けれど限りなく薄くなっていてもそこに存在しているのだろう。

「直己。いくよ」

「わかっているよ」

 俺は夏凪に手を引かれ、一つの黒い車まで連れられる。翔が先に入って、俺は押し込まれるようにして入らされた。そこまで強引にされなくても逃げはしない。振り返って夏凪の方を見るが、また俺の顔から背け下を向いていた。俺を奥に押して、無理やり開いたスペースに夏凪は入った。

「二木はどうするんだ?」

 この車は四人乗りだ。運転席には翔の母親と助手席は由利で埋まっている。後部座席には詰めるようにして俺ら三人が座っているので二木の乗るスペースはない。ここに来るとき二木がこうして座っていたと思う。俺がここに居ていいのだろうか。

「行きと同じ、違う車だ」

「そうか。まぁいいけど」

 問題ないなら問題ない。俺が二木の邪魔をしているわけでないなら別にいい。

 車はすぐに走り出した。もう火葬場に用はないのだろう。ここは燃やすためだけの場所だった。

「直己はどの車に乗ってきたんだ?」と翔が訊いてきた。

「知らない人たちの車に乗せてもらったよ」

「ふーん。そうか」

 そういって翔は黙ってしまった。特に興味もないが、気まずい空気を打開しようと試みただけなのだろう。あまり掘り下げる話題でもなかったと思ったに違いない。

 車の中はカーステレオから流れ出しているラジオの音だけが充満していた。流行りなのか、それとももう廃れた昔のものなのかよくわからない曲調の歌が流れている。口ずさむ人もいない。たまに窓の外を見ている夏凪の方から、ため息が聞こえてくるぐらいだった。

「気まずくはなかったのか?」

「え?」

「いや、知らない人の車に乗って気まずくなかったのか?」

「別に大丈夫だった、けど」

「まぁ。そうか」

 どちらかというと今のほうが気まずい。無理して会話をする必要はないだろう。翔はいつも皆に気を使ってムードメーカーになったり、仕切ったりするところがあった。それは確かにうれしかった時もあるけれど、今は別に静かでもいいと思う。

「直己。その、えーと。骨って白いんだな」

「翔」と俺は言う。あえて翔の方を見ずに前を見て言った。

「なんだ?」

「無理して会話をつなげなくてもいいよ」

 フロントガラス越しで、前の車を見ていた。前も同じ火葬場帰りのお仲間だ。ふと視線を感じてルームミラーを見ると、翔の母親と目が合った。すぐに視線をずらし、下を見る。下のハンドブレーキを見て、俺の靴を見て、手を見る。隣の翔の方から「そうだよな」と聞こえた。その悲しそうな音に思わず手を組んでしまう。結構強く握りしめてしまい指の付け根あたりが痛かった。その痛みからすぐに手を緩めるその自分の手の光景も、下を向いていた自分の目には見えていた。

「よるが明るい」と夏凪がつぶやいた。俺は自分の手を見ているので、どう明るいのかわからない。前か左右どちらかを向けば外の景色は見えるが、向けれる方向がなかった。

 代わりに外の景色を想像してみる。ここは都会のようなビル街ではない。もっと簡素な住宅街だ。明るさと言えば蛍光灯くらい。夜ならばの話だが。

「今は昼だよ」と言うと、少ししてから逆側の翔の方から、「夏凪、寝てるよ。寝言だった」と言われた。

「寝言か」

「時間はずれな夢を見ているんだろうな」

 どんな夢を見ていようが人の勝手ではあるが、寝言を言うならば寝言っぽいものを言ってほしい。思わず反応してしまって、いらない恥をかいてしまう。

「疲れたんだろうな。俺も疲れたし、少し仮眠取るから。直己も寝ていいよ」

「わかったよ」

 しばらくして静かな寝息がカーステレオに混じって聞こえてきた。よく見れば助手席の由利も寝ている。この車の中で起きているのは俺と運転している翔の母親だけになっている。

「直己君も寝ていいのよ」

 おそらくルームミラー越しに俺が起きているのを確認したのだろう。翔の母親は優しい声でそう言ってくれた。行きの時間に鑑みれば、まだ数十分は着くまで時間がかかるだろう。十分に時間はあるが、俺は泣いていないから疲れていない。それにここで寝るのも少し嫌だった。

「俺はまだいいです」と断る。

「そう。別に無理しなくてもいいからね」

「はい」

 俺は着くまで残りの数十分間、ずっと下を向いたまま、カーステレオにだけに耳を傾けていた。好きでもない歌に、面白くもないmc。けれど集中するように聞き入ってみれば、隣の寝息が聞こえなくなるくらいには役に立った。

 寝言ももう聞こえなかった。



 セレモニーホールに戻り、俺は翔に蹴りを入れつつ、夏凪を優しくゆすって起こす。目をこすりながら夏凪は「もうあさなの?」と訊いてきた。

「まだ昼だよ」

 夏凪は車のドアを開け、腰を軸に足の向きを回転させる。両足で地面に着地して、小さく伸びをした。俺は後を次いで、外に出る。

 翔が脛をさすりながら降りてきた。助手席のドアを開けて「おい、起きろ」と由利の鼻をつまんだ。息が詰まったのだろう苦しそうにもがいている。ビクッと体を跳ねさせて、由利は目を開け、すぐにせき込む。

「もっとましな起こし方ないの?」と翔を睨んでいる。

「いつも通りだろ?」

「今日は皆もいるじゃん。皆っていうか、その、夏凪と直己も」

「あいつらに今さら猫かぶっても意味ないだろ。苦しがっているときの顔、おもしろかったぞ」

 由利は車から降りるとき、翔の靴の上に着地していた。踏んだり蹴ったりだな。いや蹴ったり踏んだりと言うべきだろうか。

 俺ら四人を玄関前で下ろすと、車は駐車場の方に行った。このパターンは昨日もあったので、迷うことなくホールの中に入る。

 俺らは最後の方だったみたいだ。すでに料理が乗った大皿が並べてある部屋には多くの人が居る。料理は昨日よりも少しだけ多く、寿司や揚げ物があった。どちらも好物であって、すぐにでも手を伸ばしたい。だがあれはきっと泣き疲れた人たちのための料理なのだろう。俺が手を触れていい代物ではない。

 あいつの父親が会食の挨拶をした。忙しいところおいでくださってや、葬儀も無事におえることができてやら、うわべだけの言葉が聞こえてくる。けれどそれは前もって考えていた言葉だからって揶揄したりはしない。翔や夏凪と同じように疲れ切っている顔を見れば、そういうことは思わなかった。ただ他にも特に思わなかった。ただそれをおそらく素っ気無い表情で見つめていることしかできなかった。

そんなあいさつの後、静かに「献杯」と言った。他の人も唱和するように献杯と言う。よくよく見れば疲れている顔の人は多い。ただそれはあくまでも多いだけであって、全員ではない。

もしここに幽霊になったあいつがいるとして、この葬儀を見ているのならばきっと誰よりも虚しくなったことだろう。幽霊は壁をすり抜ける力を持っているから、ハンカチで隠した素顔を見ることができる。

昨日分かったことだ。本当に悲しんでいる人は顔を隠すのではなくて、口元を隠す。そしてたまに出てきた涙をそっと拭う。そういう風にハンカチを使うものだ。

本当に悲しんでいる人が居ても、その横で俺みたいな悲しんでいない人が居たら台無しだ。ピカソの絵にマジックペンで名前を書くぐらい価値がないものになってしまう。俺だけがマジックペンではなかった。悲しんでいなくて、疲れてもない人が寿司をぎらついた目で見ている。それを見ていると俺はやるせない感情があふれてくる。

実際彼らも疲れているのかもしれない。興味もない葬式に出て、訊きたくもない読経の前で座って悲しんでいるふりをしないといけなかった。泣き疲れよりは遥かに小さいものかもしれないが、少なくとも疲れてはいるのかもしれない。

「直己兄ちゃん」

 雄二が俺に話しかけてきた。まだ幼い顔つきの割には真剣なまなざしだった。

「どうしたの?」

「直己兄ちゃん。ありがとう。さっき教えてくれて。人を殺してはいけないんだって思った。たとえ犯人が許せなくても、どうしようもないくらい悪いやつでも。殺してはいけないんだね」

「そうだね。殺したらそれは犯人がしたことと同じだよ。犯人みたいな人になってはだめだ。悪いやつにも正義の心で対応しないといけないんだよ」

 俺は悲しんでもないくせに、こんなセリフを吐いてもいいのだろうか。嘘つきになってはいないか。俺の言葉に重みはちゃんと入っているだろうか。疑問が残るが、目の前の雄二はまじめな顔でうなずいてしまった。

「うん。ありがとう。直己兄ちゃん」

 俺が言ったのは決して間違いではなかったと思う。けれど他の人が言ったほうがよかったことも間違いない。俺なんかよりも翔とかが言ったほうが確実に深く雄二に諭せただろう。

「そういえば、あのダイニングメッセージって、やっぱりタイムカプセルの場所を指しているんでしょ。まだ解けてないけど。俺、手伝うから。力になれないかもしれないけど」

 最後は尻すぼみになっていた。横で聞いていた翔が「そんなことない。こっちからお願いしたいぐらいだ。頼りにしてるぞ」と逆に協力要請をした。雄二は目を輝かして喜んでいたようだが、すぐにこの場でしてはいけない顔だと気づき悲しい顔に戻っていた。

「じゃあ、またね」と雄二は健三がいる方に行った。手を振って、「じゃあね」と言っていた翔は、くりっと振り返ってこっちを見る。

「随分、かっこつけて良いことを言ったようだな」

「そんなことはない。暴走しかけていたから止めただけだよ」

 二木のせいでと言う言葉は寸前で飲み込んだ。わざわざ言う必要もないと判断したからだ。二木は昨日と同じくふらふらと大皿の方に居て、小皿によせては食べている。

 夏凪が俺の袖を引いた。

「なに?」

「タイムカプセルってなにいれたっけ?」

夏凪の取り皿に載っている申し訳程の寿司を拝借しようとすると、右手でチョップをされた。柔らかい感触しかしなかったけれど、一応痛がって手をさする。

「たいしたもんじゃないよ。俺は手紙とか泥団子とか入れた気がする。夏凪も未来に向けた手紙とか入れたんじゃないかな。あとは『けんぽう』とか入れたよ」

「泥団子いれんなよ」と翔が小さな突っ込みを入れている。夏凪はまた強く俺の袖を二回引いた。とても驚いているのか目が丸くなっている。

「『けんぽう』いれたの?小学校のときとかすっごいさがしてたよ。なくしたもんだと思ってた」

「なんだそれ?憲法?六法全書でもタイムカプセルの中に入れたのか?」

「そんなの入れるわけないよ。『けんぽう』はいわいるルールブック。あれしてはいけないとか、こうするべきとか。そんなの」

 幼稚園の俺らが考えたものだから大したものは書いてない。寝坊はだめ、友達とけんかしてもだめ、ピーマンは食べないとだめ。そういうのを思いつくまま三人で書いていた。今、みんなで決めている屋上を使う時のルールもこういうものがあったからこそ存在している。ルール決めは昔からやっていた。

「なつかしいね。たしかやぶったらいけないんだよね」

「それはそうだろ?」と翔が言う。

「そうなんだけど、バツゲームとかないの。ただ守らないといけないというそれだけなんだよ」

 あの時は『けんぽう』を破っても罰がなかった。今だったら缶ジュースとか、ご飯奢りの刑に処せられるだろう。

「小学校にあがってからないことに気づいて、あたらしく書いたんだよ。全部おぼえていたから」

 夏凪は少しふてくされるように言った。それから少し悲しい顔をして布製の黒いバッグを前に持ってきた。

「じつは今日、もってきてるんだけど」

 バッグを開けると、ごちゃごちゃと色々なものが入っているのが見えた。化粧道具なのか、それとも裁縫道具なのかわかならない。女性のカバンの中身はいつもそうだ。翔と俺の格好を参考にしてほしい。携帯と財布をポッケに突っ込んできただけというシンプルな仕上がりだ。俺は今までこれで困ったことはない。

 夏凪はバッグの中からしきりになっていた一冊の小さな本を取り出した。表紙はピンク色で、赤いマジックペンで「けんぽう」と書かれている。俺らが昔作ったものはこんなにファンシーではなかった。もっと幼稚園らしかったはずだが、夏凪の手によってリメイクされた「けんぽう」は女子小学生特有のかわいらしさに満ちていた。

「っ。かっ、かわいいね」と翔が少し引き気味になっている。俺も同じ気持ちだ。

「でしょ」と夏凪は昔の自分のセンスにご満悦なようだ。

 俺は夏凪から「けんぽう」を受け取って後ろのページからぱらぱらとめくる。一言でいえば懐かしかった。「ああ、こういうのも書いたっけな」とそういう思いだ。一番ページの一番最初の行で俺は目が留まった。「ずっとなかよしでいること」と書かれている。これは記憶になかった。こんなことを決めただろうか。

 俺が固まってしまったことに気づいた夏凪が、上から覗き込んできた。俺の目線をたどったのか「ああ、それね」と言った。

「それ?」

「それでしょ。さいしょのやつ。それはわたしの完全オリジナルです。いいでしょ?」

 夏凪はニコッと聞こえるぐらい爽やかに笑った。俺はギコッと聞こえてしまうぐらいぎこちなく笑いを作る。

「べつにいいけど、ね」

「この『けんぽう』は仮の『けんぽう』だったからね。ほんものがみつかるまでのだったから。わたしの願いをこめて付け加えたの」

「そう、なんだ」

 それは構わないが、夏凪はそう思っていたのか。「ずっと」の有効期限はいつまでだろう。仲良しの範囲はどこまで含むのだろう。二木と俺はどうなるんだろう。いや俺だけの問題ではあるが。あのときあいつは「これから、『ずっと』嫌いだから」って言っていた。夏凪の「けんぽう」では、俺らは仲直りしないといけないのか。夏凪はそう願っているのだろうか。

「なぁ。俺にも見せろよ」と翔が俺の手から「けんぽう」を抜き取った。真剣な顔つきで読み始めた。何か探しているかのようだ。恐ろしく慎重にページを繰る翔の手は、読み終えて本を閉じるときまでわずかに震えていた。

 翔は「けんぽう」を俺に返した。その表情は残念そうな感じだ。探していた物がなかったのだろう。

 二木が俺らの盛り上がりに気づき、こっちに来た。その手には料理が乗ったままの取り皿と、逆の手には箸があった。

「おう。どうしたんだ?」と二木が間に入ってきた。そして見渡して俺の手に持っていた「けんぽう」を見つけた。ちょうど表紙が上になるように俺は持っていた。二木の視線はゆっくりと上にあがり、俺の目を見る。凝視する。穴があくほど見られたせいか、目の奥が痛くなった。

 二木の口が開いた瞬間。

「それではこの辺で閉会にいたしたいと思います」とあいつの父親が閉会の挨拶を始めた。

「もう閉会なんだ」と夏凪がつぶやく。

 先ほどまで睨んでいた二木は、ため息を吐いて料理の皿の方に行った。最後の最後まで食べるつもりなのだろう。夏凪に「けんぽう」を返し、帰る準備をする。この会食が二日にかけて行った葬儀の最後だ。もう葬式はこれで終わりになる。時計を見るともう16時半になっていた。いつのまにこんなに時間が経ったのだろう。

 閉会の挨拶が終わり、俺らはセレモニーホールから追い出される。ここに残る義理もないのでさっさと外に出た。まだ日は出ているが、これからすぐに茜色になっていくのだろう。

「じゃあ、また、明日」と夏凪が手を振った。顔をそむけてもいない。俺のことをまっすぐに見て言った。

「そうだね。またね」

 明日は金曜日だ。まだ学校はある。明日も会うことができる。会えば四人でも仲良く過ごすことができるだろう。

 遠くに二木がいた。誰とも話さず、壁に寄りかかって空を見上げていた。絵になる姿だった。俺は嫌われているとしても別れの挨拶をしようと思った。けれど近づけなくて、俺は背を向けた。それを挨拶ということにした。

「直己、俺のとこの車乗れよ」と近くにいた翔が言う。

 帰れるならばどの車に乗ってもいいが、一応母親たちがいるはずだ。その車で帰るほうが楽な気がする。親友と言えどよその車で帰るのは少し気まずいものがある。そんな俺の考えを無視するかのように翔は俺の背中を押して、車の奥に詰め込んだ。自らも乗り込んですぐにドアを閉める。

「強引だね」

 もしかすると翔は二木とのさっきの挨拶を見ていたのかもしれない。挨拶と言っても背中を向けただけだが。それで気遣っているのだろう。

「まぁいいだろ」

 俺は携帯を取り出して、母親に翔の家の車で帰るとメールした。携帯をしまおうとしたときにはもう返信が来ていた。いつも返信が遅い割に、今回に限っては早い。俺は早速来たメールを開く。サブタイトルはなく、本文がただ一文だけ「気を付けて帰るのよ」と書いてあった。

 なんに気を付ければいいのだろう。翔の車で送ってもらうだけだ。俺に何に向かって注意を払えと言っているのか見当がつかない。

 車の中の気温が下がった気がする。その原因がクーラーによるものだと少ししてから気づいた。

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